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2013年8月30日 (金)

「科学を語るとはどういうことか」


副題は「科学者、哲学者にモノ申す」とある。
物理学者である須藤靖が、科学哲学者の伊勢田哲治に「科学哲学」とは何かを問うという対談形式の本で、いちおう買ってはみたものの最後まで読み切る自信はあまりなかった。しかし実際に読んでみるとわりとあっさり読み終えてしまった。もっとも、どこまで理解できたかはわからない。

三十一は「科学者」とは言いがたいがいちおうエンジニアの端くれであるから、当然「科学者」の側にシンパシーがある。「科学哲学」という言葉そのものは目にしたことがあるけれど、科学者にとっての揶揄の対象という文脈でしか見たことがない。もちろんそれが科学者のおおかたの見方であると断言できるほど科学者を知っているわけではないけれど、肯定的な見方を示しているのはあまり見たことがないのも事実だ。知るかぎりの最大公約数的な態度は、揶揄の対象かさもなくば無関心といったところだろう。この本の中でも引用されているが、20世紀を通じても最大級の物理学者のひとりであるリチャード・ファインマンは科学哲学者を評して次のように言っている。

「科学者にとって科学哲学は、鳥類学者が鳥にとって役立つ程度にしか、役立っていない」

もちろん、鳥は鳥類学者などというものが生まれる前からずっと生存してきたのであり、いてもいなくても鳥が生きていくのには何の違いもない。科学哲学も、科学者にとってはその程度の存在だということだろう。「科学者」須藤氏も、これだけであればおそらく口出ししようという気にはならなかっただろうが、たまたま見かけた「ビリヤード問題」が科学者の目から見て噴飯物の議論にしか見えなかったので「なんだこれは」と思った、というのがこの本の企画の発端となる。

300ページに近い対談の内容をまとめるのは簡単ではないし、話題があちこちに飛ぶので事実上不可能だ。ただ、三十一が「なるほど」と思ったのは「解けるようになった、決まった手順で積み重ねていけるようになった問題は、哲学から『卒業』し」ていくものだという哲学者の発言である。決まった手順を追い求める科学者と、議論がかみ合わないのも無理はないなとある意味納得した。
その一方で、科学者が「科学者の言う『正しい』というのはこれまで知られている現象を矛盾なく説明できるという以上の意味ではなく、明日もっと『正しい』説明が出てくる可能性を否定するものではない」と認めたのが哲学者のほうには意外に思われた、というのが印象に残る。実はこの種の認識の違いは科学者と一般の人々の間の科学観の違いとも共通している。
「近い将来、世界を支配する理論がすべて解明されるなんてことはとても考えられない。なぜなら、もしそうなったら世界中の科学者は失業してしまうから」というジョークがあるけれども、それはつまり科学者のほうでもそんなことは起こらずにまだ当分の間は職があるということを確信しているという証拠である。

繰り返しになるが、議論はほぼ全編ですれ違っている。しかしそのすれ違いから、科学者と哲学者の考え方の違いが浮かび上がってくる。そういう意味では収穫はあった。

哲学者は、本来結論の出ない問題についていろんな側面から議論するという訓練を重ねている。だから、簡単に答えの出ない問題を考える際には「こういう見方もできますよ」というアドバイスができるのではないか。そうなれば「哲学」にも具体的な価値が出てくるのではないかな。こういう発想がすでに「科学者的」と言われそうだが。

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