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2009年8月23日 (日)

「日本の歴史10・蒙古襲来と徳政令」


前の巻を読み終わるまでに、実質半分以上読み終えてしまっていたので、別にペースが早いわけではない。三十一としては、であるが。

明治維新以前の日本の王権は、権威の天皇、権力の将軍に分裂していたと言われる。鎌倉幕府のときは、それに加えて幕府自体が権威の将軍と権力の執権に分裂していた。さらに後期に入ってからは、執権と得宗が必ずしも一致していなかった。形式が完成すると形式と実態が乖離していくというのはこれに限ったことではなく、朝廷においても見られた現象だ。

もともと鎌倉幕府は、いわゆる御家人にしか支配が及ばなかった。統治の源泉が将軍と各御家人の個人的な主従関係にあったから当然だ。非御家人への統治の責任は依然として朝廷にある、というのが建前だったし、少なくとも鎌倉時代前半期までは実態でもそうであったという。全国の荘園に地頭が配置され、各国に守護が置かれてもなお国衙領はその実体を失っていなかったし、在京貴族を本所とあおぐ荘園は少なくない。というより、各荘園が地頭と本所に両属していたのだ。こういう複雑怪奇な所領支配関係は解釈の違いを起こしやすく、しかも「一所懸命」という言葉に象徴される通り武士も貴族も所領こそが自らの財政基盤であったから、所領に関する訴訟は非常に多かった。幕府の(そして朝廷の)仕事の大半はこの訴訟の処理であったと言える。

しかし幕府も末期になると、非御家人にも幕府の支配が及ぶようになる。それは「蒙古襲来」という国難にあたって、挙国防衛体制が必要になりその主体になったのが幕府であったからである。こうして幕府の支配構造は変化を余儀なくされる。次の時代への脱皮への陣痛であっただろう。しかしこの脱皮は鎌倉幕府の滅亡と後醍醐天皇の復古の試みを経て初めて可能になった。

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