« 中川家の人々 | トップページ | 嬉しい誤算 »

2009年10月 5日 (月)

「足利尊氏と直義」

少し前、小規模な書籍流の後かたづけをしていて発掘された本。化石化するほど埋もれさせていたわけではないけど、結果としていいタイミングで姿を現したことになる。

この本と直接関係ないのだが、巻末参考文献を見ると「南北朝の動乱」と題する文献が3冊も挙げられているのが目につく。本文中で引用されている中にも同名異本がしばしば見られて紛らわしい。シリーズものでこの時代をカバーした巻にこの題がつけられていることが多いようだ。参考文献として挙げられているのは、集英社版「日本の歴史」8巻(伊藤喜良、1992)、中央公論社版「日本の歴史」9(佐藤進一、1965)、吉川弘文館「日本の時代史」10(村井章介、2003)だが、この他に吉川弘文館「戦争の日本史」8(森茂暁、2007)も同じタイトルだ。同類に「南北朝内乱」(小学館版「日本の歴史」11、佐藤和彦、1974)というのもある。ちなみに三十一は「南北朝の動乱」4冊のうち3冊を持っている。なお、ここでいう「持っている」と「読んでいる」は必ずしもイコールではない。

さて、足利尊氏とその同母弟にあたる直義(ただよし)はほぼ同格の「両将軍」として南北朝時代初期の幕府を牽引した。兄尊氏は御恩奉公による封建的主従関係と軍事をもっぱら担当し、弟直義は幕府という統治機構の運営と政務を担当した、というのが上掲書での佐藤進一による分析であり、この本の著者も基本的にはその認識を継承する。兄弟のうち、年長の尊氏が主従関係を基礎とする軍事を担当したのは自然な成り行きだが、開けっぴろげで寛大だったと言われる尊氏と、几帳面で筋を通す質の直義はそれぞれ適材適所だったろう。これが反対だったら室町幕府はどうなっていたかわからない。もっとも、尊氏は躁鬱気味だったらしく、楽観的な時と悲観的な時の感情の波が激しく、特に悲観的な時には周囲がなだめるのに苦労したようだ。

この仲のよい兄弟が幕府開設から10年あまりで血みどろの闘争を繰り広げることになる。いわゆる「観応の擾乱」だが、これは兄弟の争いというよりは、軍事と政務をそれぞれ分担していた二頭体制のなかで、それぞれの側近勢力が主導権を争って戦ったという要素が大きい。現実には、尊氏と直義というよりは尊氏側近で武断派の中心の高師直らと、直義配下の上杉重能らの間の対立こそが「観応の擾乱」の本当の原因だろう。
教科書で知られている通り、「観応の擾乱」は最終的に尊氏の勝利に終わり、直義は失脚、まもなく没した(当時毒殺の噂が流れたという)。「擾乱」の展開を見ると、直義のほうが有利な時期もあり、どちらが勝っても不思議ではなかったように見える。それが最終的に尊氏勝利で決着したのは、直義から見ても尊氏の代わりになる人物はいなかったのに対し、尊氏にとって直義の代わりがいたことが大きいだろう。尊氏にとって、直義の代わりに政務を任せられる存在として幕府開設から「擾乱」までのあいだ東国のおさえとして鎌倉にあった実子義詮(よしあきら)があった。次代の将軍である。尊氏は「擾乱」のあと義詮を上洛させて政務を担当させ、代わって義詮の弟である基氏を鎌倉に下した。しかし直義は、兄であり軍事の総帥であり征夷大将軍である尊氏にとってかわる人物を見出すことができなかった。それが尊氏に対する措置に徹底を欠くことになり、最終的な敗退に結びついたのではなかろうか。

|

« 中川家の人々 | トップページ | 嬉しい誤算 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/196234/46404627

この記事へのトラックバック一覧です: 「足利尊氏と直義」:

« 中川家の人々 | トップページ | 嬉しい誤算 »