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2016年3月17日 (木)

「関東公方足利氏四代」


最近、14世紀から15世紀(鎌倉時代末期から戦国時代初め)という、日本史上ではかなりマイナーな時代に興味を持っていろんな本を読み漁っている。少し前に紹介した「日本中世の歴史」シリーズもそのひとつだ。この本もそうした流れの中で読み始めることになった。けっこう前から書店の書棚で見かけて気にはなっていたのだが、最近読んだ本の多くで参考文献として挙げられていたので、やはり読んでおくべきだろうと考えるに至ったのだ。こういう形で次々読むべき本が増えていく。

鎌倉、室町、江戸と日本史上に幕府は3つあるが、そのうち鎌倉と江戸はその名の通り本拠を東国に置き、京都には出先機関をおいて朝廷や西国を監視させていた(六波羅探題・京都所司代)。ところが室町の場合は幕府を京都において将軍が直接朝廷と相対し、東国にいわゆる「鎌倉府」をおいて関東を管轄させた。この点は武家政権としての室町幕府の大きな特徴と言えるだろう。足利氏の出身も東国であったから、本来は自らの勢力圏である東国に幕府を置くのが望ましい形態であったろう。しかし鎌倉末から南北朝期にかけての政情は、将軍が京都から距離を置くことを許さなかった。将軍そのものが京都にあってにらみを効かせていないと、たちまちに京都と何より朝廷(つまり「玉」だ)の支配権を奪われかねない。それは足利将軍家にとっては悪夢である。この情勢は実は南北朝が合体して南朝支持勢力の活動が沈静化してもそれほど変わらなかった。有力守護大名の連合政権の体をなしていた室町幕府にとって、必ずしも信頼しきれない大身の守護大名が京都近傍にあったからだ。山陰地方に勢力を張った山名氏などはその典型である。

さて室町幕府の鎌倉府が、鎌倉幕府の六波羅探題や江戸幕府の京都所司代と大きく異なる点がもうひとつある。それは、鎌倉府の長である関東公方(鎌倉殿)が世襲であるということだ。六波羅探題や京都所司代は、幕府から任命される役職に過ぎない。北条一門であるとか、老中格の譜代大名であるとか、おのずと家柄は決まってくるけど、その都度将軍から任命されるものだ。しかし室町幕府の鎌倉殿は、初代将軍である足利尊氏の次男基氏が初代の関東公方に任じられてから代々直系の子孫で世襲されてきた。本書のタイトルにもなっている「足利氏四代」(基氏、氏満、満兼、持氏)は直系相続である。形式の上では関東公方の就任も中央の将軍家の承認が必要になる。しかし幕府にとって事実上ほかの選択肢が無い以上、承認するしかない。それは幕府の将軍が形式の上では朝廷の任命によるものでありながら、現実には世襲を追認するものでしかなかったのと同じ構造である。
こうした事実上の世襲が代を重ねると、本来は将軍の直臣であったはずの関東地方の有力御家人(いわゆる関東八屋形など)が、あたかも関東公方との間に主従関係が結ばれたかのような様相を呈してくる。東国の中央からの独立だ。将軍家の末裔という由緒正しさと、累代の家臣たちによる支持を背にして関東公方家の自尊心は肥大化していく。本家将軍家の相続にからむごたごたもあり、将軍家と対等の立場にあるという発想が生まれ、さらには将軍家の相続に名乗りを上げ、そしてそれが受け入れられないと見ると将軍家にとって替わることを望むようになる。足利将軍家に対してもっとも安心できるはずの身内がやがて最も危険な敵に成長していく。

室町将軍家に管領という補佐役がついていたように、鎌倉公方家にも関東管領という補佐役がつく。この役職は上杉氏の山内家当主が独占することになるが、世襲ではない。その点は将軍家の管領と同じだ。この関東管領が、仕えるべき主君である関東公方と一体になって中央の将軍家に対抗するようなら大変だが、実際にはそうはならなかった。鎌倉府内部での主導権争いをめぐって、関東管領はむしろ将軍家の意を体して関東公方を抑えにかかるようになる。かくして将軍家と関東公方の対立は、鎌倉府内部での公方と管領の対立に結びつく。あたかも米ソ冷戦下での代理戦争のようだ。1416年の上杉禅秀の乱ではなぜか将軍家は公方方について上杉禅秀を敗死に追い込むが、これは将軍家内部の不穏分子である足利義嗣が禅秀方に荷担していたためのやむを得ない選択だったのだろう。この時点では将軍(足利義持)にとって身近(実弟)な足利義嗣の排除のほうが緊急性が高かった。しかしそれから20年後、ふたたび関東で管領上杉憲実と公方足利持氏の抗争が勃発(1438年永享の乱)したとき、将軍(足利義教)は関東管領を援助して公方の持氏を自殺させた。乱の勃発以前から上杉憲実は京都の幕府の支持をとりつけてあったという。かくして関東公方家はいったん断絶した。ところがその後継として将軍の実子を就任させることを画策しているうちに、当の将軍が家臣に暗殺されるという事件(1441年嘉吉の変)が起こる。将軍家の権威は地に落ち、将軍家そのものの跡目が問題とされる時期にあって、関東の正常化は後回しにされた。結局、1447年に至って持氏の遺児が鎌倉に入って関東公方を継ぐことになる。幕府が関東に手を割けない状況にあって、関東を治めるためには関東公方家の血筋が必要と判断されたのだ。将軍家による関東直接支配という目論見は崩れ去り、父を将軍家に殺された足利成氏が代々の関東公方家の由緒を背負って鎌倉に入った。結局、プレイヤーが世代交代しただけで構造は変わらず、鎌倉府内部での管領と公方の対立はほどなく火を噴く。1454年末、公方成氏は当時の関東管領上杉憲忠を謀殺し、享徳の乱が始まる。成氏は鎌倉を脱出し、上杉に反感を抱く関東有力御家人の支持を得て古河に本拠を移す。世にいう「古河公方」である。関東地方は公方方と上杉方に分かれてこれから30年近くにわたって争い続ける。関東地方は、応仁の乱(1467年)より10年以上も早く、1454年から戦国時代に突入したといわれる所以だ。

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