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2010年10月31日 (日)

「中原の虹」


通説では悪役とされている人物を、違った形で描写してみるという手法は小説ではある意味定番のひとつである。足利尊氏とか平清盛とかね。
中国近代史で最大の悪役と言えば西太后と袁世凱がまず挙げられる。かたや清朝末期に実権をにぎって国政を壟断した女傑であり、かたや軍閥を握って幼帝や共和主義者を手玉に取る野心家とされてきた。そしてこの本ではまさにこの二人を王朝よりも民を思う政治家に仕立て上げている。袁世凱は少し間抜けに描かれているけど。
こういうやり方の通弊として、必要以上に有能に描かれてしまうことがある。西太后なんてまるでスーパーマンだよ。ちょっとそれは行きすぎでないかいと思った。

実はこの本の主役はかの満洲某重大事件で殺害された張作霖なんだけど、当の張作霖については内面に迫るような描写がほとんどない。ほぼ一貫して一般人には不可解な人物として描かれている。それも読んでいてなかなか入り込めない理由のひとつのように思う。

しかし何より、三十一はオカルトが嫌いなのである。天命のしるしとされる「龍玉」をめぐって騒動がおきるのはいいとしても、それに本当に超自然的な力をもたせるのは勘弁して欲しいなあ。

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2010年10月26日 (火)

「日本の領土」


先日、神田の古書店を巡回していて見つけた本。南海堂でした。買って帰って奥付を見たら新刊でした。2010年8月発行。普通に新刊書店でも見つかったかもしれない。
思ったんだけど、同じ本でも古書店で見つけるのと新刊書店でみかけるのでは、買ってしまう確率が違っているような気がする。たとえ値段がそれほど変わらなかったとしても、古書店で見つけたときには「今のうちに買っておかなくちゃ」という意識が働くのかもしれない。古書店での値付けは新刊よりも少し安くなっていたが、新刊だったらこの値段でも買ったかどうか。

さて本題だが、監修者と著者の組み合わせは次の本と同じ。

以前も触れたことがあるが、この「戦前期の日本」は三十一がもっともよく参照する本のひとつで世間も評価も高い。そしてこの「戦前期の日本」の冒頭が「領土」なのである。「日本の領土」ではこの部分をいちいち典拠を示しながら拡大拡張して一冊にまとめたと言えるだろう。当初の構想では日本史のはじめから述べていく予定だったそうだが、結局は幕末以降のみに触れることになった。
条約や外交文書、法令や行政文書をいちいち示したその緻密さはまるで学術論文のようである。読み慣れない人には敷居が高かろう。買ったばかりのこの本を古書店に売ってしまったのもそういう人だったかもしれない。しかし、それなりの主張をしようとするなら原典に当たるのは最低限の前提だ。こうした形でまとめられたことで、日本の領土問題についての議論がより活発になることを期待する。

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2010年10月20日 (水)

次の10年

胡錦涛現主席の後継となる、中国の次期指導者が習近平にほぼ決まった。

もともと、第17期党大会(2007年)で中国共産党の最高指導層に選出された面々のうち、胡錦涛の後継候補として見られていたのは習近平(1953生)と李克強(1955生)だった。それに加えて李源潮(1950生)や汪洋(1955生)の名前も挙げられてきたが、トップを行く二人に比べるとやや出遅れていた。李源潮と汪洋は中央政治局には入っているものの、常務委員にはなっていない。

習近平は太子党(党高級幹部の子弟のこと。父の習仲勲はもと副総理)だが、ちかごろでは太子党であるというだけでは必ずしも有利にはたらかない。しかし習近平は太子党であることをひけらかさずに、よく言えば庶民的、悪く言えば野暮ったい印象を持たれている。戦略的要衝ではあるものの経済的には貧しい福建省で長年はたらき、次いで北隣の浙江省にうつった。そして転機になったのが2006年、上海の最高権力者である党委員会書記を当時つとめていた陳良宇が汚職の疑いで失脚し、その後任に抜擢されたのが習近平だった。上海は前総書記で依然として影響力を保っている江沢民の地盤である。習近平は陳良宇の汚職を摘発しながら、その累が江沢民にまでおよんで無用の混乱を惹起しないようにうまく制御して上海の行政を安定させた。これは中央政府の期待にかなった措置だった。そして翌年、習近平は中央政治局常務委員として党中央に迎え入れられた。

いっぽうの李克強の父はやはり党員ではあったが習仲勲とは並ぶべくもない下級幹部にすぎなかった。しかし李克強は文革中に青年期をすごしながらも学習をつづけ、文革後には大学で経済学を学んだ。共産主義青年団(胡錦涛の古巣)で長年勤務し、その間には経済学博士の学位を得ている。その後河南省、遼寧省で党/政府の責任者として産業構造の改革を指導し、その結果は党中央から高く評価された。そして2007年、習近平とならんで中央政治局常務委員に選出された。

かつて、胡錦涛が50歳で党中央政治局常務委員に抜擢された際、常務委員の中に胡錦涛と同年代の人物はいなかった。その時点で胡錦涛はすでにライバルのいない、オンリーワンの後継者と考えられていた。しかし習近平と李克強は同時にそろって中央政治局常務委員に昇格している。ここには、その時点でどちらを後継者にするか絞りきれなかった胡錦涛の逡巡と、そのいっぽうで二人を競わせてどちらが後継にふさわしいか見極めようという目論見があったと考えられる。
しかし、最高指導者たる総書記の後継の本命と考えられていたのは、やはり習近平のほうではなかったか。というのは、ともに政治局常務委員とされたふたりに合わせて与えられた職務からそう考えられるのである。習近平が得たのは、党中央書記処書記・中央党校校長・国家副主席であった。いっぽうの李克強が得た職務は国務院副総理である。つまり、習近平は党務を、李克強は政務を担任することになった。これはむろん適材適所を狙ったものであろうが、党が政府を指導するという中国の国是からすれば、李克強が政府でトップにまで上り詰めたとしても、習近平が党でトップを占めたとすればその下風に立たざるを得ない。実は習近平の党中央書記処書記・中央党校校長・国家副主席という肩書きはかつて胡錦涛が通ってきた道である。そして胡錦涛は国務院副総理の肩書きを持ったことはない。

ひょっとしたら、習近平は李克強と比較して特別に能力的に優れているわけではないのかもしれない。ただ、習近平の能力がもっぱら党務で発揮され、李克強が政務畑を行っているから必然的に習近平が上に立つことになっただけとも考えられる。もっとも、それぞれが立場を逆にしたとして習近平が政府でトップに立てるか、あるいは李克強が党務でトップになれるかどうかというと疑問なしとしない。いずれにせよ、2012年の第18期党大会とそれに続く2013年の全人大では、習近平の総書記・国家主席就任と李克強の国務院総理就任が予想される。ただし、胡錦涛が中央軍事委員会主席を習近平に譲るのはさらに数年遅れる可能性がある。

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2010年10月15日 (金)

「皇族と帝国陸海軍」


著者は「類書がない」と自慢しているが、もともと三十一はこんなページを作っているくらいでこの種のテーマには興味があった。そういう意味では三十一にとって新しい情報はあまりなかったのだが、たんねんに拾われた細かいエピソードの中にはなかなか興味深いものもあった。

欧米の君主国では王族が軍務に就くのはごく一般的なことで、イギリスのヨーク公アンドリュー(現女王の次男)がフォークランド紛争でヘリコプター乗員として戦地に赴いたのはよく知られたエピソードだ。欧米的な君主国を目指した戦前の日本が欧米の王族のあり方にならったのは無理からぬ話である。しかしもともと欧米の帝王は諸侯の中の第一人者という性格が強く、ほとんどが騎士・領主階級の出身である。彼らが軍を率いるのはそうした伝統にかなった振る舞いと言えよう。それに対して日本の天皇は、神代の昔の神話は置いておくと、もっぱら祭祀王として扱われてきて軍や戦争といった"穢れ"からは隔離されてきた。そういった伝統の上に欧米流の軍人王族という習慣を接ぎ木した形になり、こうした軍人皇族の「使い方」が確立していない日本では、いろんな人間がそれぞれの立場で彼らを利用しようとして、当の軍人皇族たちはそれに振り回されることになる。

この本に関連して特に取り上げておきたい点がふたつ。
まず、軍人皇族といっても陸軍では同期生と比べて明らかに進級が早かったのに対し、海軍では少なくとも若いころは平民出身の同期生と比べて特に進級が早いわけではなかった。その理由を著者は「人間が相手」の陸軍に対して「機械が相手」の海軍では皇族といえども経験をつまない人間をむやみに進級させるわけにはいかなかった、とまとめている。これは確かに一面の真実で、こういった違いがつまりは陸軍と海軍の雰囲気の違いにつながったのだろう。しかし海軍も末期には皇族の進級が早くなり、高松宮などは日記で「残念なこと」と書いている。このころには海軍の伝統的な雰囲気もだいぶ変わってきていたようだ。

もうひとつ、一般にはあまり知られていない(と著者が言う)軍人皇族のなかでもさらに知られていないのが軍人王族である。戦前の日本では「王族」は「朝鮮王族」を意味する(正確には「王族」「公族」総称して「王公族」と呼び、旧朝鮮国王からの血統の遠近で区別していた)。この本の中ではこれら王族にもそれなりの分量を割いて触れられていて、その点は好感がもてる。それでも三十一が求めている情報量にはまだまだ足りないのだが。これら王族は皇族の中ではかなり微妙な位置に置かれていて、昭和天皇などはできるだけ他の皇族と公平に扱おうとしてかなり気を遣っていたらしい。しかし太平洋戦争の終戦間際、天皇が皇族を集めてポツダム宣言受諾を伝えたとき、皇族の多くは天皇の決断を支持するろうな発言をする中、李王(旧朝鮮王家の当主)は単に「承りました」とのみ答えたというエピソードがある。これは実はこの本には載っておらず別の本で見た話なのだが、日本の敗戦はつまり故国朝鮮の解放を意味するわけで、旧朝鮮王家としての立場と、皇族の一員、あるいは帝国軍人としての立場に夾まれた彼らの複雑な感情がうかがい知れる。

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2010年10月10日 (日)

「十字軍物語1」


本屋で見かけて、買う前にちょっと立ち読みしたときに「これはきっとすぐ読めちゃうなあ」と思った。実際に読み始めると3日で読み終わってしまった。3日と言っても足かけ3日でしかも通勤の電車の中だけだから、多分ならすと半日くらいだろう。

十字軍は数え方にもよるが前後7次にわたる。そのうち聖地エルサレムの奪還に成功した第1次十字軍は実際には有志諸侯の連合軍、もっと言ってしまえば寄せ集めであった。しかしその寄せ集め軍も3年にもおよぶ遠いオリエントでの苦闘の結果、わずかながらも現地の事情を学習して状況を利用することを憶えた。それはもともと参加諸侯がヨーロッパでも領土拡張に奔走して合従連衡を繰り返していた、という類似性によるところが大きいだろう。
ただし、参加諸侯のあいだにもそれぞれ温度差があった。オリエントで困難に直面するとたちまち本国に逃げ帰るもの、聖地奪還までは奮戦するものの実際に奪還が成ってみると用は済んだとばかりにさっさと帰国するもの、奪還した聖地の防衛に腐心するもの、そしてオリエントで領土獲得に東奔西走するもの。これらの思惑がからんで紆余曲折するが、結局は20年ほどをかけて地中海東部沿岸にヨーロッパ人が支配する一連の十字軍国家が成立する。そしてこの後200年以上ものあいだ、奪還を目指すイスラム勢力と必死に防衛するヨーロッパ人の間に死闘が続く。

そういや、この人の前作「ローマ人の物語」は年に1冊だったけど、このシリーズは年に2冊だそうで、この違いはどこから来るんだろう。三十一が何となく想像した理由はあるが、ちょっと口にするのをはばかるのでやめておこう。

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2010年10月 7日 (木)

「満州事変と政党政治」


満州事変は、いわゆる十五年戦争の発端になった事件であり、関東軍の幕僚が計画して実行した満鉄線路爆破(柳条湖事件)をきっかけに始まったことはよく知られている。

この事件では、出先の関東軍と陸軍中央の課長級以下の少壮幕僚が事件の拡大(最終的には全満州の占領と独立国家建設)をはかったのに対し、若槻首相率いる民政党内閣は不拡大方針をとり陸軍中央の首脳陣はそれに従った。著者は、前者のグループの代表に当時陸軍省軍務局軍事課長であった永田鉄山大佐を挙げ、後者のグループを浜口雄幸とその後継者である若槻礼次郎に代表させている。

浜口は、第一次世界大戦の反省から将来の戦争は総力戦になりその損害も大きく、戦争の結果得られる利益にとても見合わないと見ていた。戦争は日本の破滅をまねき、なんとしても防止しなければならない。そのためには国際連盟などの国際機関と多国間条約により国際協調と国家間関係の安定が必須と判断していた。その結果、中国に対しては蒋介石政権による満州も含めた強力で安定した政権の確立を望み、その政権と安定した関係を築くことを外交の主軸としていた。いわゆる「幣原外交」である。

いっぽうの永田は、同じく第一次大戦の結果から出発し、将来の戦争は総力戦となることが必至とみるところまでは浜口と同じながら、であるから日本は総力戦体制を確立しなければいけないと考えた。永田は浜口が依拠した国際機関や多国間条約による安全保障体制を信頼しなかったのである。永田は人材や物資などの資源をすべて戦争目的のために動員する「総動員」を構想した。そして日本国内だけでは不足する資源を確保するためには満蒙・華北・華中を日本の影響下におくことを望んだ。そのなかでまず着手したのが日本が特に大きな権益をもつ満蒙である。

第一次大戦後、永田と同期の陸士16期生を中心に陸軍の改革と長州閥打破を目的とした二葉会が結成された。陸軍軍閥史を語る際には必ず触れられるエピソードだ。この二葉会にならってやや若手中心の木曜会が成立し、さらに二葉会と合流して一夕会が結成されたのは昭和はじめの頃だ。試みに一夕会の主要メンバーを挙げてみると、河本大作、山岡重厚(以上陸士15期)、永田鉄山、磯谷廉介、板垣征四郎、土肥原賢二、岡村寧次、小畑敏四郎(以上16期)、飯田貞固、工藤義雄、東條英機、渡久雄(以上17期)、岡部直三郎、山下奉文、山脇正隆(以上19期)、七田一郎、草場辰巳、橋本群(以上20期)、石原莞爾、横山勇(以上21期)、北野憲造、鈴木貞一、鈴木率道、牟田口廉也、村上啓作(以上22期)、岡田資、清水規矩、根本博、坂西一良(以上23期)、鈴木宗作、澄田ライ四郎、土橋勇逸、沼田多稼蔵(以上24期)、下山琢磨、田中新一、富永恭次、武藤章(以上25期)、など。よく知られた名前がずらりと並んでいる。この中のリーダー格は永田鉄山で、東條英機がその分身として活動した。

一夕会の目的は既述のとおり陸軍改革と長州閥の打倒だが、それに加えて永田の持論である総力戦体制確立のための満蒙分離をも目指した。そして会員が陸軍各部の要職を得られるように猛烈に運動を開始した。そのひとつの成果が岡村寧次の陸軍省人事局補任課長就任である。補任課は陸軍の大佐以下の人事に責任をもつ。その補任課を握った一夕会は、陸軍省や参謀本部の実務の責任者である課長級に次々に会員を送り込む。永田鉄山は陸軍政策立案の責任者である陸軍省軍務局軍事課長に、東條英機は参謀本部編制動員課長に、といった具合だ。

いっぽうの陸軍上層部は、長州閥のながれを組む宇垣閥が陸軍大臣や参謀総長といった要職を握っていた。宇垣は政党内閣との協調を重視しており、満州事変当時の南陸軍大臣や金谷参謀総長は内閣に協調的だった。上層部と幕僚の間で政府に対する姿勢がかみ合っていなかったことになる。

若槻は、南や金谷を通じて事件の不拡大をはかった。ときには譲歩しときには強硬に主張し、南や金谷の立場をおもんぱかりながらも北満や錦州への関東軍の出兵を阻止した。この不拡大方針が最終的に瓦解したのは、若槻内閣内部の閣内不一致による総辞職だった。総辞職の原因は、安達内務大臣の閣議出席拒否と単独辞職拒否である。安達内相がなぜこのような挙に出たかはわかっていない。しかし著者は一夕会による裏面工作の可能性を考えている。

内閣の更迭により陸軍大臣と参謀総長が交代した。陸軍大臣の荒木貞夫、参謀次長の真崎甚三郎(参謀総長は皇族の閑院宮)はいずれも一夕会がかねてから推していた人物である。荒木・真崎の陸軍首脳は関東軍の北満進出や錦州占領を容認し、朝鮮や内地から増援を派遣した。こうして関東軍は全満州を占領し、満州国建国への道が開かれた。そして翌年5月、5・15事件により犬養首相は暗殺され戦前の政党内閣時代は終わりを告げる。

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2010年10月 5日 (火)

「軍艦『関東』越前海岸遭難記」


まず、関東は軍艦じゃなくて特務艦なんだけどなあと思ったけど、文中にわかってて書いているような記述があったので文句が言えない。海老原さんが「差し支えないでしょう」と言ってるようなら三十一ごときには到底太刀打ちできません。海老原さんというのは海軍艦艇の権威、もと防衛庁戦史室の故・海老原惇氏のことである。

日本海軍では意外に艦船の事故が多い。平時の事故で最も犠牲が多かったのは、おそらく大正11年にカムチャツカ方面の警備中に座礁遭難した新高であろう。そのほか、大正5年の津軽海峡での笠置の喪失、明治45年の千島近海での浪速の喪失、明治41年遠航帰りの松島の馬公港内での爆沈、大正6年の志摩半島沖での音羽の喪失、大正8年の種子島沖での特務艦志自岐の座礁、などなど。
これら一連の事故の最後を飾った(?)のが、大正13年の越前海岸への工作艦関東の座礁だ。呉から関門海峡経由、舞鶴へ向かっていた関東は、冬の嵐の中で艦位を失って越前海岸に座礁した。12月の越前海岸では暴風が吹き荒れて脱出もままならず、結果として運用長機関長以下97名が殉職した。

この本では遭難までの顛末、遭難から救助までの経緯、そして後日談をまとめている。やや情緒過多の感はあるが貴重な記録だ。

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2010年10月 2日 (土)

2010年9月の打ち上げ

8月の分だけど、ひとつ抜けていた。

8/24 0710GMT 酒泉(中国)、長征2D(天絵1)

さて9月。

1日 0053GMT バイコヌール(ロシア/カザフスタン)、プロトン(Cosmos 2464 Glonass、Cosmos 2465 Glonass、Cosmos 2466 Glonass)

4日 1614GMT 西昌(中国)、長征3B(Chinasat 6A)

8日 0330GMT プレセツク(ロシア)、ロコット(Cosmos 2467 Strela、Cosmos 2468 Strela、Gonets-M 5)

10日 1022GMT バイコヌール(ロシア/カザフスタン)、ソユーズU(Progress M-07M)

11日 1117GMT 種子島(日本)、H-IIA(みちびき)

21日 0403GMT バンデンバーグ(アメリカ)、アトラス5(NROL-41)

22日 0242GMT 酒泉(中国)、長征2D(遥感11、皮星1A)

26日 0441GMT バンデンバーグ(アメリカ)、マイノトー(SBSS)

8回の打ち上げのうち商用はひとつだけ(Chinasat)、厳密に言えば Gonets も商用に入るかもしれないけど実態は政府系企業の管理下なので純粋に商用とは言い難い。
ロシアが Glonass 測位システムの再構築に向けて着々と衛星を打ち上げ続けていることと、中国がコンスタントに数をこなしているのが目立つ。
日本も来年から年間を通じて打ち上げができるようになったらしいので、もう少し数をこなすことができたらいいと思う。

追記:
また1コ漏れ。

30日 17:01GMT プレセツク(ロシア)、モルニアM(Cosmos 2469 Oko)

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