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2009年3月 8日 (日)

「幕末の将軍」

去年の大河ドラマでちょうどこのあたりをやってましたね、そういえば。

幕末の政局の中で鋭い対立を生んだ論点はいくつかあるが、徳川将軍家に直接かかわる対立点のひとつが、よく知られた十三代将軍家定の後継者だ。
"年長・賢明"の一橋慶喜を推す一橋派に対し、"近親"の紀伊慶福(のち家茂)を推す南紀派の対立は、巷間「開明派vs守旧派」とみなされているが、ことはそう単純ではない。当時の政治制度において、血統のしめす意味はけして小さくない。権威の、そして正統性の源泉を血統に求める意識は非常に強固であった。

初代徳川将軍・家康から秀忠、家光と続く嫡系子孫は七代にして絶え、紀伊家の吉宗が八代将軍として本家をついだ。以後の将軍のほぼすべては吉宗の子孫である。これ以後は吉宗の子孫が「正統」とみなされることになる。吉宗のあとは家重、家治とついで、その後は吉宗の曾孫にあたる家斉が十一代将軍となる。家斉は半世紀にわたり将軍職にあり、寛政・あるいは文化文政といった爛熟をもたらして幕府の最盛期と後年みなされるようになった。また、あまたの子女を親藩やときには外様大名家のあととりとし、水戸藩以外の御三家御三卿がほとんどすべて家斉の子孫でしめられることとなった。

その、家斉の子孫を受け入れず頼房以来の血統を固守してきた水戸家の出身なのが慶喜である。慶喜の父である烈公斉昭も(家斉をみならったのか)子だくさんで、同じように他家に養子に送り込まれた。しかしいくら水戸家の御曹司といえども、将軍後継となり得る御三卿をつぐことになったのは破格の取り扱いだった。これには、将軍の勘気をこうむって天保15(1844)年に隠居謹慎を命じられた斉昭の復権という事情も絡んでいたらしい。しかしこのとき(弘化4年/1847年)慶喜が一橋家をついだことが20年後の十五代将軍就任につながった。さもなくば水戸家の七男坊として部屋住みの身をかこつことになるか、あるいはどこかの大名家の養子に押し込まれて幕末の政局に翻弄されることになるかがせいぜいであったろう。

つまり、1858年という段階で家斉の孫、家定のいとこという「由緒正しい」血統の持ち主である紀伊慶福をさしおいて、家康の十代の子孫という世間でいうならまったく赤の他人としか言えない程度の血縁でしかない慶喜を後継とするのは、まったく無理であった。家定自身が慶喜を嫌っていたこともあり、慶喜が後継となる見込みは実はまったくなかったのである。

慶応2年、家茂が21歳で死亡したとき、まず後継として挙げられたのは田安家の幼主亀之助であった。田安亀之助は将軍家斉の弟にあたる田安斉匡の孫である。吉宗から見ると五代の子孫にあたる。つまり、水戸家出身の慶喜などよりもよほど近い血統だったのだ。しかし家茂が死んだのが長州征討の真っ最中でもあり、朝幕関係が混迷を極めるなか、それまで将軍後見職として幕政の中核にあった慶喜が跡目をつぐのはやむを得ない成り行きだった。

結局、慶喜は在職1年あまりで大政奉還、将軍職を辞する。任官から辞職までのあいだ一貫して上方にあり、将軍として江戸城に入ったことはなかった。鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸に帰った慶喜はすでに将軍の地位を失った単なる徳川家当主でしかなかった。やがて慶喜は新政府軍の征討をうけて隠居謹慎することになる。徳川家の家督は本来の筋目と言うべき田安亀之助がついだ。のちの徳川家達である。

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