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2009年5月19日 (火)

「日本の歴史05 律令国家の転換と『日本』」

聖武天皇や孝謙女帝、藤原仲麻呂、道鏡などの個性の強い人物が奈良のみやこという舞台で活躍する奈良時代。
いっぽう、源氏物語や枕草子に描かれた、道長を筆頭とする宮廷貴族が華やかな生活を送る摂関時代。

こういったおなじみの時代にはさまれた9世紀は、日本史の中でも影が薄い。だが、この影の薄い時代を描写したはずのこの巻はかなり面白かった。

律令国家の税収体系が租庸調であるのはよく知られている。王朝時代の地方支配でまず挙げられるのが「倒れたところに土をつかむ」と言われた「受領」である。律令税制が受領制にかわっていくその過程は実に日本的だ。
どんな制度であっても時代が移るにしたがっていろいろと不都合な点が出てくる。時代の変化にあわなくなったり、あるいは「上に政策あれば下に対策あり」と抜け道を考えるヤツが出てくる。こうした場合にどう対応するかと言えば、制度を修正するとか、抜本的に改正するとかではなく、形式的にはこれまでの制度を維持していながら拡大解釈とか言葉のすり替えで実態のほうをどんどん変えていってしまったのだ。
たとえば各国では要所に「正倉」をおいて徴収した米粟を保管しておくことになっていた。ところが地方の有力者は言を左右にしてなかなか素直に納入しようとしない。そこで考えられたのが「里倉」である。有力者の倉を「里倉」として形式上納入済みということにしてしまうのである。帳簿上は立派に国有財産なのだが、もちろんその出入はまったく自由にならない。
こういう弥縫策を何年も何十年も続けているうちに、税目と実態の差はどんどんひどくなり、とっているほうもとられているほうも訳がわからなくなってくる。これらがやがて整理され、中央もこれを追認して最終的には当初とはまったく似ても似つかぬ税制ができあがっていた。
中央は地方に対して名目はどうでもいいから必要とするだけの税さえとりたてられることを期待する。そこで受領に税収の全責任を負わせ、税収さえ中央に送られてくるようなら現地で何をするかは関知しない、という態度をとった。こうして受領制が生まれた。

もともと律令下での地方支配は、地方豪族の末裔である国造層を郡司に任命することで成り立っていた。しかしやがて郡司は実態を失い、郡の役所である郡衙すら廃絶していった。大規模な立法である律令の成立そのものより、律令制度の帰結である受領制の成立こそが地方豪族の衰退を招いたとも考えられる。だが実際に歴史とはそんなものであろう。

もうひとつ、この時代ではまだ「日本書紀」につづく正史である六国史が編まれていた。「日本書紀」は神代から持統天皇の譲位までを記している。「続日本紀」は桓武天皇が編纂を命じたもので六国史の中では「日本書紀」に継ぐ時代を記しているが、文武天皇の即位に始まって、桓武天皇の延暦11年までを記述範囲に含めている。つまり桓武天皇は自分の治世を記した歴史書を自分の時代に編ませていることになる。これは中国由来の歴史書の伝統とは大きく異なる。中国では、歴史書は王朝が変わったあとに自由な立場で前の王朝の歴史を書くものとみなされている。もちろん、前の王朝に対してはどうしても批判的になる。しかし歴史書は批判的なくらいでちょうどいいと考えられているのだろう。
中国二十四正史(数え方によっては二十五史とも)のうち、筆頭となる「史記」は同時代の漢武帝を含めている。しかし何かはばかりがあったらしく、本来の司馬遷の武帝に関する記述は削られているようだ。前漢をあつかった「漢書」は、同族出身で前漢をひきついだ後漢の時代に編まれている。これらだけが例外で、これ以降のすべての正史は王朝交代後に編纂された。

王朝交代のない日本では、中国のような厳密な「断代史」は難しい。万世一系がたてまえだからだ。しかしその中でも「続日本紀」のように、天皇に天皇本人の評価を含む歴史書を上呈した正史は他にない。実際、桓武天皇の時代の最大のスキャンダルである藤原種継暗殺事件とそれにつづく早良親王廃太子は、「続日本紀」の記述から削除されてしまった。次代の平城天皇がいったん復活させたものの、さらにその次代の嵯峨天皇が再度削除している。二転三転、見苦しいことこの上ないが、いったん復活された記述の一部が「日本紀略」に引用されていて結局抹殺することはできなかった。

日本では結局、正史は六国史をもっておわり、定着しなかった。ひとつには万世一系の皇統という特性により過去の人物を批判的に見ることが難しいということもあったろう。中国では、歴史はある意味世論でもある。下手なことをすれば歴史に残り、歴史によって汚名を伝えられることを恐れて行動を抑制する。いかにも面子を重んじる中国らしい話だ。もっとも「名声を得るのが無理ならせめて悪名でもいいから後世に名を残したいものだ」という極端な考え方をも産んでしまったこともあるが。それを支えたのが使命感に燃えた歴史家であり、それを尊重する周囲であろう。

春秋左傳に見え、史記斉太公世家に引かれている「崔杼弑君」という有名な話がある。
中国戦国時代の中期、紀元前6世紀なかばの斉国に崔杼という有力貴族がおり、国政を専断していた。ある時、崔杼と斉の国主莊公は美女を取り合って(ということになっている)争い、ついに崔杼が君主である莊公を殺してしまった。
このとき、斉国の記録官(太史)が「崔杼が君主を殺した」と記述した。崔杼はその記録官を殺し、その弟を後任とした。弟はまた「崔杼が君主を殺した」と記述した。崔杼はその弟を殺し、末の弟を後任とした。末の弟はまた「崔杼が君主を殺した」と記述した。崔杼はついに諦め、末の弟は殺されることなく、記録には「崔杼が君主を殺した」と残された。

この話を読んで「どんな権力者でも記録官は決まった家系から任命するしかなかったんだな」などと本質と違う感想を持ったのが三十一であるが、歴史というものに対する中国人の執念深さを思い起こさせる逸話である。実話かどうかは何とも言えない。ただ作り話だとしてもそれをよしとする風土があったのであろう。

最後は本と関係ない話になってしまった。

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