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2010年6月18日 (金)

「周恩来秘録」上/下


中国にとって1976年は激動の年だった。
前年に台湾で蒋介石が死んだのは序章に過ぎない。1976年に入ると早々に周恩来が死に、(第一次)天安門事件が起きて鄧小平が3度目の失脚をこうむり、ついで唐山地震で数万の犠牲を出し、さらに朱徳が死に、9月には毛沢東が死んだ。結末は四人組逮捕による文革の終結である。
今の若者にとってはこれらの事件は歴史に過ぎないのかもしれないが、三十一はこれらの出来事をニュースとして聞いた最後の世代かもしれない。

日本では、毛沢東と周恩来が共同して戦後の中国を指導してきたと見られがちだが、この本を読むとそんな甘い見方は吹っ飛んでしまう。中国のトップに君臨した毛沢東は、一貫して周恩来を敵視しすきあらば失脚させようと狙っており、周恩来はその毛沢東に仕えながらしっぽをつかませまいと戦々恐々としてきた。この関係を建国前から建国後の40年にもわたって続けてきたのだから驚きだ。

毛沢東は骨の髄まで革命家だった。軍閥争闘の時代から日中戦争時期を経て国共内戦にいたる時代、共産党と紅軍を指導して政権を奪取するためには毛沢東の手腕がモノを言った。
だが、革命に勝利して政権を握った中国共産党が今度は建設の責任を負ったときになってもなお毛沢東の指導を仰いでいたことが悲劇を生んだ。骨の髄まで革命家だった毛沢東は、すべてを政治闘争化した。経済建設を革命的手法で実践しようとした「大躍進」運動はこれ以上ないくらい惨めな失敗に終わった。毛沢東は国家建設の実務を劉少奇に譲らざるを得なくなった。毛沢東の目に映っていたのは国民の生活ではなく、政府と党内部の序列レースだけだったらしい。なおも名目的には党と国家のトップにいた毛沢東だが、地歩を固めていくナンバーツーの劉少奇にだんだん我慢がならなくなってきた。蟹は自分の殻に似せて穴を掘るとか、毛沢東は劉少奇は自分の地位を狙っていると考えた。それはつまり常にトップでいたいと考えている自分の思考を相手に反映したものだろう。毛沢東は文革を発動してまず劉少奇を打倒した。ついで劉少奇打倒の過程で「後継者」の地位を得た林彪を自滅に追い込んだ。劉少奇・林彪亡きいま、毛沢東に対抗できる可能性を秘めているのは周恩来だけとなった。毛沢東はかつて井岡山の革命根拠地で武装闘争を指揮していたころ、周恩来が党内序列では自分を指導する立場にいたことを一瞬たりとも忘れたことはなかった。このコンプレックスが周恩来への警戒心をかきたて、毛は機会をとらえては周の失脚あるいは批判をはかったが、周はその都度超人的な忍耐力を発揮してついに最後の瞬間まで国務院総理の地位を保った。しかし周は自己の保身に走るあまり、毛が文革で暴走するのに対して積極的に反対せず、消極的ではあるものの文革による迫害に協力した、という非難は当時から現在まで絶えない。これはある一面真実ではあるが、しかし毛にたてついて周が失脚していたら文革の災禍はもっとずっとひどくなっただろうというのも衆目の一致するところだ。

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