« 立つ鳥後を濁せず | トップページ | 2012年11月の打ち上げ »

2012年11月26日 (月)

「蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡」


「東国の動乱史」第3巻。第1巻「平将門と東国武士団」は既読だが、第2巻がまだ出ていないので読むのを待とうかと思ったりもしたが、結局待てずに読んでしまう。

対象となる時代は鎌倉時代の後半、宝治合戦から幕府滅亡まで。つまり北条氏が執権として幕府の実権を掌握していた時代、ということになるのだがもちろんその間にも紆余曲折があった。

幕府成立からほぼ半世紀の1247年、北条氏は執権として幕政を主宰していたが形式の上ではなお御家人の第一人者というに過ぎず、有力御家人の合議制という建て前はまだ保たれていたのだが、その中で当時最有力であった三浦氏の嫡流を滅ぼして北条氏嫡流(得宗家)の覇権が確立したのが宝治合戦だった。この合戦の主要な戦闘は鎌倉で展開したがその余波は各地に及んでいて、その結果家督が庶流に移ったりした御家人が少なくない。ただ、この時代では後世と違って「御家断絶」ということは滅多になく、嫡流が罪を得ればその所領の多くは庶流に譲られ、家督が継承される例が多かった。三浦氏の場合も嫡流は滅んだが家督は庶流に渡って継続している。もっとも、これまでのような影響力はもはや行使できなくなっている。

宝治合戦により、北条氏はこれまでのような「御家人中の第一人者」から別格の「執権家」に脱皮した。というより、北条氏と並び称される可能性を持った御家人が姿を消した以上、必然的に別格になってしまったと言うべきか。いずれにせよ、「執権」は北条氏嫡流得宗家の家職として確立した。それを如実に示すのは、北条時頼の病気に際して執権職を傍流の北条長時に譲ったことであろう。これまで執権職は北条氏嫡流が独占してきたが初めて傍流から執権に就く人物が出た。これは嫡流の力が衰えたのではなくむしろ逆で、仮に一時傍流に預けておくにしてもいずれ必ず嫡流に取り戻せるという確信があったからだろう。実質的に得宗家の権力が確立したいま、執権職は形式に過ぎない。時政・義時・泰時といった鎌倉時代初期の執権たちにとってはまさにその「執権」の地位にあること自体に意味があったが、もはやそんな配慮は不要になった。

さて幕府内部の権力の在処についてはひとまずおいて、幕府という機関がどのように日本国内の統治機構として浸透していったかという過程を考えると、そこには大きくふたつの契機がある。承久の乱と蒙古合戦である。
もともと幕府は日本全体の統治を目的として形成されたのではない。むしろ京都の朝廷に対して東国を中心とした武士たちが自分たちの所領に対する権益を保護することが当初の目的だったと言えるのではないだろうか。あえてわかりやすい表現を用いるなら、東国武士団による自治組織と考えることができる。源頼朝が義経追討を名目として荘園に対して地頭を設置したのが幕府成立の大きな契機であるが、このときには全ての武士が「御家人」であるわけではなかった。幕府の支配は東国を中心とした御家人と御家人領にだけしか及んでおらず、これ以外の人々と領地については幕府の管轄外と考えられていたのである。この考え方自体は承久の乱でもそれほど変わっていないが、西国に多かった非御家人の多くが乱によって没落し、領地が東国武士に譲られた結果、それまで東国に偏っていた幕府管轄地が全国的に展開することになる。あわせて、幕府は六波羅探題を置いて朝廷の政治に直接介入することを始める。

蒙古合戦では、侵略への対処という観点から武装組織である幕府が第一義に対応したという側面はあるのだが、見方を変えれば国外からの何らかの働きかけ(侵略というのもひとつの働きかけだ)に対してどこが日本を代表して対応したか、という点で蒙古に対しては幕府が前面に立って対処したという事実が重要だ。現代でも外国使節に対応するのは国家元首の仕事と決まっている。まず外交段階でも朝廷は幕府に対応を丸投げしている。幕府はこの国難に対応するため、御家人領以外のいわゆる本所に対しても兵力の提供を命じている。日本全体の危機に対して御家人以外も負担するのは当然だが、問題はそれを指揮しているのが幕府だということだ。ここで幕府は「御家人の自治政府」であることをやめて「日本全体の統治主体」に変質した。

問題は任務の変質に対して機構がついていけてないことで、本来「御家人の利益代表」でしかない幕府首脳にとって「日本の国益」は考慮の外だった。当時猛威をふるった「悪党」の跳梁に対して、非御家人である悪党に対して幕府の統制は効かない。近隣の御家人に討伐を命じるにしても、当時の御家人の所領は荘園や郷村といった比較的小さな所領が各地に散らばっているというのが普通で、荘園はおろか国をもまたいで活動する悪党に各御家人が対処するのは無理があった。結局、悪党あるいは国人と呼ばれたこの階層を統制するためには、室町幕府によっても達成できず戦国時代を経て織豊政権と江戸幕府による全国支配を待たなければならなかった。

|

« 立つ鳥後を濁せず | トップページ | 2012年11月の打ち上げ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/196234/56192759

この記事へのトラックバック一覧です: 「蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡」:

« 立つ鳥後を濁せず | トップページ | 2012年11月の打ち上げ »