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2009年12月28日 (月)

「日本の歴史16・天下泰平」

この巻では、元和偃武以降17世紀いっぱいを対象としている。「天下泰平」と題している通り、戦国最後の戦争である大坂の陣終結後に筆を起こし、元禄の泰平の時代に擱筆している。
元和偃武直後は、まだ戦時体制を色濃く残していた。そもそも、徳川家による政権獲得と幕府による全国支配は戦時編制をその基礎としていた。だが「世襲の将軍」による天下支配を軌道に乗せるためには、いつまでも戦時体制ではいられない。形式的にはこの戦時体制は幕府があるかぎり続いていたが、実際にはかなり変質していた。
この変質のひとつのきっかけとなったのが、家光親政期に起こった「寛永飢饉」である。この飢饉に対応するために、幕府と各大名家では民政重視にシフトした。幕府から預かった領民を飢えによって殺すのは「将軍への不忠」という考えが大名の中から出てくる。いっぽう、幕府のほうでも非常事態を名目にして幕領と大名領を通して普遍的に法を施行する「天下仕置」を既成事実化した。これは、これまでの封建的な制度からはコペルニクス的な考え方の転換と言える。将軍と各大名は君臣関係ではあるものの、家臣に与えた土地の仕置きには口出ししないのが本来の関係であった。たとえ主君であっても内政干渉は許されなかったのである。
いっぽう、ほぼ同じ時期に九州では島原の乱が起きている。これを単純なキリシタンの蜂起と見るのはすでに過去のもので、本来は農村一揆にキリシタン信仰が結びついたものだったらしい。しかし幕府はこれを「キリシタンの反乱」と単純化して遮二無二鎮圧にかかった。このとき、鎮圧の総指揮官である松平信綱は、「歴戦の武士と"土民"を引き替えにするのも妙なもの」として攻撃側の損害をできるだけ少なくする作戦をとった。この作戦は最終的には功を焦る参加部隊の抜け駆けにより台無しになったが、反乱民のこもった原城を攻め落とした幕府軍は、反乱民を皆殺しにした。
国元の家臣に対して「領民をひとりたりとも飢えさせてはならぬ」と叱責した老中と、反乱軍を一人残らず皆殺しにした幕府軍の行動は矛盾しているようでいて実は首尾一貫している。つまり、領民を生かすのも殺すのも支配階級である武士の責任ということで、「領民を飢えさせるな」と言った老中は、同時に「法度に背く輩は撫で切りにせよ」と厳命している。かつて日本史の教科書に必ず掲載されていた「慶安の御触書」は、いまでは慶安年間に実際に発せられたものなのか、そもそも法度として御触書の形で発せられたことがあったのかどうかも疑問視されているそうだが、武士階級が「あるべき姿」を規定する責任を一手にひきうけていたことのひとつの現れであろう。

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