« HMAS Soryu | トップページ | プレイヤーは変わる、コーチはよみがえる »

2015年1月15日 (木)

誰がために新聞は出る

フランスの新聞の風刺について。

現物を見ていないので、報道されているコメントに依存していることをあらかじめ承知の上で読んでほしいのだが、

三十一はこのニュースを聞いていて、これが「風刺」だという表現に違和感を感じた。
表現の自由は尊重されるべきであり、暴力に訴えるのは論外というのは大前提としても、それでもこれが「風刺」だというのならば風刺することによって最終的にはものごとが(風刺する側の主観であったとしても)望ましい方向に向かうことを目指しているのだろう。
それぞれが考える「望ましい方向」が一致しないということは当然にあり得るので、そこで意見がぶつかることは想定の範囲内だ。これもいいだろう。

しかしわからないのは、これがいったい「誰に向けた」風刺なのだろうかということ。
この風刺画によって、「改善」すべきだと訴えかけようとしている対象は誰なのだ? 全世界16億人(Wikipediaによる)のムスリム?

「正当な批判」と「単なるヘイト」の境界はどこにあるか、三十一が考えるのはその対象が「行動」や「言動」なのか、それとも「属性」なのかの違いだろうと思う。
「イスラム教徒だから」「在日だから」「B型だから」「女性だから」などはすべて「属性」でしかない。「属性」と「行動・言動」の間にときに相関があることは否定しないが、それでも「属性そのもの」を問題にするべきではない。

三十一が日本で暮らしていて気になるのは、こうした「属性」にともなう評価が幅を効かしていること。
例えば日本ではほとんどの人間が知っている「血液型性格特性」は欧米ではまったく知られていない。性格は個人のものであり、血液型という属性と関連づけることに意味はないと考えるのだろう。さすがに欧米の個人主義のもとではこうした「属性」にまどわされて十把一絡げで評価することはしないのだな、と考えていた。

考えていたのだが。

今回の件で思い知ったのは、欧米でも個人主義が強いと言われているフランスでさえも、その個人主義は所詮キリスト教の枠内でのみ機能しているのだということ。
そもそも欧米の個人主義は神と1対1で対峙するという教義によるところが多い。神の前では皆ひとりであり、皆平等であるという考えが個人主義の源泉となっている。
「キリスト教徒」と「イスラム教徒」という属性の違いを、キリスト教の個人主義は乗り越えることができなかった。

いっぽうで非キリスト教徒でもともとキリスト教の枠内にいない三十一が個人主義を目指そうとするなら、こうした枠は乗り越えることができるし、乗り越えなければ本当の個人主義にはならない。
とりあえず三十一はすべての宗教に対してフラットに対しようと考えている。個人的には無宗教だが。

# ところで三十一も「属性」に対して感情的な好き嫌いを感じることがあるのは自覚している。それを認めた上で(認めたからこそ)意識して表に出さないようにつとめている。できているかどうかはわからないが。

|

« HMAS Soryu | トップページ | プレイヤーは変わる、コーチはよみがえる »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/196234/60980168

この記事へのトラックバック一覧です: 誰がために新聞は出る:

« HMAS Soryu | トップページ | プレイヤーは変わる、コーチはよみがえる »