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2016年8月23日 (火)

譲位という伝統

8月15日に会社から帰ってくるとちょうど9時だったのでニュースを見るためにテレビを点けたのだが、天下の国営放送ともあろうものがトップニュースで終戦記念日ではなくウサイン・ボルトを取り上げていたのはいかがなものかと思った。
そのちょうど一週間前に天皇陛下の勅語が放送された。三十一はこの日も会社に行っていたので、放送を録画して帰宅後に最初から最後まで拝聴した。譲位のご意向を示されたものと受け取られている。それから一週間後に戦没者祈念式典に出席された陛下がこれまでどれほど重い責任感をもってこれらの行事に臨んでおられたのかを拝察するに感慨を禁じ得ない。ウサイン某の勝ち負けや去就なんか知ったことか。

さて譲位についてだが、もともと近代以前には譲位による皇位継承が常態だった。それも在位の天皇が高齢になったからというのではなく、成年に達した後継者があればすみやかに位を譲るのが、本来あるべき姿と考えられていたようだ。幕末以来200年あまり譲位は行われていなかったのは事実だが、幕末の仁孝天皇および孝明天皇が譲位しなかったのは、後継者に譲位するタイミングを逸して崩御してしまったからで、もう少し(数年)長命だったら譲位していた可能性は高い。
仁孝天皇の場合、皇太子統仁親王(のちの孝明天皇)は天保15年(1844年)に数え14歳で元服している。これ以降、いつ譲位があってもおかしくなかったのだがその2年後に仁孝天皇が47歳で崩御してしまって譲位のタイミングを逸してしまった。ちなみに仁孝天皇自身は数え12歳で元服し18歳で父光格天皇の譲位をうけて践祚している。
孝明天皇の場合、数え36歳で崩御した慶応2年(1866年)当時、儲君である睦仁親王(のち明治天皇)は数え15歳でいまだ元服していなかった。践祚後の慶応4年(1868年)に数え17歳で元服している。
さてではどうしてこういう慣習ができあがったのだろう。祭祀王として清浄を求められる在位の天皇(ミカド)と、権門の最たるものである皇室の家長としての「治天の君」が機能分離し、それぞれの機能を別々の人物が保有することが不自然でなくなったということがあるだろう。「ミカド」はむしろ若年で政治的に無色であることが求められ、「治天の君」は国政と家政の総覧者としてある程度の老練さが必要になってくる。したがって、若年のうちに「ミカド」に即位し、壮年にいたって祭祀王の役割を後継者に譲るとともにかつての「ミカド」としての権威を背景に「治天の君」として実際の政界に対峙するという「キャリア・パス」ができあがった。こうした慣習が確立した院政期が、摂政関白の地位がいわゆる5摂家の家職と化していった時期と合致するのは偶然ではあるまい。
近代以降、譲位という習慣が否定されたのは、祭祀王である「ミカド」と最高権力者である「治天の君」を無理やりに一体化させようとした試みであったと考えられる。そう考えるとき、もはや「治天の君」という権能を求められない現代において、日本国民統合の象徴である「天皇」が果たすべき役割はかつての「ミカド」に近い。近代以前の、天皇が「ミカド」であった長い時代において譲位そのものが政治問題化した例は実はそれほど多くない。この時期には天皇にほとんど実権がなかったということが大きな要因だが、それもむしろ現代の状況に近いと言えるだろう。皇統が一本化された室町中期以降、譲位が政治問題化したのは江戸時代初期に後水尾天皇が幕府に相談なく娘の明正天皇(徳川秀忠の外孫)に譲位した事件くらいだろう。これには「禁中並公家諸法度」の発布や「紫衣事件」などが背景にあり、幕府確立期における幕府と朝廷の駆け引きの一環であって、朝幕関係が安定してくるとこうしたいざこざは後を絶った。

要するに「伝統」や「政治問題化の懸念」を理由に譲位という手段を否定するのは根拠がない、ということだ。

続く、かも。

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