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2011年10月24日 (月)

めざせ人でなし

三十一はかねてから非国民をめざしてきたのだが、もうひとつ目標がある。
それは「人でなし」である。

もともとある程度の自覚はあった。世の善男善女から見れば三十一はかなりの人でなし、人非人に見えることだろう。だが三十一自身の自分への評価はと言えば、まだまだ半端な「人でなし」でしかない。この世にはもっと立派な「人でなし」がごろごろしていて、それに比べると三十一は赤子のようなものだ。これからもっと完成された「人でなし」をめざして精進しよう。

さて、これ自体は前々から思っていたことで、三十一自身にとってはさして目新しい目標ではないのだが、なんで急にそんなことを言い出したかというと、三十一よりもずっと影響力を持つひとがこんなことを言っているのを見たせいだ。

人でなしの福島紀行 (前編) (後編) (野尻blog)

「人でなし」たちは興味本位で動き、不謹慎で思いやりに欠ける傾向にあるが、「人情や常識にとらわれない」「自然科学に忠実」「先入観がなく合理的に判断する」長所もあると思う。義憤に燃えたような扇動者がもたらした迷惑を思えば、「人でなし」を支持する人も少しはいるのではないだろうか。

考えようによっては、「人でなし」のほうが実は「人にやさしい」のではなかろうか。「人でなし」は表面的な感情や好悪を気にしないから、長期的に合理的な判断を下すことができる。個人的にはみんなが「人でなし」になるほうがよっぽどこの世が生きやすくなるような気がする。
こういうことを言うと誤解して筋違いの批判をする人がいるかもしれないので付け加えておくと、、「人でなし」だからと言って別に感情や好悪がないわけではない。感情や好悪と、判断の適否を切り離して考えることができるということだ。

ところで三十一のこうした性向はどうも母親の影響をうけているらしい。最近母親と話していて、どうも本人に自覚がなかったので指摘したところ「そうかもね」と初めて気付いたようなことを言っていた。そして母のその性格はそのさらに父(つまり三十一の祖父)から伝わったもののようだ。三十一にはこの性格を伝えるような身内はいないから、こうしてせっせと(というほど熱心ではないが)布教につとめている次第である。

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