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2007年1月30日 (火)

「戦争の日本史2・壬申の乱」

天皇の位がむき出しの武力で争奪された希有な例のひとつが壬申の乱だと言えるだろう。これに比肩できるのは(有史以降では)南北朝くらいかな。源平の争乱のときも武力の所在が皇位を左右したけれど、皇位そのものが目的というわけではなかった。
しかし壬申の乱の経緯については意外に史料が少ない。まず指を折るべきはもちろん日本書紀天武天皇上だが、完全に勝者側の立場に立って記述されているし、依拠した原史料はそれほど多くないらしく意外に記述が簡単でしかも粗密の違いが甚だしい。後代になって現れた史料の記述はむしろ説話というべきでどの程度信を措けるかわからない。なかには明らかに弘文天皇と天武天皇を混同しているものもあるそうだ。
そんな具合だから個々の戦闘場面はほとんど実質的な記述がない。せいぜい瀬田橋をめぐる戦いに関して少しあるくらいだ。結局、ほとんど唯一とも言える史料である日本書紀に依拠してこの乱を分析するにしても戦略的政略的な観点でしか行なえない。まあそれでも例えば磐井の乱なんかに比べればかなり記述が多いのだが。

この著者は、乱のもっとも強力な推進者として最大の受益者を想定している。それは皇位を得た天武天皇ではなく、天武天皇の後継者として草壁皇子の地位を確立させた後の持統天皇である、としている。大友皇子と天武天皇を比べたとき、当時の考え方からすると天智天皇の後継者として圧倒的に天武天皇が有利であった。だから天武天皇には危険を冒してまで叛乱に訴えるメリットはそれほど大きくなかった。しかし天智天皇から天武天皇へと円満に皇位が継承された場合、持統天皇所生の草壁皇子よりも、持統同母姉の太田皇女所生大津皇子や、その他の天智系皇子孫が有力な天武後継とされる可能性が高い。その可能性を排除するために、大友皇子を首班とする近江政府を武力で転覆するというリスクをあえて負った、というのである。
そこまで持統天皇が先を読んで乱に踏み切らせたかというと、どうも三十一の感覚では後智慧が過ぎるような気がする。持統が積極的であったことは確かだけれど、そこまで主導的であったかどうかは保留としたい。

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