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2015年3月27日 (金)

2015年3月の桜

3月30日付けの人事異動。
将の退職・昇任はそれぞれ陸2、海1、空2だが内容は小幅。陸の動きがやや大きいくらい。

(陸将)
田邉揮司良・北部方面総監(防24)>退職
岡部俊哉・統合幕僚副長(防25)>北部方面総監
山崎幸二・第9師団長(防27)>統合幕僚副長
湯浅悟郎・陸幕装備部長(防28)>第9師団長(陸将補から昇任)

保松秀次郎・第10師団長(防24)>退職
山本頼人・防研副所長(防27)>第10師団長(陸将補から昇任)

(海将)
藏迫兼志・技本船舶担当技術開発官(鹿児島大)>退職
舩木洋・海幕装備部長(横浜国大)>技本船舶担当技術開発官(海将補から昇任)

(空将)
古賀久夫・空自補給本部長(防24)>退職
吉田浩介・航空総隊副司令官(防25)>空自補給本部長
前原弘昭・統幕運用部長(防27)>航空総隊副司令官
武藤茂樹・空幕人事教育部長(防28)>統幕運用部長(空将補から昇任)

大橋幸一郎・防衛医大幹事(防医1)>退職
山田憲彦・航空医学実験隊司令(防医5)>防衛医大幹事(空将補から昇任)

陸自では、防大24期の方面総監三名のうち田邉北方総監が退職。残るのは磯部晃一・東方総監と、番匠幸一郎・西方総監。
次期陸幕長が24期となるならこの二人の一騎打ちだが、現陸幕長の岩田陸将は23期なので2期つとめて25期に譲るということも考えられる。その場合の最有力候補は今回北方総監となった岡部陸将となろう。

海と空については幕僚長レースに影響するような動きはなかった。あったとしても、次の次の空幕長くらいだろう。

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2015年3月21日 (土)

潜水亭沈没

さだまさしが落研時代に「飛行亭墜落」という高座名を名乗っていたことを知っている人がいるかもしれない。実は三十一は中学時代の落語クラブで「潜水亭沈没」を名乗っていた。blog をはじめる前にやってたサイトのプロフィールには書いてあるけど。

ちなみに当時三十一が通っていた中学校では自由参加の部活とは別に、週一回全校生徒が必ずどれかに属して活動するクラブ活動というのがあった。活動は一年単位で毎年渡り歩くやつも多かったが、三十一は3年間ずっと落語クラブだった。

落語に接したのは中学のクラブが最初というわけではない。
小学校高学年のある日、なんとなく家のレコード(当時CDなんてものは影も形もなかった)置き場をあさっていて落語のレコードを見つけた。桂米朝全集の中の数枚だった。含まれていた演目は「地獄八景亡者戯」「愛宕山」「一文笛」など。小学生の分際で三十一は落語にはまってしまった。しかし小学生の分際ではレコードやカセット(時代だなあ)を自腹で買うほどの甲斐性はなく、ましてや公演に出かけるなんて考えられなかった。テレビでたまたま放映していてしかもチャンネル争いに勝ったときだけ(ビデオもなかった)見られるくらいだ。というわけでもっぱら桂米朝の数枚のレコードを繰り返し聴くくらいが関の山だった。

中学の落語クラブでは備品のカセットを借りたりしたので、上方落語だけではなく江戸落語も含めて新しい演目にも触れることができた。当時新潮文庫(だったと思う)から「古典落語」と題する全7巻(しかも1冊がものすごく分厚い)の有名な演目を文字にした本が出ていて、これも繰り返し読んだ。

例の桂米朝レコードのもともとの持ち主は母だった。父は落語に興味はなかったようだ。米朝が東京に来たときに母を誘って聴きに行ったこともある。演目は「稲荷俥」だったと思う。

馬齢を重ねるにつれて三十一の中で落語が占める割合は下がりつづけた。世界が広がるに従っていろんなものに興味が生じるのは避けて通れない。しかしゼロにはならなかった。そして米朝は三十一にとって常に特別な存在だった。人間国宝になっても文化勲章をうけてもさして意外とは思わなかった。高齢のため東京に出てくるようなことがなくなったのは残念だった。東京に来たからといって万難を排して観に行くというほど熱心ではなかったが。

NHKの朝ドラで上方落語が取り上げられていたことがあるが、師匠役の渡哲也が演じる落語が下手くそで聞いていられなかった。「愛宕山」も「地獄八景」も米朝が基準なのだから当然なのだが、兄弟子役の桂吉弥(実際には米朝の孫弟子)のほうがずっと上手だった。

何年か前、ふと思いついて「米朝全集」のCDを買いそろえ、MP3プレイヤーに入れて聞いていたことがある。その後プレイヤーから削除されていたのだが、ひと月ほど前にいくつかの演目をまた聴き始めた。最近のお気に入りは「帯久」である。

そこに飛び込んできた米朝の訃報。
数日前、「まだ生きてるよね」とウィキペディアで確認したばかりだったので驚いたし、がっかりした。個人的にはカルロスクライバーの訃報以来の衝撃だった。とりあえず「桂米朝」のキーワードをビデオの録画キーワードに登録した(機能があるのは知っていたが使うのは初めてだ)が、ニュースでの伝え方も関東と関西では温度差があるようだ。三十一はおそらく関西での温度よりもさらに高い。

そろそろ落語家から国民栄誉賞が出てもいいと思う。

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2015年3月12日 (木)

ひむかしの野にかぎろひの立つ見えて

今回は駆逐艦陽炎(かげろう)。厳密に言うと二代目。

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うしろにうつっているのは、比較のために並べてみた長良。
一隻竣工するごとに毎度悩むのが次の建造艦を何にしようかということ。在庫は豊富に取りそろえているので逆に選びきれない。最初はもうちょっと大物にしようかとも思っていたのだが、とりあえず軽く駆逐艦にでもしておこうかと思って、WLシリーズから出ている甲型駆逐艦の中では一番新しいアオシマの陽炎を選んだ。選んでから気づいたのだが、これが何故か2個あったので最終的に確定。

直前に作った長良がタミヤだったのでどうしても比べてしまうのだが、マストや蒸気捨管のような細い部品をランナーにつなげるところをどうしてこうした形にしてしまうのか理解に苦しむ。例えば艦尾旗竿の場合でも、それほど長くもない部品であるのに先端と根元の二個所でランナーとつながっている。どちらから切っても力の逃げ場が無くて不用意に切ると折れたり曲がったりしてしまう。プラ用のノコギリがほしいと思ったよ。そういうツールもあるのは知っている。

それにしても「陽炎(かげろう)」というのはいかにも日本的な名前だ。
陽炎は「実体のない、はかないもの」のたとえによく使われた言葉だが日本以外の諸国の考え方では軍艦につける名前としては適当とは思われない。しかし日本は他国でよくつけられているような勇猛な単語や都市名はつけられない(山や川といった自然地名はよくつけられる)。
かつて秋月型駆逐艦が建造されていたころ、「宵月」「春月」「花月」といった艦名を聞いて「待合みたいな名前ばかりつけやがって」と言われたという話が伝わっている。まるで料亭の名前のようだ、ということだろう。こうした名前を好んでつけ、他国でよくつけられるような内容の名前を忌避するという発想は日本人特有のものと言っていいだろう。三十一は日本人の特殊性を強調するのはあまり好きではないが、こうした感覚は(よしあしは別として)特筆してもいい。もっとも、最近はこうした感覚もだいぶ変わってきたように思う。

ただ、戦前の軍艦では「陽炎」は2代にわたって命名された名前だが、戦後の自衛艦としては「かげろう」と命名されたフネはない。言葉そのものがなじみが薄くなったというのもあるだろうが、それよりも戦後は基本的に平仮名で表記されるようになったということが大きいと思う。「かげろう」だと「陽炎」ではなく「蜉蝣」を思い浮かべる人のほうが多いかもしれない。

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2015年3月 5日 (木)

大和はずいぶん前に発見済み

ポール・アレンといえば NFL のシアトル・シーホークスのオーナーとして有名だが、余技で戦争遺跡の探索やIT企業の経営もやっているそうだ。

そのポール・アレンがフィリピンのシブヤン海底で武蔵(2代目)と思われる船体を発見した。発見場所や状況、発見された漢字などから日本国内の専門家も「ほぼ確実」と言っている。この海域で他に沈没した日本の大型軍艦はないので間違いないだろう。

報道によると艦首の御紋章台座、艦尾のカタパルト、そして中央部の八九式高角砲などの映像が公開されており、艦首部分から艦尾までが確認されている。姉妹艦の大和(2代目)が東シナ海で発見されたときは沈没時の爆発で船体が分断されていたが、武蔵のほうは船体の一体性がほぼ保たれているのだろう。もともと、沈没時の経緯からひとかたまりのまま沈んでいるだろうと言われていたのだ。中には、「内部に相応の浮力が残っていて潮流に流されたかもしれない」と船体が見つからない原因を想像する意見もあった。でも結局は沈没地点からそう遠くない場所で見つかったということだろう。
イスカンダルにむかう宇宙戦艦の原型にするならヤマトよりもムサシのほうが適していたはずだ。

個人的には、これで何か新しいことがわかるかと言えば多少はあるだろうが、戦史をひっくり返すような大きな発見までは見込めないと思っている。なにしろ70年だからなあ。当時の日誌とかが発見されたりすれば大きいけれどさすがに朽ちているだろう。
それにしてもこれだけ話題になったのはやはり「艦これ」効果か。

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2015年3月 3日 (火)

2015年2月の打ち上げ

2月は6件。ロシア3、アメリカ1、日本1、そしてイラン1。

1日 01.21GMT 種子島/H-IIA (情報収集衛星)
1日 12.31GMT バイコヌール/プロトン (Inmarsat)
2日 08.50GMT セムナン/サフィール (Fajr)
11日 23.03.32GMT ケープカナベララル/ファルコン9 (DSCOVR)
17日 11.00.17GMT バイコヌール/ソユーズ (Progress M-26M)
27日 11.01.35GMT プレセツク/ソユーズ (Bar-M)

Orbital Launch Chronology

H-IIA は27回目の打ち上げでうち成功は26回。最近21回は連続して成功している。やっぱりこれくらいの実績は重ねないと受注はとれない。先日、UAE の衛星打ち上げを受注したと報じられているけれど、海外の衛星が受注できるようになったのは本当にここ最近のことだ。
実績の有無は何より保険料の額に影響する。マイクロサットでもないかぎり商用打ち上げで保険をかけないということはまず考えられないから、単純に受注国と発注国だけの関係ではすまない。保険料は保険会社が決めるものだが、信頼性を示すある意味共通のバロメーターだ。受注が増えているということは保険料がお手頃になってきたのかもしれない。

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2015年3月 2日 (月)

スキー場めぐり

昨夜は松本泊まりだった。
鉄な人には何となく予測できていたのではないかと思うが、今日の目的は大糸線である。

大糸線は松本と新潟県の糸魚川を結ぶ路線だが、長野県内はほぼ直流電化でJR東日本管内、新潟県内は非電化でJR西日本管内となる。ところが北陸新幹線が金沢までのびると現在JR西日本の管内である北陸本線が第三セクターに転換されるので大糸線北部は飛び地になってしまう。大糸線そのものは何か変わるわけではないのだが、周囲の環境が大きく変わってしまうのだ。

松本近郊の大糸線は直流電化の通勤通学路線で意外に運転本数は少なくない。しかし糸魚川まで行くことを考えると、松本出発は9時過ぎになる。もともと信濃鉄道という私鉄が建設した路線で、すでに大正年間に信濃大町にまで到達しており、電化も信濃鉄道の手で行われている。それ以北は国鉄が建設した路線となる。
乗り込んだ列車は昨日の篠ノ井線と同じく E127系。進行方向左側に北アルプスが見えるのだが、雲が多くて山頂はよく見えない。山腹には雪渓らしきものがちらほらと見える。少し走ると市街地はとぎれて安曇野盆地の農村風景がひろがる。信濃大町あたりまで来ると地面がすっかり白く染まっていた。ここまではずっと平坦だったのだが、信濃大町を出ると盆地が絶えて山越えにかかる。私鉄の信濃鉄道が信濃大町までの開業でよしとした理由がよくわかる。この先線路は仁科三湖を望みながら走るが、このうち一番南にある木崎湖という名前を聞くと三十一はバス転落事故を思い出す。もうあんまり憶えている人もいないだろうけど。
大糸線のピークは簗場駅前後らしい。「ヤナバ」と表記すればスキー場を思い出す人も多いだろう。このあたりから景色は絵に描いたような雪国となる。左右の山肌にはスキー場のゲレンデがならび、スノーボードを抱えた乗客が駅ごとに降りていくようになる。電化路線の終点にして大糸線のJR東日本区間の北端である南小谷(みなみおたり)に到着。国鉄がここまで電化したのは中央東線の電化にあわせて新宿からの電車列車がスキー客を輸送できるようにしたのだろう。逆にいうとここから先にはあまり名の知られたスキー場がないということでもある。結果として大糸線のうちおいしい部分だけを東日本がもっていって、残りを西日本に押しつけた形になった。
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南小谷駅は大糸線の運転上の分岐点だが、県境まではまだ少し距離がある。
これはここまで乗ってきた電車を写した写真だが、線路脇の積雪が目につく。
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さてここから先は非電化路線となる。もともと大糸線北部はキハ52が走っていたことで知られているが引退してしまって、これから乗る列車に使われるのはキハ120の2両編成。JR西日本のローカル線ではよく使われている車両だが、雪国の路線との組み合わせは珍しいのではないか。時刻表では1149の発車となっていたのだが、駅の放送では「11時51分発車」と言っているなあ。この差はどこから来たんだろう。
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写真を撮っていたら席を取り損ねて、運転席脇の扉の横に立ちん坊となる。はじめのうちは親子連れが扉の周りをうろうろしていて邪魔だったが北小谷駅で降りていった。このあたりは25パーミルの急な下り勾配がつづき、列車はいつでも停止できそうな徐行で降りて行く。トンネルを抜けて新潟県に入ると明らかに積雪量が少なくなり、さらに下って糸魚川平野の入り口である頸城大野あたりまで来るともはや雪は見えない。うーむ、新潟県だから雪があるというわけではないんだなあ。前方に新幹線の高架橋が見えると糸魚川。
糸魚川駅は現在はJR西日本の駅だが、北陸新幹線開業後はJR西日本とえちごトキめき鉄道の接続駅になる。というわけでカメラを抱えた鉄ちゃんがあちこちに立っている。しかし三十一が引きつけられたのは新幹線とは直接関係のないこの車両。
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ラッセルディーゼル機関車 DD15 だ。国鉄時代に一世を風靡したディーゼル機関車 DD13 を原型としたラッセル車だが、DD13 自体は国鉄改革時に全部引退したので今にいたるもこうして健在なのは貴重。

ここからはまっすぐ帰宅。常識的な「はくたか」と上越新幹線の乗り継ぎだ。「みどりの窓口」に並んでいたら横でカップルが「新宿まで行きたいんだけど、荷物が多いんで南小谷まで行って『あずさ』にしたほうがいいかなあ」とか言ってたけど、時間がかなり違うし、大糸線の北半分がネックになるので三十一なら素人さんにはお勧めしないなあ。カップルの女子のほうが「みなみこたに」と発音していたのが気になったけど、駅員も黙って聞いているので指摘するのも野暮だ。

「はくたか」の入線をホームで待っていたらちょうど上りの貨物列車が通過していって、牽引機が北斗星色のEF510だったので慌てて走り出してしまった。500番台のトップ号機でした。
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やがて入ってきた「はくたか」はあと半月の命の北越急行保有車両。
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「はくたか」には以前にも乗ったことがあるが、これが二度目でしかも最後になるだろう。
糸魚川や直江津あたりでは空き地のところどころに雪が残っているくらいだが、直江津を出て「ほくほく線」に入り、トンネルを抜けて行き違いのために一時停車した虫川大杉までたどりつくとまたもや雪国の景色となる。六日町から上越線に入るとこのあたりもまたスキー場銀座だ。越後湯沢から上越新幹線に乗りついで東京にむかったが、指定をとらなかったのは失敗だった。上野まで立ち通し。

本日の旅程:
松本(0922)→南小谷(1127) 5325M
南小谷(1151)→糸魚川(1244) 427D
糸魚川(1330)→越後湯沢(1451) 1013M
越後湯沢(1500)→上野(1614) 328C

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