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2010年4月12日 (月)

カチンの悲劇2

ポーランド大統領の搭乗機がロシアのスモレンスク近郊で墜落、全員死亡したというニュースが飛び込んできたのは昨日のことだ。

ポーランド大統領機墜落 大統領ら97人全員死亡 (asahi.com)

「ポーランド」「スモレンスク」というキーワードで三十一がまず思い浮かべたのが「カチンの森」だが、実はこの訪露も「カチンの森」慰霊のためだったという。

ポーランドとロシアの関係は一筋縄ではいかない。17世紀はじめ(江戸幕府ができたころ)には、モスクワがポーランド軍に占領されてポーランドの息のかかった人物がロシア皇帝に擁立されたこともある。いっぽう、18世紀後半にはポーランドがロシアとオーストリア・プロシアにより分割されて消滅し、19世紀にはロシア皇帝がポーランド王を兼ねたこともある。ロシア革命に乗じてポーランドが独立すると、成立したばかりのポーランドはロシア革命に干渉しロシア領深く侵攻したかと思うと逆にワルシャワ前面まで攻め込まれたこともある。大戦間のポーランドはロシアに対する防波堤として機能した。英仏がポーランドの安全を保障したのもそれを期待したからである。

で、問題の「カチンの森」事件は、スターリン政権下のソ連が数万人ともいわれるポーランド軍捕虜将校を処刑したもので、のちにロシアに侵攻したドイツ軍がスモレンスク近郊でその遺体を発見したというもの。もちろん当時のソ連政府は「ナチスのでっちあげ」として全面否定したけれど、赤十字の調査でもソ連の関与は否定できなかった。
そもそもこれらポーランド軍将校は、1939年のドイツによるポーランド占領時に、スターリンとヒトラーの間の密約にしたがってポーランドを分割占領した際にソ連側に降伏したポーランド軍の捕虜だった。ポーランド政府ははじめパリ、のちロンドンに亡命したが、在ロンドン亡命ポーランド政府は捕虜についてソ連政府に照会したが常に回答は「該当の事実なし」でしかなかった。これら捕虜の行方は、ソ連政府とポーランド政府の間の懸案になっていた。それがナチスドイツのロシア侵攻によって判明したのである。

「カチンの森」事件により、ポーランド亡命政府はソ連政府と断交した。しかしソ連政府はこれ幸いと英仏の影響の強い亡命政府を無視して、親ソ政権の樹立に邁進した。冷戦時代のポーランド政府はその親ソ政権の系譜を継ぐものであるから、「カチンの森」事件についてはあえて触れずにきたのである。しかし、冷戦が終結してしまい、ポーランドがNATOやEUに加盟するような時代になるとそのような気遣いは無用になり、「カチンの森」は再び両国間の重要問題になる。しかしそのころにはすでに事件以来半世紀が過ぎており、真相の追求も責任者の訴追も不可能になっていた。

西欧とロシアのあいだにはさまれたポーランドの人には、もちろんロシアに対する警戒心もあるが、ドイツに対する警戒も少なからずある。しかし両方と対立していては18世紀のポーランド分割、あるいはスターリンとヒトラーによるポーランド分割の二の舞だ。その時々でどちらかに接近してはもういっぽうを牽制するというテクニックが必要になる。
冷戦期はもちろんロシアに接近していたわけだが、その当時から「ポーランド人を野菜に例えるとラディッシュだ。見た目は赤いが中身は白い」と言われていたくらいで、面従腹背は所与の地理的条件から生じる必然の処世術であろう。今回の大統領訪露にあたっても、親ソ派と親西欧派のあいだの駆け引きがあったと伝えられている。

どうもこのポーランドとロシアの間の関係を見ていると、日韓関係とダブって見える部分がある。もちろんそれぞれの二国間関係にはそれぞれの状況があるので安易な同一視は危険だけど。

4/13追記:
墜落した大統領機には、「最後のポーランド亡命政府大統領」も搭乗していて犠牲になったそうだ。ロンドンのポーランド亡命政府は1990年まで存続しており、連帯のレフ・ワレサが大統領に就任した機会に本国政府と合同して解散した。1939年の亡命から51年後、ということになる。

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