« 「平将門と東国武士団」 | トップページ | 五年に一度の »

2012年10月19日 (金)

「鄧小平秘録」


鄧小平が死んだ直後にこんな文章を書いた。
先日の記事と導入部分が同じだが、やってることがいつも同じということだろう。興味を引かれるポイントが昔も今も変わっていない。三つ子の魂百まで、もう自分でも諦めてる。

まだ毛沢東が生きていた頃(かつ本人が失脚していなかった期間)はさておき、鄧小平が実権を握っていた時代の功績というか、重要なイベントを挙げるとすると次の3つになるだろう。

第一は、「ふたつのすべて派」の打倒だ。
毛沢東が死んだ直後、半分クーデターのような「四人組」逮捕で毛沢東が発動した文革は事実上終わった。しかし毛沢東に代わって党と政府のトップに立った華国鋒の権力の源泉は、毛沢東に後継として指名されたという一点でしかなかった。つまり、毛沢東の権威を高めれば高めるほど、毛沢東によって指名された自分の地位も安泰になるということである。そこから「毛沢東の言葉はすべて正しく、毛沢東の指示はすべて守らなければならない」とする「ふたつのすべて」を押し出した。毛沢東無謬論である。毛沢東の全てを肯定するということは、つまり毛沢東が発動した文革も肯定するということである。これを固守するかぎり、文革の清算は不可能になる。文革で失脚した人物の復活も、文革で迫害された人々の名誉回復もあり得ない。毛沢東無謬論を葬り去るために鄧小平(と仲間たち)は、毛沢東自身の言葉を武器にした。毛沢東が戦前に発表した「実践論」という論文を引用し、「実践こそが真理を検証する唯一の基準」と題する論文が発表され、ただちに党機関紙「人民日報」や軍機関紙「解放軍報」に転載された。鄧小平はこの論文への支持を表明し、華国鋒などの「すべて派」との対立が表面化する。しかし文革への反発は強く、地方や軍では「実践派」が大勢を占め、「すべて派」は孤立する。毛沢東の言葉をすべて疑問なく受け入れるならば、かつて毛沢東が発表したようにあらゆる理論は実践の検証を受けなくてはならない。この「あらゆる理論」には毛沢東自身の言葉も含まれる。したがって、毛沢東の理論も実践による検証をうけなければ真理であるとは証明できない。この矛盾を突かれた「すべて派」は進退窮まり、ついに「実践派」に屈した。こうして文革の再評価が行なわれ、かつて文革でその地位を逐われた人々が復活し、文革中に毛沢東のひきで上昇してきた「すべて派」の人々はやがて消えていく。

第二は天安門事件。
これについては以前にも文章を書いており、いまでも大筋では外れていないと思うので重複は避けようと思う。ただ、当時の総書記である趙紫陽が穏便な解決を目指したのに対し、人民日報の社説という形で強硬な談話を発表して学生たちを刺激したのは鄧小平だった。ある意味、趙紫陽を窮地に追い込んだとも言える。当時趙紫陽は北朝鮮訪問中で、留守の間に李鵬などの保守派が鄧小平に吹き込んで談話を出させたという見方もある。折悪しく、鄧小平が執念を燃やした中ソ和解の象徴としてゴルバチョフ書記長が訪中することになっていた。鄧小平はゴルバチョフ訪問までの解決を趙紫陽に厳命したが、結局解決しないままゴルバチョフを迎えることになり、天安門広場で予定されていた歓迎式典は空港で行なわれた。鄧小平は大いに面子を潰されたと思ったに違いない。こうして趙紫陽の失脚は不可避となった。一方の学生の側でも強硬派が台頭する。所帯が大きくなるとかえって過激な言葉が力をもつのは洋の東西を問わない。学生たちは人民日報の社説撤回を要求して絶食戦術に打って出、当局との正面衝突の道を自ら選んでしまう。

そして最後が南巡講話だ。
89年の天安門事件によって、政治的には引き締めが図られた。鄧小平の意図としては政治的には引き締めたとしても、経済的には開放を継続する心づもりだったに違いない。しかし共産主義中国では政治の動向がすべてに影響する。「秩序ある建設」が最優先とされ、少しでも秩序を乱しそうなものは排除されていく。89年の秋には鄧小平は全ての公職から退き、形の上では一私人となった。引退後の鄧小平は、その動静が報道されることも談話が発表されることもまれになった。鄧小平抜きの中国では、鄧小平が心血をそそぎ、後継に選んだふたりの総書記(胡耀邦と趙紫陽)を切り捨ててまで守った「改革・開放」が骨抜きにされていく。それを鄧小平はどんな思いで見ていたのだろう。結局、鄧小平は「秩序派」の力を殺いで「改革・開放」を再加速させるための闘争を決意する。その発動時期に92年初頭を選んだのには、ふたつの理由が挙げられる。ひとつは、この年の秋に5年に一度開かれる党大会(第14期)が予定されており、この場で「改革・開放」を党の政策として確定しておかないと以後5年間「秩序ある建設」路線が定着してしまう。それでは遅すぎると思ったに違いない。そして何より党大会(と直後の中央委員会全体会)では人事が最重要議題となる。党の指導部を改革派で固めておくことが路線継承のために何より重要だ。そしてもうひとつは、91年8月にソ連でクーデター(未遂)が発生したことで、結果として91年末でソ連は解体してしまう。社会主義の先輩であるソ連の解体は衝撃的で、引き締めを求める保守派を勢いづけた。この流れが後戻りできないほど進んでしまう前に対処する必要性を感じたのだろう。92年1月、鄧小平は「休息」ということで南方に向けて旅立った。しかし鄧小平は綿密に準備した上でこの旅行に臨んでいた。南方を訪れたのはひとつはもちろん改革・開放の最前線である華南地方を直接視察するという目的があっただろうが、最大の目的は首都北京を離れることにあった。首都の現指導部から距離を置くことで自由な発言を保障するとともに、彼らの反応を外側から見極めることができる。湖南・広東・上海とまわった鄧小平は精力的に改革・開放の現場を視察してまわり、その成果を賞賛するのと同時に保守派を強く批判した。北京にあって報告をうけた指導部の面々は困惑したに違いない。彼らの選択肢はふたつあった。ひとつは一党員の私的な意見にすぎないとして無視すること、そしてもうひとつは全面的に受け入れること。江沢民は受け入れた。鄧小平の講話を全党に伝達して学習するよう指示した。この瞬間、江沢民は鄧小平の真の意味での後継者になることができたと言っていいだろう。

ここで挙げた3つのイベントに共通して言えるのは、党内の主導権争いの中で鄧小平が主導権を確保して持論である改革・開放をまもろうとしてきたその現れということだ。有名な「白猫黒猫論」を鄧小平が言い出したのは実は1950年代の建国直後で、早くから徹底した現実主義者であることがわかる。
1978年に鄧小平が来日して一大ブームを巻き起こしたことを三十一は鮮明に覚えているが、実は端で見ているほど鄧小平の立場は安泰ではなかったのかもしれない。

というか、どんなことも「闘争」のタネにしてしまう共産主義国家というのは恐ろしいものだとつくづく思いましたよ。
タイミングよくというかなんというか、来月 11月8日から第18期党大会が開催される予定になっている。南巡講話から20年あまり、改革・開放はすっかり定着したが矛盾も拡大しつつある。かつて鄧小平は毛沢東無謬論を否定してみせたが、そろそろ誰かが鄧小平理論を見直さないといけないのではなかろうか。まあ余所の国のことだから口出しできないけどさ。

|

« 「平将門と東国武士団」 | トップページ | 五年に一度の »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/196234/55927140

この記事へのトラックバック一覧です: 「鄧小平秘録」:

« 「平将門と東国武士団」 | トップページ | 五年に一度の »