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2012年4月26日 (木)

「江戸の政権交代と武家屋敷」


大名や旗本が江戸に構える屋敷は、幕府から拝領するものだった。
建て前としては「タダで借りてる」ということになるのだが、逆に考えると貸す側の都合でいつ取り上げられても文句は言えないということだ。実際、急に屋敷の召し上げを命じられて慌てて仮住まいを探す羽目になった者もあるらしい。タダほど高いものはない。

大名屋敷は江戸の各所に散らばっていたが、江戸城に一番近い上屋敷は現在の皇居外苑、大手町から丸の内、霞ヶ関あたりにかたまっていた。東京駅と堀のあいだ、現在の丸の内は当時「大名小路」と呼ばれていたが、それよりもずっと便利だったのは当時「西丸下」と呼ばれた現在の皇居外苑である。ここには老中を初めとする幕府首脳の屋敷が並んでいた。登城に便利な一等地であるだけに、政権内部の変動によって失脚すると屋敷地を移されるのが常であった。このため、西丸下の屋敷は変動が激しく数年からせいぜい十数年くらいで主が替わっていった。対照的に、大名小路や霞ヶ関あたりは外様の雄藩が屋敷を構えており、幕府の政務から排除されていた外様大名の屋敷地は江戸時代を通じて大きく替わらない傾向にあった。

拝領した屋敷地の広さと江戸城からの距離は政権内部の本人の位置のバロメーターと言える。六代将軍家宣の信任篤い時期の新井白石は一橋門外という江戸城を目前に見上げる場所に屋敷を構えていたのだが、吉宗が将軍に就任するとこの屋敷は召し上げとなり、かわりに与えられた屋敷地は内藤新宿だった。いまでこそ新宿は都心の一等地だが、当時は西のはずれもはずれで、徒歩で江戸城まで通勤するのはかなり大変だったに違いない。
それでも江戸府内に屋敷があるのはまだマシで、天領だった甲府に送られるというのは懲罰的な意味もあったらしく江戸末期には甲府勤番士たちはかなり荒んだありさまだったという。

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