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2013年3月14日 (木)

「アフガン侵攻」


けっこう厚い本だけど、わりとさくさく読めました。
そこそこ予備知識があったせいかもしれないけど。

昔、秦郁彦編集の「世界諸国の制度・組織・人事」でアフガニスタンの項目を見ていたとき、歴代国家指導者の名前の横に"死亡"を意味する (x) というマークが並んでいるのを見て驚いたことがある。凡例としてはこの (x) マークには病死などの自然死も含まれているのだけれど、ここに限っては例外なく非業の最期を意味している。



1933年から40年にわたって王位にあったザヒル・シャー国王(21世紀に入ってから再度登場したが2007年に亡くなった)がイタリアを訪問している留守にかつての首相で王族のダウドがクーデターを起こして王制が廃止されたのが1973年。
1978年4月にダウドが殺害されて、共産党のタラキが大統領に就任するが、翌1979年9月にアミン首相に殺害される。反政府ゲリラを鎮圧するためにソ連軍の介入を要請したアミンだが、アフガニスタン国内に入ったソ連軍がまずしたことは、大統領宮殿を襲撃してアミンを権力からひきずりおろすことだった。この襲撃の過程でアミンは死亡する。アミンの代わりに大統領に就任したのはカルマルだが、ソ連が撤退を模索するにあたって障害になると考えられたため、1986年にナジブラに交代させられる。カルマルは病気治療の名目でソ連に亡命し、1996年にモスクワで病死する。後継となったナジブラは、1989年のソ連軍撤退後もしばらく政権を維持していたが1992年に首都カブールが反政府軍の手に落ちると、ロシアへの亡命を試みたが失敗してカブールの国連事務所にかくまわれていたが、1996年にカブールが今度はタリバンによって占拠されると国連事務所から引きずり出されて殺害された。
1973年から1992年までの20年間に5人の最高指導者が入れ替わり、そのうち4人が殺害されて1人が亡命したことになる。気をつけなければいけないのは、ソ連軍が侵攻したのは1979年12月で、その時にはすでにアフガニスタンは混乱状態にあったということだ。ソ連が侵攻したから内乱になったわけではないのだ。

ソ連のアフガニスタン侵攻は、それまでのデタント(緊張緩和)を吹き飛ばし、アメリカに強硬派のレーガン政権を誕生させ、1980年代の対決をもたらした。しかしソ連指導部にもソ連軍部にも、この介入を長期化させるつもりは最初からなかった。もともと介入要請はアフガニスタン政府(ダウドやタラキ)からあったものだが、ソ連は拒否し続けてきた。それが一気に介入に傾いたのは、アミンによるタラキ殺害がきっかけだった。ソ連はアミンを排除してもっとずっと穏健な政権を樹立させることを望み、そして実行した。

ソ連はアフガニスタンを16番目のソビエト共和国にしたかったわけではない。ただ、潜在的な不安定を抱えた中央アジア諸共和国のすぐ南側にアメリカやパキスタンの影響力の大きい政権が誕生するという悪夢を見たくなかっただけだった。だから、アフガニスタン政府が安定すればすぐ撤退するつもりだった。しかしソ連政府は、同じことを20年近く前にアメリカがベトナムで試みて失敗していたことを忘れていたか、あるいは見て見ぬふりをした。そしてアメリカと同じ過ちに陥ったのである。

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