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2015年5月30日 (土)

「昭和戦後史『再軍備』の軌跡」/「国際秩序」

1980年から翌年にかけて読売新聞に連載されたものをまとめたもの。
を、さらに再刊したもの。

取材のタイミングではまだ当時の関係者の多くが存命で、しかもそれなりに時間が経っており当時の事情をわりと率直に語ってくれていたようだ。例えば朝鮮戦争に日本の掃海艇部隊が参加していたことが公になったのは1978年のことである。これより早くても遅くても、取材は難しかっただろう。

ここで日本再軍備について詳しく触れるつもりはない。ただ読んで思ったことは、こうした重大な政策転換が行われるに際して、ほとんど国内の政治的なかけひきと、米軍からの外圧しか語られていないという事実で、実際の国際情勢については(連載当時冷戦は周知の事実だったせいもあるだろうが)、ほとんど触れられることがない。これは取材にあたった政治部記者の発想法によるものだろうか。それとも実際に再軍備は国内政治だけの事情で決まったんだろうか。こうした傾向はいまも変わっていない。

いずれにせよ、再軍備がどう進められたかをこの時期に振り返るのは意味がないことではないだろう。

続けて読んだのは実は偶然なのだが、結果としてよかったと思う。軍備と国際関係というものについて関連付けて考えることができたからだ。実はこの本も少し古くて、まだ民主党政権時代に出ていた本なのだが読みかけになっていたものを改めて読み始めた。はじめのうち少し読みづらかったのだが、読み進めるうちに慣れてきて気がついたら読み終えていた。

著者は国際秩序を保つシステムを3つの体系からなっていると分析している。
ひとつは「均衡の体系」で、古典的なバランスのモデルである。このモデルの利点は「価値観」や「規範」を共有していない勢力の間でも機能するということだ(「力」の価値だけが共有されているとも言える)。しかしこのモデルが依拠している「バランス」はそれぞれの主観でしかない、ということは意外に忘れられがちだ。どちらかにとって適正なバランスは、相手にとっては明白な劣勢と受け取られるかもしれない。そうすると劣勢と考える側はバランスを戻そうとする。その結果相手側はバランスが崩れたと考え、ついには軍拡競争に陥るというシナリオが想定される。行き着くところはバランスを実際にに検証する、つまりは戦争となる。第一次世界大戦はこうして始まった。
ふたつ目は「協調の体系」で、ある程度の均衡の上で交渉(外交)によって互いの利害を調整し、破綻を防止しようとするものである。そのためには、「相手の利益は自分の不利益、相手の不利益は自分の利益」というゼロサムゲームから脱しなければいけない。しかし互いの力関係があまりにアンバランスだと、協調は生まれにくい。均衡のない協調は脆弱であり、協調のない均衡は危険だ。
そしてみっつ目が「共同体の体系」で、各国が共通の規範や目的のためにより大きな枠組みを構築しようとする試みである。国際連合とか欧州連合はそうしたものの実例だ。ただしそこにはすべての参加国がひとしく尊重できる価値観や規範が必要になる。国際連合はもともと第二次世界大戦における連合国を戦後組織化したものだが、連合国はその戦争目的を「全体主義から民主主義を防衛する」としていたから、その基本理念として民主主義を掲げている。もっとも現時点では必ずしも民主主義とはいえない国も加盟しているが。

著者はおそらく「共同体」に期待しているのだろう。もちろん、こうした取り組みで安全保障上のリスクを下げて行く試みは続けていかなくてはいけない。しかし著者も指摘しているが、こうした考え方はいわゆる「ソリダリズム」を前提としている。
「ソリダリズム」とは、現在はさまざまな価値観を持っている人々(国々)も、時間をかければ最終的にはひとつの至高の、共通の価値観に帰結するというある種理想主義的な考え方だ。つまり現在の世界には民主主義国ばかりではなく独裁国家や非民主主義国家もあるが、時間さえかければこれらの国々も遅かれ早かれリベラルな民主主義国家に行き着く、と考えるのである。
しかし実際には、特に同時多発テロ以降、こうした楽観的な考え方に信憑性が薄れてくる。結局どこまでいってもすべての国が同じ価値観をもつようになることはない(かもしれない)という一種の悲観論だが、現状を受け入れる現実主義でもある。これを「プルラリズム」と呼ぶ。気をつけなくてはいけないのは、いわゆる「多元主義」は「多様な価値観を尊重しなければいけない」という考え方をみんなが持つべきだという点で「ソリダリズム」的な要素を含んでいるということだ。

日本(に限らずどんな国でも)が自国の軍備を考える際には、現在の国際社会の安定と秩序をどういうシステムで維持し、その中で自国をどう位置づけるかというグランドデザインが必要になるはずだが、知るかぎり日本の政治家から出てきたことはない。

もう先週になるがNHKで集団的自衛権について議論していた番組を、録画しておいたものをさっき改めて見直したのだが、いわゆる批判側の参加者が元官僚と学者で、法理論と具体的なケースを明示することにこだわり、想定外の事態に対応できるためのお墨付き作りを目指す政治側と議論がかみ合ってないなあと思った。

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2015年5月17日 (日)

いつか来た道

いわゆる「安全保障法制」が閣議決定された。

内容を見ていて「いつか来た道」という言葉を思い出した。
ただし、「赤い新聞」とか「赤い政党」とか「赤い団体」とか「赤い衝撃」(違う)が言うような「いつか来た道」とは少し意味合いが違う。

戦前の日本は後発国家として欧州先進国の帝国主義的な手法を後追いでなぞっていった。しかし完全にタイミングをはずしていた。
日本からすれば「他の国もしていたことをしていただけなのになんで」と言いたいのだろうが国際状況が変わってしまっている状態で同じことをしても同じ反応にならないのは当然だ。
例えばアヘン戦争以来100年近くにわたって英仏の搾取に苦しめられていた中国にしてみれば、「僕も仲間に入れて」と割り込んできた日本に対して「ふざけんな」という気持ちになるのは無理もない。想定外の反発に直面して日本側も感情的になりそのまま負の連鎖に陥ってしまったのだろう。
状況の変化やタイミングの違いを無視して「人と同じことをしておけば間違いない」と無難に走ったつもりが思わぬ結果に「こんなつもりじゃなかった」とうろたえる、という図式だと思うのだが、同じような図式は最近も見たことがないかねえ。
厳密に言えばそうした手法が明確に禁止されているわけではないのだが、「いまどきそうした手法はいかがなものか」という風潮が広まり始めた時期になってから「禁止されてないよね」とわかりやすい悪役を演じてしまうのが日本の役回りだとは思いたくないが実際そういうケースは少なくない。

安倍総理が打ち出している政策のうち多くは「普通の国になりたい」という願望から出ているように見えるが、その「普通の国」というのはいったいいつの「普通の国」なのか。まさかおじいちゃんが総理だった50年前の「普通の国」ではなかろうな。
法案の詳細を把握しているわけではないのだが、安倍総理が目指している「普通の国」のコンセプトはやや古いのではないか。せめて20年前、冷戦が終わってバブルが崩壊したころならばある程度通用したのだろう。しかし今となっては「なぜこの時期になって」という疑念を抱かれてしまうのは避けられない。

今から「普通の国」を目指すなら”今の”「普通の国」を目指すのはだめで、”これからの”「普通の国」を目指さなくてはいけない。
こうした作業は手本がないだけにこれまでの日本が経験してこなかった試みだ。前例主義の日本の官僚にはこうした発想は欠如しているが、政治が音頭をとって世界の前例を作るという意気込みで取り組んでもらいたい。

さて安全保障法制だが、目指しているところは(いまの)「普通の国」と変わらない。欧州諸国は当然のように集団的自衛権を行使し、集団安全保障体制に組み込まれている。細かい運用で問題が皆無というわけではないだろうが、いまのところ根本方針を変えようという議論にはなっていない。しかし日本ではどうしてこれほど強い拒否反応が起きるのか。
大きな変化には拒否反応がつきものだが、それだけではないだろう。どうしても日本には政治に対する不信感が強く、(そんなものが実際にどれくらいあり得るかは別として)独走を阻止できないのではないかという懸念があるのだろう。戦前の経緯からそうした懸念が生じるのだろうが、今の自衛隊には戦前のような独走の懸念はほとんど無いと言っていい。こうした点は引き続き広報していく必要がある。
それよりも問題は政治というものへの信用がないということだろう。その根本原因は有権者と政治の乖離にある。言ってしまえば「他人事」なのだ。政治は政治家がするもの、という感覚が強く有権者としての責任感が薄い。これでは本当の意味での民主主義が根付いていないと言わざるを得ない。
もうひとつは、文民統制(シビリアンコントロール)といいつつ統制する側のシビリアンに軍事的知識が欠けていてユニフォームに対抗できないことが問題だ。実は、戦前の統帥権独立の最大の問題点は軍事的知識を軍内に囲い込んで一般に軍事知識を持たせなかったために、軍人のいわゆる専門家的判断に寄りかかってしまったことだと思っている。日本では専門を極めることをよしとする風潮が強いが「専門馬鹿」を生んでしまうことにもなる。

一番重要なのは「個別的自衛権がいいのか集団的自衛権がいいのか」という神学論争ではなく、政治家と有権者が軍事知識を正しくもって情勢と政策を正しく判断できるようになることと、有権者が政治家をコントロールすることだ。これが実現すればその時々の情勢に応じて適当な政策が選択できるようになるので不毛な神学論争に陥らなくてすむようになる。

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2015年5月 6日 (水)

やくもたつ

「八雲立つ」は「出雲」の枕詞である。

今日は旗日なので、きっと母港(定係港)にいるだろうと踏んで横須賀に出撃。いなければいないで見るものはある。

京急を汐入駅で降りてヴェルニー公園へ。

ビンゴ。

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ひときわ目立つその巨体はヴェルニー公園の反対側の端からでも間違えようがない。もっとも上の写真は一番岸壁に近い個所から撮ったものだが。
ブリッジのアップ。
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これは逸見の岸壁に接岸している「いずも」(ここで初めて艦名が明らかになる)と横須賀総監部の建物を一緒に収めたもの。「いずも」の大きさが実感できるだろう。
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その反対側、吉倉桟橋には護衛艦がずらりと並んでいる。
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一番手前には「たかなみ」級が2隻、その向こうに少なくとも「あきづき」級が1隻、「あさぎり」級が2隻(もしかしたら3隻かも)、並んでいる。見づらいが「いずも」のすぐ右奥に多用途支援艦「えんしゅう」が見える。

ヴェルニー公園の向かい側、米軍基地内の潜水艦岸壁には海自の潜水艦2隻が串刺し係留されているが、手前は「そうりゅう」級、向こうは「おやしお」級だ。見分けにくいが一番の識別ポイントは艦尾の舵で「おやしお」級までの十字形に対して「そうりゅう」級からはX字形になっている。ただしこの角度ではわかりづらい。艦橋前面の甲板につながるあたりの形状がわずかに異なっているので同型艦ではないとわかるだろう。
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6月にまた「のりものフェス」があって護衛艦が公開されるようだけど、発表されているその艦名には「いずも」は入っていない。

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2015年5月 1日 (金)

2015年4月の打ち上げ

4月の打ち上げは4件。アメリカ2、ロシア1、ヨーロッパ1。そして中国ゼロ。

14日 20.10.41GMT ケープカナベラル/ファルコン9 (SpaceX CRS-6)
26日 20.00GMT クールー/アリアン5 (Thor 7, SICRAL-2)
27日 23.03GMT ケープカナベラル/ファルコン9 (TurkmenAlem52E/MonacoSAT)
28日 07.09.50GMT バイコヌール/ソユーズ (Progress M-27M)

珍しくアメリカの打ち上げが多いがいずれも SpaceX の Falcon 9 だ。

ISS への物資補給船 Progress M-27M は打ち上げ自体は成功したものの分離直後から制御不能に陥り、ついに ISS へのドッキングは断念された。こういう事故は珍しいがいまのところ原因は不明。

Orbital Launch Chronology

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