« 2012年9月 | トップページ | 2012年11月 »

2012年10月30日 (火)

「冥王星を殺したのは私です」


冥王星が「惑星」でなくなったのは 2006年、今から6年前になる。その頃この blog の前身になるサイトで書いていた日記に飽きて更新が滞りがちになっていた時期に、異例に長い文章を書いているのは当時の三十一の関心の高さを物語っている。

この著者のマイケル・ブラウンというのは前述の三十一の文章にも名前が出てくるのだが、この当人が冥王星を惑星から外すために画策していたとは初めて知った。もっとも、三十一はアメリカ人のこの手の自慢話、あるいは打ち明け話には眉に唾をつけて見る癖がついてしまっているのであまり鵜呑みにしていない。ほんとうにそんなに影響があったのかなあ。反対意見を述べる「多くの」科学者のひとりでしかなかったんじゃないかな。当の「第10惑星」発見者本人という立場なのでそれなりの影響力はあったかもしれないけど、当人がひとりで議論をひっくり返したかのような言い方はちょっと信じがたい。

まあ論文ではないので、本人はそう思っていたんだろうくらいでスルーするとして、単純にサイエンス・エッセイとして見ると非常に面白い本である。途中で一時中断して他の本を読んだりしていたこともあるのだが、別に読みづらくて中断したわけではなく、するすると読み終えることができた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年10月25日 (木)

五年に一度の

先日も触れたことだが、来月8日から中国共産党の第18期党大会が予定されている。党大会は党の最高決定機関とされていて、文革終結後の1977年から五年ごとに開催されている。

党大会では、総書記による報告と党綱領改正の審議などが行なわれるが、最も注目を集めるのは人事だ。厳密に言うと党大会では約200名の中央委員を選出し、その中央委員が党大会直後の第一次全体会議で党首である総書記や、政治局委員、政治局常務委員などを選出する手はずになっている。特に今回の党大会では、現職の総書記・胡錦濤や総理・温家宝などが退任することが確定しており、その後任人事が注目されている。

現職の政治局常務委員は9名。このメンバーが中国の事実上の指導部で、奇数にするのが慣例だ。ちなみに江沢民時代は7名で、鄧小平時代は5名だった。

1. 胡錦濤 1942年生 70歳 総書記、国家主席
2. 呉邦国 1941年生 71歳 全人大委員長
3. 温家宝 1942年生 70歳 総理
4. 賈慶林 1940年生 72歳 政協主席
5. 李長春 1944年生 68歳 宣伝思想工作指導小組組長(イデオロギー担当)
6. 習近平 1953年生 59歳 国家副主席
7. 李克強 1955年生 57歳 副総理
8. 賀国強 1943年生 69歳 紀律検査委員会書記
9. 周永康 1942年生 70歳 政法委員会書記(治安担当)

この現職9名の中で、次期常務委員に留任するのは習近平と李克強の2人だけ。残りは主に年齢の関係で勇退となる。習近平が次期総書記・国家主席、李克強が次期総理となって2期10年つとめるのはもう既定路線だ。

代替わりしたそのアナを埋めるのはヒラの政治局員となる。政治局員は現在24名、うち9名が常務委員だからヒラは15名。

x 王剛   1942年生 70歳 政協副主席
x 王楽泉 1944年生 68歳 政法委員会副書記
x 王兆国 1941年生 71歳 全人大副委員長
- 王岐山 1948年生 64歳 副総理
x 回良玉 1944年生 68歳 副総理
x 劉淇   1942年生 70歳 北京市党書記
- 劉雲山 1947年生 65歳 中央宣伝部長
- 劉延東 1945年生 67歳 国務委員
- 李源潮 1950年生 62歳 中央組織部長
- 汪洋   1955年生 57歳 広東省党書記
- 張高麗 1946年生 66歳 天津市党書記
- 張徳江 1946年生 66歳 副総理兼重慶市党書記
- 兪正声 1945年生 67歳 上海市党書記
x 徐才厚 1943年生 69歳 軍事委員会副主席
x 郭伯雄 1942年生 70歳 軍事委員会副主席

バツ印は年齢的に引退が確定なので、昇格の候補は8名。若手のホープ、李源潮と汪洋は昇格の可能性が高い。紅一点の劉延東も昇格の可能性がある。もし常務委員の枠が7名に減ったとすると、残り2枠を5人で争うということになる。
ここでポストから考えて行こう。国家主席兼総書記、全人大委員長、総理、政協主席という国家レベルの首脳級ポストは常務委員が兼ねる例である。イデオロギー担当と筆頭副総理も常務委員を兼ねる例が多い。次代の総書記候補には決まった役割は与えずに無任所に置いて党の組織工作に専念させるようだ(肩書きとしては党書記、中央党校校長など)。これで7ポスト。現在常任委員に入っている紀律検査委員会書記と政法委員会主任は、もし常務委員が7名ということになるとヒラの政治局員の役割になるだろう。今回昇格の若手2人(李源潮、汪洋)には「三権の長」の一角である全人大委員長や政協主席にはまだ格が不足している。劉延東の政協主席はあるかもしれない(女性の政協主席は過去にも例がある-鄧穎超)。そうなると、国会議長にあたる全国人民代表大会常任委員会委員長(全人大委員長)をつとめる役回りが必要だ。候補になるのは比較的年長の兪正声になる。上海市党委員会書記から全人大委員長というジャンプアップは少し無理があるような気がするが、上海閥は江沢民の地盤だ。兪正声の昇格があるかどうかで、江沢民の影響力がまだ残っているかどうかを測ることができるかもしれない。
残り1枠は比較的若い王岐山か。
7名だとすると、三十一の予想は以下の顔ぶれ。

1. 習近平 1953年生 総書記、国家主席
2. 兪正声 1945年生 全人大委員長
3. 李克強 1955年生 総理
4. 劉延東 1945年生 政協主席
5. 王岐山 1948年生 イデオロギー担当
6. 李源潮 1950年生
7. 汪洋  1955年生 副総理

もし7人に絞りきれなかった場合の残り2名は、

8. 劉雲山 1947年生
9. 令計画 1956年生

令計画はヒラの政治局員ですらないが、党中央の実務機関である中央書記処の書記の地位にある。現在の筆頭書記は習近平(兼任)だ。

さて、実は去年まで常務委員の本命と見られていた人物がいる。薄煕来 (1949年生、重慶市党書記)だ。習近平と同じく太子党(党高官の子弟)で、かつての海岸部から発展の中心が移りつつある内陸部で先頭を切ってきたのだが、念願の常務委員昇格を目前にしてすべての党職務から解任され、さらに党を除名されて完全に失脚した。

政治局常務委員とならんでもうひとつの注目は、中央軍事委員会主席の人事だ。これまで鄧小平も江沢民も、総書記の地位を譲りながらも軍を握る中央軍事委員会主席の地位は手放さなかった。本当の党のトップは総書記ではなく中央軍事委員会主席であるのかもしれない。果たして胡錦濤は前任者たちのように中央軍委主席にとどまるのか、それとも案外あっさりと習近平に譲ってしまうのか。

さて当たるも八卦当たらぬも八卦。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年10月19日 (金)

「鄧小平秘録」


鄧小平が死んだ直後にこんな文章を書いた。
先日の記事と導入部分が同じだが、やってることがいつも同じということだろう。興味を引かれるポイントが昔も今も変わっていない。三つ子の魂百まで、もう自分でも諦めてる。

まだ毛沢東が生きていた頃(かつ本人が失脚していなかった期間)はさておき、鄧小平が実権を握っていた時代の功績というか、重要なイベントを挙げるとすると次の3つになるだろう。

第一は、「ふたつのすべて派」の打倒だ。
毛沢東が死んだ直後、半分クーデターのような「四人組」逮捕で毛沢東が発動した文革は事実上終わった。しかし毛沢東に代わって党と政府のトップに立った華国鋒の権力の源泉は、毛沢東に後継として指名されたという一点でしかなかった。つまり、毛沢東の権威を高めれば高めるほど、毛沢東によって指名された自分の地位も安泰になるということである。そこから「毛沢東の言葉はすべて正しく、毛沢東の指示はすべて守らなければならない」とする「ふたつのすべて」を押し出した。毛沢東無謬論である。毛沢東の全てを肯定するということは、つまり毛沢東が発動した文革も肯定するということである。これを固守するかぎり、文革の清算は不可能になる。文革で失脚した人物の復活も、文革で迫害された人々の名誉回復もあり得ない。毛沢東無謬論を葬り去るために鄧小平(と仲間たち)は、毛沢東自身の言葉を武器にした。毛沢東が戦前に発表した「実践論」という論文を引用し、「実践こそが真理を検証する唯一の基準」と題する論文が発表され、ただちに党機関紙「人民日報」や軍機関紙「解放軍報」に転載された。鄧小平はこの論文への支持を表明し、華国鋒などの「すべて派」との対立が表面化する。しかし文革への反発は強く、地方や軍では「実践派」が大勢を占め、「すべて派」は孤立する。毛沢東の言葉をすべて疑問なく受け入れるならば、かつて毛沢東が発表したようにあらゆる理論は実践の検証を受けなくてはならない。この「あらゆる理論」には毛沢東自身の言葉も含まれる。したがって、毛沢東の理論も実践による検証をうけなければ真理であるとは証明できない。この矛盾を突かれた「すべて派」は進退窮まり、ついに「実践派」に屈した。こうして文革の再評価が行なわれ、かつて文革でその地位を逐われた人々が復活し、文革中に毛沢東のひきで上昇してきた「すべて派」の人々はやがて消えていく。

第二は天安門事件。
これについては以前にも文章を書いており、いまでも大筋では外れていないと思うので重複は避けようと思う。ただ、当時の総書記である趙紫陽が穏便な解決を目指したのに対し、人民日報の社説という形で強硬な談話を発表して学生たちを刺激したのは鄧小平だった。ある意味、趙紫陽を窮地に追い込んだとも言える。当時趙紫陽は北朝鮮訪問中で、留守の間に李鵬などの保守派が鄧小平に吹き込んで談話を出させたという見方もある。折悪しく、鄧小平が執念を燃やした中ソ和解の象徴としてゴルバチョフ書記長が訪中することになっていた。鄧小平はゴルバチョフ訪問までの解決を趙紫陽に厳命したが、結局解決しないままゴルバチョフを迎えることになり、天安門広場で予定されていた歓迎式典は空港で行なわれた。鄧小平は大いに面子を潰されたと思ったに違いない。こうして趙紫陽の失脚は不可避となった。一方の学生の側でも強硬派が台頭する。所帯が大きくなるとかえって過激な言葉が力をもつのは洋の東西を問わない。学生たちは人民日報の社説撤回を要求して絶食戦術に打って出、当局との正面衝突の道を自ら選んでしまう。

そして最後が南巡講話だ。
89年の天安門事件によって、政治的には引き締めが図られた。鄧小平の意図としては政治的には引き締めたとしても、経済的には開放を継続する心づもりだったに違いない。しかし共産主義中国では政治の動向がすべてに影響する。「秩序ある建設」が最優先とされ、少しでも秩序を乱しそうなものは排除されていく。89年の秋には鄧小平は全ての公職から退き、形の上では一私人となった。引退後の鄧小平は、その動静が報道されることも談話が発表されることもまれになった。鄧小平抜きの中国では、鄧小平が心血をそそぎ、後継に選んだふたりの総書記(胡耀邦と趙紫陽)を切り捨ててまで守った「改革・開放」が骨抜きにされていく。それを鄧小平はどんな思いで見ていたのだろう。結局、鄧小平は「秩序派」の力を殺いで「改革・開放」を再加速させるための闘争を決意する。その発動時期に92年初頭を選んだのには、ふたつの理由が挙げられる。ひとつは、この年の秋に5年に一度開かれる党大会(第14期)が予定されており、この場で「改革・開放」を党の政策として確定しておかないと以後5年間「秩序ある建設」路線が定着してしまう。それでは遅すぎると思ったに違いない。そして何より党大会(と直後の中央委員会全体会)では人事が最重要議題となる。党の指導部を改革派で固めておくことが路線継承のために何より重要だ。そしてもうひとつは、91年8月にソ連でクーデター(未遂)が発生したことで、結果として91年末でソ連は解体してしまう。社会主義の先輩であるソ連の解体は衝撃的で、引き締めを求める保守派を勢いづけた。この流れが後戻りできないほど進んでしまう前に対処する必要性を感じたのだろう。92年1月、鄧小平は「休息」ということで南方に向けて旅立った。しかし鄧小平は綿密に準備した上でこの旅行に臨んでいた。南方を訪れたのはひとつはもちろん改革・開放の最前線である華南地方を直接視察するという目的があっただろうが、最大の目的は首都北京を離れることにあった。首都の現指導部から距離を置くことで自由な発言を保障するとともに、彼らの反応を外側から見極めることができる。湖南・広東・上海とまわった鄧小平は精力的に改革・開放の現場を視察してまわり、その成果を賞賛するのと同時に保守派を強く批判した。北京にあって報告をうけた指導部の面々は困惑したに違いない。彼らの選択肢はふたつあった。ひとつは一党員の私的な意見にすぎないとして無視すること、そしてもうひとつは全面的に受け入れること。江沢民は受け入れた。鄧小平の講話を全党に伝達して学習するよう指示した。この瞬間、江沢民は鄧小平の真の意味での後継者になることができたと言っていいだろう。

ここで挙げた3つのイベントに共通して言えるのは、党内の主導権争いの中で鄧小平が主導権を確保して持論である改革・開放をまもろうとしてきたその現れということだ。有名な「白猫黒猫論」を鄧小平が言い出したのは実は1950年代の建国直後で、早くから徹底した現実主義者であることがわかる。
1978年に鄧小平が来日して一大ブームを巻き起こしたことを三十一は鮮明に覚えているが、実は端で見ているほど鄧小平の立場は安泰ではなかったのかもしれない。

というか、どんなことも「闘争」のタネにしてしまう共産主義国家というのは恐ろしいものだとつくづく思いましたよ。
タイミングよくというかなんというか、来月 11月8日から第18期党大会が開催される予定になっている。南巡講話から20年あまり、改革・開放はすっかり定着したが矛盾も拡大しつつある。かつて鄧小平は毛沢東無謬論を否定してみせたが、そろそろ誰かが鄧小平理論を見直さないといけないのではなかろうか。まあ余所の国のことだから口出しできないけどさ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年10月16日 (火)

「平将門と東国武士団」


吉川弘文館の新しいシリーズ「動乱の東国史」の初回配本。

三十一がものごころついて初めて見た大河ドラマは「風と雲と虹と」だった。
断片的な記憶しかないのだが、平将門という名前が刷り込みされたことは確かだ。

ガッコの日本史では教科書的な通り一遍な説明しかされずに拍子抜けだったのだが、ガッコの授業から縁が切れて趣味でその手の本をいろいろと読むようになると、武士団発生史というテーマにおいて平将門の乱というのはかなり重要なイベントであることがわかってきた。
大河ドラマでは加藤剛演じる主人公の平将門はまるで源平合戦の武将のように鍬形のついた兜をかぶり、緋縅の大鎧を身にまとって馬上から太刀をふるっていたけれど、考えてみれば将門の乱という時代は壬申の乱と壇ノ浦の合戦のほぼ中間、戦法も過渡期にあったはずであんなに完成されたステロタイプな武士像であったとはとても思えない。もともと関東地方は、畿内政権が東北地方を征服するための戦力供給源であったので、ほかの地方に比べると戦争が身近にあったはずだが、将門の乱とそれからおよそ100年後の平忠常の乱という大きな争乱によって戦法や戦術、武装などの発展が促されたと考えるべきだろう。

将門の乱から100年あまり、東北地方を舞台にして二次にわたる戦乱があった。前九年の役、後三年の役だ。清和源氏嫡流にとってこの合戦は奥羽への勢力扶植という目的を達成することができなかった失意の結果に終わったが、「武家の棟梁」たる源氏にとっては「累代の家臣」という神話の舞台として後世に語り継がれることになる。しかし実際には源氏の軍勢にしめる東国武士の比率はそれほど大きくなかったらしい。むしろ主力は京都で官位にあったとき、あるいは貴族に仕えていたときに主従関係を結んだ家臣であった。

いわゆる武士の「故郷」は地方なのか京都なのか、というのはよく議論になるのだが、どちらか一方に割り切れるものではなくその両方に拠点を構えて行き来していたのが実態であろう。その場合でも、特に高位の武士(つまり武家の棟梁になり得るような武士)においては比較的京都に軸足が置かれていたことが見て取れる。源氏が東国武士団を家臣団に編成したのは、源平合戦からそれほどさかのぼる時代ではない比較的最近のことであった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年10月 9日 (火)

「ザ・コールデストウィンター」

キムイルソンが死んだのをきっかけにしてこんな文章を書くことになり、そのために少し朝鮮半島に関する本を読む必要があった。それ以来、朝鮮戦争に関する本を書店でみかけるととりあえず手にとってみる習慣がついてしまった。けっこう分量があったので少し迷ったのだが、結局は買ってしまう。

朝鮮戦争は、第二次世界大戦とベトナム戦争に挟まれてわりと影が薄い。特にアメリカでは、無条件で誇りにできる前者と、無条件で反省すべき後者の間にあって関連書籍も乏しいようだ。「忘れられた戦争」という評価もあるが、何よりも如実にこの戦争の本質を示しているのは、参戦した兵士が言った言葉 "Die for tie" (引き分けるために死ぬ)だろう。

この著者はさすがにアメリカ人だけあって、本来当事者であるべき現地の北朝鮮軍と韓国軍についてはあまり触れられていない。特に韓国軍はほとんど出てこないし、たまに出てきたとしてもまったく評価されていない。まるでアメリカ軍と中国軍だけが戦争をしているかのようだ。そのアメリカ軍だが、もちろん負けるわけにはいかないが必要以上に勝つわけにもいかないジレンマを抱えていた。勝ちすぎてソ連を刺激し、欧州正面で全面戦争になるリスクをおかすだけの自信はアメリカ政府と軍上層部にはなかった。だからごく限られた戦力、資源、人材だけで現地軍は戦わなくてはいけなくなる。
それに不満をもったのはマッカーサーだった。厳密に言えば、マッカーサーは全世界に展開するアメリカ軍の中のいち戦域指揮官に過ぎない。自分の担当区域以外の戦略に口を出すのは越権行為だ。ところがマッカーサーは当時のアメリカ軍でずばぬけた経歴と実績を持っていて、軍上層部はおろか大統領でさえも格下だった。少なくともマッカーサー本人はそう思った。大戦中にヨーロッパ戦域の総司令官だったアイゼンハワーは、かつてマッカーサーの副官をつとめていた。統合参謀本部議長のブラドレーも陸軍参謀総長のコリンズも、マッカーサーよりも10期以上後輩だ。かろうじて対抗できるとすれば大戦中の陸軍参謀総長マーシャルくらいだろうが、当時マーシャルは大戦中の激務がたたってほぼ隠居の身だった。そして何よりも大統領のトルーマン自身がマッカーサーから見ればルーズベルトの急死で棚ボタの大統領職を得たに過ぎない人物だった。
マッカーサーは「自分は長年の極東勤務で東洋人のことを知り尽くしている」と豪語し、中国軍は参戦しないと断言して仁川上陸作戦を強く主張した。統合参謀本部は押し切られる形でこれを承認し、そして上陸作戦は図に当たって北朝鮮軍の優位は雲散霧消した。マッカーサーの威光はかつてないくらいに高まり、誰もマッカーサーに異をとなえることができなくなった。

マッカーサーは誰よりもこの戦争に勝ちたかった。勝つことで自分のイメージを維持し高めることができるからだ。その欲望に現実をあわせようとした。だから中国軍の参戦を示す兆候に目をつぶって北進を命じ、大兵力をもって参戦した中国軍の前に後退を余儀なくされたときには、兵力や手段に制約を設けた本国のせいだと責任を転嫁した。だが最終的には国という大きな組織の前に敗北を喫する。マッカーサーは解任され、公聴会ではその発言の矛盾が明らかになりそのイメージは失墜した。

マッカーサー抜きの極東では「引き分けるための戦争」がしばらく続く。しかしこの本ではそれについてはほとんど触れられない。実は、この本の主題は戦争そのものではなく、戦争で顕在化したマッカーサーとトルーマンと共和党と民主党の政治的な闘争を描くことにあって、戦争はそのための背景説明に過ぎなかったのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年10月 4日 (木)

相手の気持ちになって考える

最近、某サラ金のCMで「お客様の気持ちになって考える」というのをうたっているけれども、三十一はあれを見かけるたびにイラっとするのだ。
問題は「お客様の気持ちになって考え」た結果どういう対策が出てくるかであって、こんな精神論を押し付けて何かいいことをしたような気分になっているのだとすると救いがたい。

それはともかく、このごろ中国や韓国との間が領土をめぐってぎくしゃくしているが、これに対応するためには相手の気持ちになって考えることが必要だ。すぐ上で言ってることと違うように聞こえるかもしれないけど気にしない。
外交は相手があることで、相手が喜ぶこと嫌がることを把握した上でないと交渉はできない。どうも日本は相手が自分と同じように考えると思い込んでしまうことが多いように思う。国民性という言葉で安直に語りたくはないが、外務省のエリート連中であっても良くも悪くも日本人であるという前提から自由でいられないのだな。
確か加藤陽子の本で読んだのだと思うが、戦前の日本人は中国の抗日運動について「日本は条約に認められた正当な権利を行使しようとしているだけなのに、中国はその事実を認めずに排日抗日を繰り返して日本の正当な権利を侵害している」と本気で信じていたらしい。政府部内の見解にとどまらず、一般の認識でもあったという。だからこそ、日本の正当な権利を侵害する中国のみならず、それを理解せずに中国に肩入れする諸外国に対して反感を強めていく結果となった。日本人は~あえて「日本人は」と言うが~手続きさえきちんとしていれば誰もが文句を言わず従うと思っているようだが、実は「手続きなんか糞食らえ」と思う人が、またそれに共感する人が意外と世界にはたくさんいるということに注意する必要があるだろう。
「手続き上瑕疵がないから相手がどれだけ騒いでも出るところに出れば絶対に勝てる」と信じているのは生真面目な日本人くらいで、「形式は整っているかもしれないがそれは"正義"に反する行ないだからそもそも無効だ」くらいの反論は充分に予想してしかるべきだろう。"正義"なんていう人間の数だけあるものさしを持ち出してくると話が水掛け論に陥るのは目に見えているのだが、それ自体がひとつの戦術だ。

真面目さは日本人の美徳だと誇るのはいいけれど、言い換えれば日本人の生真面目さは希少だということになり、つまりは日本以外の大多数の人間は日本人よりも不真面目だということを意味する。三十一自身が日本人にしてはそれほど真面目ではないと自認しているのでよくわかるのだが、「手続き」にさほどの正当性を認めない人は意外に多い(多数派かもしれない)。

日本人の考え方は戦前と比べてもほとんど変わっていないとつくづく思うよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年10月 2日 (火)

2012年9月の打ち上げ

9月は6件。まあ平均かな。中国が2件、アメリカ、インド、ロシア、ヨーロッパが各1件。アメリカはまた中国に差をつけられた。

9日 04.23 スリハリコタ/PSLV (SPOT 6, PROITERES)
13日 21.39 バンデンバーグ/Atlas V (NROL-36, SMDC-ONE 1.2, Aeneas, CSSWE, CXBN, CP 5, CINEMA 1, STARE A, SMDC-ONE 1.1, AeroCube 4.5A, AeroCube 4.5B, AeroCube 4)
17日 16.28 バイコヌール/Soyuz 2.1a (MetOp-B)
18日 19.10 西昌/長征3B (北斗 M-5, 北斗 M-6)
28日 21.18 クールー/Ariane 5 (Astra 2F, GSAT-10)
29日 04.12 酒泉/長征2D (VRSS-1)

ただ、実際の衛星の数で考えると、13日のアトラスは大半ピギーバックだと思うが 12 基の衛星を一度に打ち上げている。中国は 2回で合計 3基。どっちが上とも言いがたい。

Orbital Launch Chronology

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年9月 | トップページ | 2012年11月 »