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2016年8月31日 (水)

あともうちょっとだけ続くからね

週末、去年のアメフトの録画を DVD にダビングしていたのだが、それが終了したときに画面に映し出されたのは朝生、「朝まで生テレビ」だった。譲位について話していたので少し見ていたのだが、30分くらいするとこれ以上見ても不毛だと思ったので寝てしまった。もうずいぶん長いこと見ていなかったのだが、全然進歩してないなというのが率直な感想だった。むしろまだやってたのかと思ったくらいだ。

さてわずか30分間だけ見た結果三十一の胸の中にもやっと残った感情を、少し時間をあけて考えてみたときに気づいたことがある。それは「どうして譲位反対派の言説はこうも心に響かないんだろう」という疑問だ。譲位賛成派が「どうして2000年の皇室の歴史の中で100年にも満たない明治から戦前までの時代の伝統だけをそんなに重視するのか」という反論をしていて、それが結局はすべてだと三十一も思うのだが、理屈と感情は別物である。この「反発」とも言える感情の源は、陛下が今回の勅語のみならず日々の言動で示し続けた姿勢との落差であったろう。日本国憲法には、天皇の地位は「国民の総意に基づく」と規定されている。この意味を誰よりも大事に考えているのは他ならない陛下自身に違いない。天皇と皇室を存続させているのは国民の支持であり、そのために陛下は日々象徴としての務めを全力で果たしてこられたのだろう。
そうした相互作用の上に成り立っている現在の皇室制度にぶらさがって、あるいは寄生してそれで飯を食ったりうまい汁をすったりしてきたような連中が現状維持、既得権維持をはかって皇室の形を変えるような「譲位」に理屈をつけて反対しているのではないか。そういう風に見えたのだ。
彼ら(彼女ら)にそういう思惑が本当にあったのかなかったのか、仮にあったとして意識的になのか無意識になのか、それはわからない。しかし「譲位反対派」が現在の皇室制度や天皇という地位のあり方に変更を加えることに不安を感じていることは確かだろう。しかし実際にはそれにほとんど根拠がない、というのが先日の記事の通り三十一の結論である。
いまの制度を墨守しようと考えるような人々は、「国民の総意」というものをもっと重く考えるべきであろう。憲法に明記されているというのももちろん大事だが、何よりも国民の支持なくしていかなる制度も存続し得ない。もし「国民の総意」に基づいて皇室の形を変えた結果、国民の支持が得られなくなってしまったとしたら、それは天皇制が役割を終えたということを意味するので受け入れるしかない。しかし三十一は少なくとも近い将来にそんな事態は起こらないと確信している。

と、実はここまでは長い前フリで、ここからが前回の続きになるのだが。

譲位について技術的に考えてみよう。
憲法には「皇室典範の定めるところにより、これを継承する」(第2条)とあるので改憲の必要はない。法律のひとつである皇室典範の改正で足りる。皇室典範には「天皇が崩じたときには、皇嗣が、直ちに即位する」(第4条)とあり、これ以外に皇位継承の定めはない。しかしこれは「天皇が欠けたときには」と改めればよい。
退位に際しては、政治的な紛争のきっかけになるとする意見がある。しかし現在の皇室典範でも、皇位継承順位は皇室会議によって変更できることになっている(第3条)。譲位も皇室会議の議決を経るようにすればよい。またその際に、天皇自身の発議を要件とするのがいいと思う。一部で懸念されている「退位の強要」をある程度抑止できるだろう。天皇自身の発議がないまま執務不能に陥った場合には、在位のまま摂政をおけばよい。これは現行規定にある通りだ。
譲位の手続きとは別に、譲位後の待遇について議論しなくてはいけない、という指摘があるが実はこれには参考になる事例がある。皇太后だ。
実は明治以降、皇太后がいた時期は意外に長い。英照皇太后(孝明天皇の女御)が崩御したのは明治30年、つまり皇太后として30年を過ごした。昭憲皇太后(明治天皇皇后)は大正3年に崩御して皇太后時代は2年に満たなかったが、貞明皇后(大正天皇皇后)が崩御したのは戦後の昭和26年だ。そして昭和天皇の皇后であった香淳皇后が崩御したのは平成12年。10年以上を皇太后として過ごしたことになる。
香淳皇后は、腰を悪くしたこともあって昭和天皇在位中から公務は減らされており、皇太后となってからはほとんど表に出てこなかった印象があるが、貞明皇后は皇太后となってもまだ若かった(大正天皇崩御時で満42歳)ため女性皇族の代表としてそれなりに公務をこなしていたようだ。譲位後の天皇(呼称は「太上天皇」、敬称は「陛下」とするのがいいと思うがそれはさして重要ではない)も、元気であれば式典に出席したり施設を見学したりといった公務をしてもらうのがいいだろう。しかしそれはどうしても陛下でなくてはいけない、ということでもない。つまり公務に関しては一般の皇族なみ、ということになるだろう。体力的に難しくなければ適宜減らしたりやめたりして、その分はほかの皇族にお願いする、ということになる。
皇室経済法に新たに規定が必要だ、という人がいるがこれも皇太后の規定を基準に考えればよい。いま、具体的にどういう規定になっているか知らないのだが、夫婦からなる世帯に対して皇太后の待遇かける2プラスアルファで考えればいいだろう。と、ここまで書いて改めて「皇室経済法」と「皇室経済法施行法」の条文を見てみると、皇太后に対する個別の規定はなく、内廷費でまかなわれる対象に含まれているに過ぎない。つまり、内廷費の対象を規定した条文(第4条1項)に「退位した天皇」を追記すればいい。あるいは、「内廷にあるその他の皇族」とみなせば改正の必要すらないかもしれない。施行法第7条では内廷費の定額を3億2400万円と定めているが、これはこれまでも人数の増減や物価の変動に応じて適宜改正してきているはずで、金額の見直しは譲位に限らずいろんな機会に起こり得るものだ。

前回の記事から長々と書き連ねてきたが、結局のところ政治的にも法的にも譲位を実現するためのハードルはそれほど高くない。あとは「国民の総意」がどうなるかだ。

最後に余談だが、いろいろと調べてきて痛感したのは、戦後の民法改正で姿を消したはずの悪名高い「イエ」制度が、皇室に関してだけは根強く残ってしまっているということだ。現代日本で唯一、法的に世襲を規定した公組織であるから、一般の制度と整合がとれない部分が多々あるのはある程度仕方ない。逆に言うと、戦前の民法の規定が参考にできる個所もあるはずで、むしろそのほうが現在の皇室制度と親和性が高いかもしれない。皇室の中の天皇の地位がイエ制度の家長(戸主)に相当すると考えると、譲位に相当するのは隠居になる。旧民法では、60歳以上に達して相続人がいれば届けによって隠居ができた。60歳という年齢は現代ではもう少し引き上げてもいいかもしれないが、年齢制限を設けるというのはひとつのアイデアだ。

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2016年8月23日 (火)

譲位という伝統

8月15日に会社から帰ってくるとちょうど9時だったのでニュースを見るためにテレビを点けたのだが、天下の国営放送ともあろうものがトップニュースで終戦記念日ではなくウサイン・ボルトを取り上げていたのはいかがなものかと思った。
そのちょうど一週間前に天皇陛下の勅語が放送された。三十一はこの日も会社に行っていたので、放送を録画して帰宅後に最初から最後まで拝聴した。譲位のご意向を示されたものと受け取られている。それから一週間後に戦没者祈念式典に出席された陛下がこれまでどれほど重い責任感をもってこれらの行事に臨んでおられたのかを拝察するに感慨を禁じ得ない。ウサイン某の勝ち負けや去就なんか知ったことか。

さて譲位についてだが、もともと近代以前には譲位による皇位継承が常態だった。それも在位の天皇が高齢になったからというのではなく、成年に達した後継者があればすみやかに位を譲るのが、本来あるべき姿と考えられていたようだ。幕末以来200年あまり譲位は行われていなかったのは事実だが、幕末の仁孝天皇および孝明天皇が譲位しなかったのは、後継者に譲位するタイミングを逸して崩御してしまったからで、もう少し(数年)長命だったら譲位していた可能性は高い。
仁孝天皇の場合、皇太子統仁親王(のちの孝明天皇)は天保15年(1844年)に数え14歳で元服している。これ以降、いつ譲位があってもおかしくなかったのだがその2年後に仁孝天皇が47歳で崩御してしまって譲位のタイミングを逸してしまった。ちなみに仁孝天皇自身は数え12歳で元服し18歳で父光格天皇の譲位をうけて践祚している。
孝明天皇の場合、数え36歳で崩御した慶応2年(1866年)当時、儲君である睦仁親王(のち明治天皇)は数え15歳でいまだ元服していなかった。践祚後の慶応4年(1868年)に数え17歳で元服している。
さてではどうしてこういう慣習ができあがったのだろう。祭祀王として清浄を求められる在位の天皇(ミカド)と、権門の最たるものである皇室の家長としての「治天の君」が機能分離し、それぞれの機能を別々の人物が保有することが不自然でなくなったということがあるだろう。「ミカド」はむしろ若年で政治的に無色であることが求められ、「治天の君」は国政と家政の総覧者としてある程度の老練さが必要になってくる。したがって、若年のうちに「ミカド」に即位し、壮年にいたって祭祀王の役割を後継者に譲るとともにかつての「ミカド」としての権威を背景に「治天の君」として実際の政界に対峙するという「キャリア・パス」ができあがった。こうした慣習が確立した院政期が、摂政関白の地位がいわゆる5摂家の家職と化していった時期と合致するのは偶然ではあるまい。
近代以降、譲位という習慣が否定されたのは、祭祀王である「ミカド」と最高権力者である「治天の君」を無理やりに一体化させようとした試みであったと考えられる。そう考えるとき、もはや「治天の君」という権能を求められない現代において、日本国民統合の象徴である「天皇」が果たすべき役割はかつての「ミカド」に近い。近代以前の、天皇が「ミカド」であった長い時代において譲位そのものが政治問題化した例は実はそれほど多くない。この時期には天皇にほとんど実権がなかったということが大きな要因だが、それもむしろ現代の状況に近いと言えるだろう。皇統が一本化された室町中期以降、譲位が政治問題化したのは江戸時代初期に後水尾天皇が幕府に相談なく娘の明正天皇(徳川秀忠の外孫)に譲位した事件くらいだろう。これには「禁中並公家諸法度」の発布や「紫衣事件」などが背景にあり、幕府確立期における幕府と朝廷の駆け引きの一環であって、朝幕関係が安定してくるとこうしたいざこざは後を絶った。

要するに「伝統」や「政治問題化の懸念」を理由に譲位という手段を否定するのは根拠がない、ということだ。

続く、かも。

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2016年8月 3日 (水)

桜興産社長交代

我らが桜興産の社長が交代する時期が来た。

今日、参議院選挙をうけて内閣改造と自民党執行部人事が行なわれた。
我らが桜興産株式会社社長こと防衛大臣には稲田朋美が指名された。

都知事選直後くらいから具体的な名前が取りざたされるようになり、その中で「稲田朋美が重要閣僚として入閣の見込み」と報道されると、そのとき三十一は「防衛大臣かな」と思った。
三十一の予測は当たらないことで定評があるが、珍しく的中した。もっとも、誰にも言わないうちに確定報道が出てしまったので自慢できない。

ともあれ、稲田朋美の名前はともかく、「重要閣僚」として挙げられた人物が防衛大臣に就任したことは、「防衛大臣」というポストが「重要」と認知されたということを意味し、単純に嬉しい。もっともその一方で財務相や外相といった内閣の「骨格」は変更がなかったとも報じられていたので、防衛大臣は「重要」ではあるものの「骨格」には数えられないということでまだまだ地位向上の余地は残っている。

さて、ごりごりの改憲派で安倍総理に近いとされている稲田朋美が防衛大臣に起用されたのには、安倍政権の防衛重視が見てとれるのだが、それに加えて直前に「元防衛大臣」小池百合子が東京都知事に当選したことが影響しているように思う。
小池百合子は2007年に女性として初めて防衛大臣に就任したが、1月あまりで退任に追い込まれた。その後公職についていなかったので肩書きとしては「元防衛大臣」というのがずっと続いたのだが、いずれにせよ「女性で唯一の防衛大臣経験者」という肩書きはこれで消されたことになる。
防衛大臣としては内局が決めた人事に異をとなえて大モメし、内部では紛々たる悪評を買いながら、無責任な外野からは喝采を浴びるという一幕を演じたわけだが、ごく最近にも同じような喜劇を鑑賞させられたような気がするのは三十一だけではあるまい。

とうにやめてしまった人の話はこれくらいにして、これから就任する稲田防衛大臣には期待している。退任する中谷防衛大臣が、元自衛官という実務に通じた経歴を生かして安保法の成立・施行という大仕事を終えたあとを継いで、しがらみの少ない稲田朋美がいったん原則に立ち戻って今の体制を大きく動かすようなビジョンを打ち出してほしいものだ。

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2016年8月 1日 (月)

2016年7月の打ち上げ

近頃、更新が遅れたり間遠になったりし勝ちになっているので、せめて今月はちゃんと遅れずに更新しよう。数も少ないし。

先月は4件。アメリカとロシアが2件ずつ。まるで60年代前半のようだ。

7日 01.36GMT バイコヌール/ソユーズ (Soyuz MS-01)
16日 21.45GMT バイコヌール/ソユーズ (Progress MS-03)
18日 04.45GMT ケープカナベラル/ファルコン9 (CRS 9)
28日 12.37GMT ケープカナベラル/アトラス5 (NROL-61)

Orbital Launch Chronology

ソユーズ宇宙船は新型。外形的にはそれほど大きな違いはなく、誘導/通信システムが一新されたのが特徴だという。

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