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2015年2月24日 (火)

「大陸・南方膨張の拠点: 九州・沖縄」


このシリーズを読んでいて感じるのは、章によってそれぞれの執筆者の特定の主張が強く押し出されるケースがあること。例えばこの巻ではないが「所沢」をとりあげたときに所沢で編成訓練された陸軍の航空部隊が出征先の中国でどんな被害をもたらしたかをこと細かく記述していたが、正直それが所沢という特定の地域と軍隊のかかわりとしてどんな意味をもつのか疑問に思った。主題を見失っていないか。この章ではいろんな単語にやたらとカギカッコをつけているのも気になった。
最近の流行のようで「アジア・太平洋戦争」という呼び方が多くの章でされているが、三十一はこの単語を好まない。この単語に限らず、歴史上の固有名詞を読み替えることで何らかの意味を持たせようという試みには反対だ。当時実態としてはあったが特定の名称がなかった事象に、後世の歴史家が便宜上の呼び方を定義するのは避けて通れないが、当時すでにあった固有名詞は固有名詞としてフラットに取り扱うべきで、そこにバイアスを持ち込むような違った名前を与えるべきではない。少なくとも歴史学者を名乗るのなら、ね。太平洋地域だけでなくアジア地域にも戦火が広がったことを示すために「アジア・太平洋戦争」と呼ぶべきだという主張らしいが、だったらほぼ同じ意味の「大東亜戦争」ではなぜいけないのか、という疑問にはどう答えるのだろう。当時の人間が言うことはダメで、現代の歴史学者が言うことは正しいということかな。過去の(歴史上の)人物の所業を全否定するかのような態度は歴史学者としていかがなものか。

それはともかく「九州・沖縄」であるがこの巻ではやはり沖縄の置かれた立場というのが印象に残る。どうしても軍隊の側に批判的に記述される傾向があるが、それを差し引いてもやはり沖縄の置かれた状況は厳しいものといわざるを得ない。特に沖縄戦後の米軍占領下での過酷な状況は、普段マスコミなどでもあまり報じられないだけに興味深かった。

沖縄と軍隊のかかわりの歴史を概観してみて思ったのは、沖縄という地域(あるいは住民)と軍隊の間の関係がずっといびつなまま長い年月を経てしまっていること。
ときどき「沖縄のひとは元来平和で」みたいなことを言う人がいるけれど、時代をさかのぼってみると必ずしも正しくない。琉球王国の統一前、あるいは統一後も各地方の有力者同士が武力で争う時代が長く続いた。これ自体はそれほど珍しいことではなく、地域や時代を超えて世界中で時期を問わず見られる状況であり、沖縄が特に平和を好んだわけではない。もちろん、平和を嫌ったというわけでもない。人並み、ということだ。
その状況を変えたのは17世紀初めの島津家による琉球制圧だ。これ以降、現在にいたるまで沖縄の人々は沖縄防衛という仕事から切り離され、外来の軍隊が沖縄に駐留するという状況が続いた。明治維新までは島津藩、その後は明治政府軍(日本軍)、そして米軍。400年もの間、沖縄の人々は沖縄における軍事政策立案に携わることができずに外部から押し付けられるまま従うことを余儀なくされてきた。こうした事実が沖縄人の軍隊というものに対する態度に影響を与えなかったはずがない。沖縄人と軍隊が常に対立していたというわけではない。ときには利害関係が一致することもあるだろう。しかし、沖縄人が「あっち側」に立つことはなかった。

そう考えると、沖縄の自衛隊には単に沖縄を防衛するだけでなく、こうした状況を是正する役割を果たすことが期待される。沖縄のために沖縄を防衛するという立場に立って日々行動することによって、国民(県民)の軍隊というものに対する見方を少しずつでも変えていき、沖縄と軍隊のかかわり方をあるべき姿に近づけていくことができるかもしれない。例えば第101不発弾処理隊(101不処隊)や第15飛行隊(現・第15ヘリコプター隊、旧・第101飛行隊)は不発弾処理や急患輸送といった直接県民の助けになる活動を続けてきた。今後は災害派遣の機会も増えるだろう。先日、与那国島で自衛隊配備の是非を問う住民投票が行なわれたが、その際に賛成派の論拠のひとつとなったのが災害時に自衛隊の部隊が島内にあることの利点である。米軍と自衛隊の一体化が懸念されて(あるいは望まれて)いるけれど、表面上の運用はともかくとして究極の目的としては米軍とは異なり国土(もちろん沖縄を含む)と国民(もちろん沖縄県民を含む)の平和と安全を目指すという立場は堅持すべきである。こうなると米軍と自衛隊で「同床異夢」になってしまうという批判もあるだろうが、人が違えば違う夢を見るのはあたりまえ、国が違えば目指すものが違うのはあたりまえで、それぞれの目的のために協力するほうが利益になると踏めば協力関係は成り立つのである。国際関係とはそうしたものだろう。人間関係となんら変わりはない。ともかく、自衛隊は旧軍とも違うし、米軍とも違うということを実績でもって示すことが重要だ。旧軍の「菊」と「龍」の部隊号を引き継いでいる、などと瑣末なことをあげつらうのは建設的ではない。沖縄出身の自衛官が沖縄に駐屯する部隊の指揮官になるようなことが普通になれば状況は変わるかもしれない。

さてこうした沖縄の事情を知った上でなお、三十一は米軍が沖縄にあることは必要だと思う。米軍が沖縄に部隊を残しておきたいか、それとも撤退したいのかは米軍の事情である。しかし日本としては米軍が日本にいてもらわないと困る。それは最前線である沖縄がなんらかの攻撃をうけたときに「米軍を巻き込む」ためだ。日本がアメリカの戦争に「巻き込まれる」という主張は冷戦時から数限りなく唱えられてきたが、冷戦も終わりアメリカの国内世論が内向きになりつつある昨今、日本にとってもっとも避けるべきシナリオはアメリカから見捨てられることである。実際、アメリカ国内では日本と同じように「極東の情勢にアメリカが巻き込まれる」ことを恐れる意見が根強くある。こうした意見が万一にも力を得て実行に移された場合、日本の状況は劇的に変わる。甘んじて他国の支配をうけるか、あるいは強迫に屈するか、さもなくばこれまでの数倍は下らないであろう防衛費の負担を費やして独力での防衛をはかるか。いずれにせよこれまでのような平和で安定した生活は望めない。日本としてはアメリカが日本防衛にコミットし続けるために、米軍を沖縄にいわば人質として置いておく必要がある。
「いざというときに米軍が命をかけて日本を守ってくれるわけがない」と言う人がいるが、そんなことはあらためて指摘するまでもない当然のことだ。無条件で自国のために命をかけてくれるのは自国の軍隊以外にない。もちろん、米軍はアメリカのために命をかける。最終的な目的はアメリカを守ることであって、「日本を守る」のは手段でしかない。言い換えれば、「日本を守る」ことがアメリカの国益になるから「日本を守る」のだ。日本の立場としては、アメリカに「日本を守ったほうが国益になる」と信じ込ませる必要がある。必ずしも事実である必要はない。相手がそう思ってくれさえすればいいのだ。あるいは「米軍が沖縄にいれば抑止力になるから、万一攻められたときに本国から部隊を送ってくるよりも結局安上がり」という話でもいい。まるでどこかの営業マンのセールストークのようだが、売りつける商品が違うだけで実際にやってることは大して違わないのだ。

自衛隊が沖縄に配備されるようになって40年余りが経つが、400年にわたる長年月と、沖縄戦という強烈な経験ですり込まれた感情を払拭するにはまだまだ足りない。しかしこうした沖縄と軍隊の不自然な関係性が是正されれば、沖縄のみならず日本全体にとっても大きな意味があるだろう。焦らずしかし着実に、日々の勤務を通じて少しずつでも前進してもらいたい。

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