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2016年9月30日 (金)

作州浪人と言えば宮本武蔵だが今日は智頭急行線には乗りません

昨日の例にならってまず今日の主目標を。
この旅行の記事を最初から読んでる酔狂な人は今頃「当初の目的はどうしたんだ」と思っているかもしれない。そう、この期におよんでも三十一はまだ「美作国」に足を踏みいれていないのだ。そこで今日の目的は美作国に入って津山の扇形機関庫を見、そして東京に戻ることとする。
はじめは往きに津山の扇形機関庫を見てくるつもりだったのだが、出発が日曜になった関係で往きに寄ると津山が月曜になってしまう。この手の公共施設は月曜日が定休のところが多く、この津山の「まなびの鉄道館」もその例に漏れなかった。そこで帰りにまわすことにしたのだ。三十一はこういう「月曜日の罠」にひっかかることがけっこう多いような気がする。
さてでは津山までどういうルートで行って戻って来るべきか。津山を中心に考えると、鉄道路線が4方向に向かって走っている。つまり、岡山方向には津山線、姫路方向に姫新線上り、鳥取方面に因美線、新見方面に姫新線下りと4つの選択肢がある。往き帰りを別ルートにすると選択されるのは4分の2。ここで昨日も書いた「中国地方山間部から山陰中部の、新幹線から直接のアクセスがないローカル線をこの機会に乗り潰してしまおう」という条件をあてはめてみると必然的に鳥取-津山-新見というルートがきまってしまう。帰りのことを考慮すると逆方向は選びにくい。津山である程度時間を確保することも考えなくてはいけない。そうすると鳥取を朝の7時台に出る列車に乗るほかに選択の余地がない。昨日無理をして鳥取に宿泊したのはこうした理由があるからだ。

まず心配なのは天気。鳥取地方は明け方まで激しい雨ということで、大雨のなか駅まで大荷物を抱えて傘をさすのはあまりやりたくない。だからできるだけ駅に近いホテルを選んだのだがそれでも5分は歩かなくてはいけない。幸いにも大降りというほどではなく、かといって傘がいらないほどの小雨というわけでもなく、まだ薄暗いうちに駅に向かう。最初は朝7:23の普通列車で途中の智頭まで行くつもりだった。しかし考えてみると、これはまともに通学列車なんではなかろうか。広島でも朝の通学列車に乗ることになったが、あのときは始発は6時台だった。7時半に近いこの列車は始発駅から高校生であふれることだろう。荷物がなければそれでもいいのだが、大荷物というハンデを抱えて若い高校生と争うのは厳しい。そこでその前に出る特急で智頭まで行くことにした。いくらなんでも高校生は特急には乗ってくるまい。そのかわり三十一は特急料金を払ってより早い時間の列車に乗ってしかも智頭駅で長い時間待たなくてはいけなくなる。特急料金は本来時間をカネで買うものだが、三十一は高校生に負けてカネを払って時間を失うことになる。

乗り込むのは鳥取駅から智頭急行線を経由して岡山に向かう「スーパーいなば」。使用されているキハ187系に乗るのは3日連続になる。同じく智頭急行を経由して関西方面に向かう「スーパーはくと」はこれまで乗ったことのないHOT7000系で、三十一の当面の目的地である智頭までは同じルートなのでそちらを選んでもよかったのだが、30分早い列車に乗っても智頭での待ち時間が30分長くなるだけなのでやめました。「スーパーはくと」は今後乗る機会があるような気もするし。近代的な高架駅ながら非電化というちょっと不思議な鳥取駅を東に向かって発車。やがて山陰本線を左に見送ると、因美線は地上に降りる。鳥取市街地を抜けるとなんというかお馴染みの日本の風景。田んぼと集落と里山。ただ建物の屋根に赤い石州瓦が使われている割合はだいぶ減ったように思う。最初の停車駅である郡家までは鳥取平野のうちに含まれるのだろうが、郡家を過ぎると山の気配が強くなってくる。30分弱で智頭。ここで降りる乗客はほとんどいない。
さて鳥取できっぷを買うとき、いつものように面倒くさい買い方はしないで券売機でとりあえず津山まで買っておいた。列車に乗ってからふと気になって券面を見てみると「下車前途無効」 ありゃ、途中下車できないのか。智頭で45分くらい待ち時間があるんだけどなあ。駄目元で駅員に「津山行きを待つ間、待合室で待っていてもいいですか」と聞いてみると快諾してくれた。駅員にしても、乗客に無闇に構内をうろつかれても困るだろうから「駄目元」といいつつかなりの確率でOKされるだろうとは思っていた。待合室に座ってあたりを見渡しているとおかしなことに気づく。この駅はJRと智頭急行線の接続駅のはずだが、智頭急行のきっぷを売っている気配がない。ようやく気づいた小さな表示には「智頭急行線内で完結するきっぷは、隣の智頭急行智頭駅でお求めください」。隣の? まあ少しくらいはいいだろうと外に出てみると、あああれだ。JRの駅とはだいぶ趣の異なる新しい駅舎。改札から別ということか、へー。
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8時ちょっと前、折り返し津山行きになる列車が到着したので駅員が声をかけてくれる。もうすっかりお馴染み、たまには違う車両にも乗ってみたいとすら思わせるキハ120だ。数名の高校生を含む降車客が行ってしまうのを待って乗り込む。どこに座ったかは言わずもがな。ちなみに三十一以外の乗客はこの段階ではひとりだけ。発車5分前、例の通学列車が向かいのホームに到着。おお、キハ47系の3両編成だ。終着の智頭でのそれなりの人数が下車していったので、始発の段階ではもっと多かったはずだ。三十一が調べたかぎりでは郡家と智頭に高校がひとつずつあるらしい。
因美線はもともと鳥取(因幡国)と津山(美作国)を結ぶ路線だが、そのうち途中の智頭以北が新規開業した智頭急行線と一体化して岡山や関西といった山陽方面と鳥取を結ぶ高速ルートに組み込まれた。その結果、因美線は特急が行き交う智頭以北と、そのルートから外れた智頭以南で運転系統が分断されている。これから乗るのがその高速ルートから外れたほうだ。智頭を発車するとしばらく智頭急の線路と並行して走る。前面窓から見ていると因美線のほうはかなり草が繁っているのに智頭急線のほうはほとんど草が生えていない。それだけ運転密度が違うんだろうなあとそのときは思ったのだが、そんなのは実はまだ序の口だったのだ。やがて智頭急線のほうは左にカーブし、築堤に上がり、さらに高架に上がってトンネルに消えていった。三十一が乗っている因美線の列車は少しずつ高度を上げているようだが、このあたりではまだそれほどの勾配ではない。それよりも気になったのは、しばしば25キロ制限があらわれることだ。必ずしも勾配がきついわけでもカーブがきついわけでもないのに、どうして制限がかかっているのだろうと思ってふと気づいた共通点。これは三十一がそう思っただけなので本当かどうかわからないのだが、どうも川べりを走るとか道路脇を走るとか、線路の路盤が護岸構造になっているときに制限がかかっているように思えた。築堤の上などは快適に走っているのだが、路盤の少なくとも片側が擁壁で支えられているときに速度を落としている。これに気づいて三十一はちょっとぞっとした。繰り返して言うがこの三十一の見方には根拠がないので鵜呑みにしないように。
雨は強くなったり弱くなったりしながら降り続いている。線路脇に生い茂った草も緑に濡れている。濡れた重みで葉が垂れ下がっているのか、列車がしばしば線路脇の草をこすっていく。今回の旅行でも雨の山中を走っているとときどきあることではあったのだが、このあたりでは「ときどき」ではすまない。ときには草や葉ではすまず、枝がぶつかったのか「ガン」という音が響くこともある。那岐駅に停車中、運転士が席の後ろに遮光幕をひいたので「あれどうして目隠し?」と一瞬思ったが「ああトンネルか」と思い至る。次のトンネルが鳥取県と岡山県の県境、つまり因幡国と美作国の国境だ。いよいよ美作国に足を踏みいれるぞ。国境のトンネルに向かって急勾配をひたすら登る。
国境をトンネルで越えるとき、特に今回のように3000メートル以上ある長いトンネルで越えるとき、果たしてどのタイミングで実感がわいてくるだろうか。実際の国境はトンネルの中のどこかになるのだが、道路と違って鉄道では標識が出るわけではないのでどこが本当の国境だかわからない。やっぱりトンネルを抜けたときだろうか。しかし三十一は今回、意外とトンネルに入ったときではないかと思った。今回の三十一の感じ方は「美作国に入った」というよりはむしろ「因幡国を出た」という気持ちが強かったようだ。「美作国に早く入りたい」という願望がいつの間にか「因幡国を早く出たい」という願望に変化し、トンネルに入ったときに「因幡国の景色はこれで見終えた」という気持ちが生まれてきた。別に因幡国から早く逃げ出したいというわけではないのだが、「まだ因幡か」「まだ因幡だ」というじれったい感情が「ようやく因幡を抜けた」という形で解消された、その瞬間がトンネルに入ったタイミングになったのだろう。
そしてトンネルを抜けていよいよ美作国。これで「64分の62」となった。国境を越えると今度は下りの急勾配。制動をかけながら下っていく。美作で最初の駅、美作河井に停車中、運転士がおもむろに前部ドアの前についているバックミラーの調整を始めた。仕業前に確認しないのかな、と思ったが線路脇の草や枝にぶつけているうちに曲がってしまったんだろう。濡れ衣を着せてしまってすみませんでした。このあたりまで来るとすっかり雨も上がり日もさしてきた。トンネルをさらにいくつか抜けて、津山盆地におりてくる。津山盆地は美作の中心となる平地で、冒頭にも記した通り津山では4つの路線が集中している。左側から姫新線が寄ってきたかと思うといったん合流して、すぐに上下線に分岐すると東津山駅に到着。一般的にはここはシーサスクロッシングにするところだろうが、考えてみるとこれでも機能は変わらない。鉄橋で川を渡って津山着。

津山駅前広場は工事中。「まなびの鉄道館」に向かうには駅の左方向にある踏切を渡って駅舎の反対側に出るのだが、通路が右方向にしかつながっていないので迂回を余儀なくされる。事前にアクセスマップを見てきたので道筋はわかっているのだが、ルート沿いにノボリがずっと立っているのであまり迷うことはないだろう。踏切に近づくとちょうど津山線の列車が到着するところだった。踏切に着く頃にはもうあいてるな、と思ったのだがすぐにまた踏切が鳴り始め、今度は何だろうと思ったら姫新線の列車が到着するところだった。数少ない到着列車を同じ時間帯に集中させているのは備後落合と同じだが、めったにひっかからない踏切にたまたまひっかかると長く待たされるというのはあんまり愉快ではあるまい。
ノボリや看板をたどって問題なく「まなびの鉄道館」にたどりついたのだが、いざたどりついてちょっと戸惑う。これ本当に入り口か? 何の変哲もない金網に空けられたゲートにしかみえない。よく見ると看板が出ているのだが色使いのせいかあまり目立たない。入り口からは扇形機関庫の背面しか見えないのもわかりにくくしている。入り口そのものにもう少し歓迎ムードを出したほうがいいんじゃないかなあ。余計なお世話だけど。入場料はおとな300円で、硬券を模した入場券をくれた。すぐ目の前が目玉の転車台と扇形機関庫なのだが、その右側を金網で仕切ったむこうは津山鉄道部の留置線でキハ47やキハ120が留置されている。というか、もともと津山鉄道部の敷地の中にあった転車台と機関庫を仕切って「まなびの鉄道館」に仕立てたのがよくわかる。
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扇形機関庫におさめられていたのはディーゼル機関車が多く、DL好きの三十一にとっては夢のようだったが、SLはD51が1両あるだけなのでお子様たちにはやや不満かもしれない。もっともこのD51は2号機の「なめくじ」でこれはこれで貴重なのだけどね。実車のほかにも展示施設があって、鉄道の仕組みなんかを展示だけではなく実験を通じて学ぼうというコンセプトらしい。三十一は説明だけ読んで「知ってる知ってる」とパスしてしまったが、子供にも実感で理解させることができるだろう。結局三十一は1時間弱くらいいたと思う。実験展示はパスしたかわりに、実車のブレーキホースの格納方法をまじまじと観察したり、鉄道模型の説明をしてくれたおじさんと話し込んだりしていたので普通に見学するのでもやっぱり同じくらいかかるのではないだろうか。

駅に戻ってきたがまだ11時前。次の列車まで2時間近くある。「まなびの鉄道館」でがんばって時間を潰したつもりなのだが潰しきれなかった。さてどうしよう。
実は津山で行けるものなら行ってみたいと思っていたところがもう一ヶ所ある。津山城だ。明治維新当時の美作津山藩は石高はそれほど高くないが、德川家康の次男である結城秀康の直系の子孫という由緒を誇っていた。ところがこの家系は不祥事や当主の若死にが続いて越前福井67万石だった領地がついには美作津山5万石にまで減らされてしまった。幕末に近くなって高直しで10万石に増やしたが実際にはかなりの水増しがあって藩財政は相当苦しかったようだ。しかし津山城は石高は減らしたとは言え名門の親藩が入るにふさわしい堅城で特にその石垣は見事という評判だ。時間がなかったので諦めていたのだが、改めて駅前の案内地図を見てみると駅から1キロくらいらしい。道もわかりやすいし、とりあえず行けるところまで行ってみようと歩き始める。ところがこの頃からまた雨が降り始め、少しずつだが強くなってきている模様。市の中心となる通りを曲がると城跡の入り口があった。石垣と、見上げるような石段。一瞬躊躇するが思い切って登ることにする。百段はなかったと思われる石段を登り切るとつきあたりになり、右手方向が入り口らしい。ここから先は有料か。300円なのでそれほど高いわけではないが、何しろ雨。降ってさえいなければ300円払うのはやぶさかではない。また無料なら多少の雨でも入ってみる気になっただろう。しかし雨の中、300円払ってまで中に入る気になれなかったのでここから踵を返して駅に戻る。
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駅まで戻ってみると、改札の前に掲示板が出ていた。
なになに、「姫新線 久世ー中国勝山間の踏切で列車と自動車の接触事故があったため、姫新線の列車に遅れが生じる可能性があります」 なんとまあ。
いまならまだ時間に余裕があるので、少々遅れても最終的に目的地にたどりついてくれるならいい。万一にも動かなくなってしまうと困る。もし姫新線が使えないとなるとここから津山線で岡山に出て、東京に帰ることになるだろう。きっぷの買い方が変わってくるのだ。そしてその場合、姫新線の津山-新見間が未乗車で残ってしまう。
次の津山線の列車は12:27、そして当初乗るつもりだった姫新線は12:46。その次の津山線が13:30。あと1時間近くあるので、もうしばらく時間を潰してもし動かないようなら津山線経由できっぷを買って東京に帰ろう。最悪、13:30の津山線に乗れれば充分早いうちに帰宅できる。さっき、鉄道博物館に向かう途中にファミレスのようなレストランがあったのでそこでランチにしよう。

ランチを終えて12時ちょっと過ぎに駅にもどってみると、ちょうど例の掲示板を片付けているところだった。さては動くか?
当初の予定通り、姫新線でいったん新見に行きそこから伯備線で岡山に出て新幹線で東京に帰る、という面倒くさいきっぷを買う。「姫新線は動きますよね?」「遅れる可能性はありますけど」「まあたどりつければいいです」という確認を経てきっぷを確保。

姫新線の列車は、もはや予定調和のようにすら思えるキハ120。
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ところが周囲の写真を撮っているあいだにいつもの席を女子高生にとられてしまった。まだ昼過ぎなんだけど、中間試験には早いよね? 同じロングシートの、一番後ろに座ったので一応前方は見える。定刻通り、津山駅を西に向かって発車した列車は、津山線と並行したまま先ほど歩いて渡った踏切を今度は列車に乗って行く。歩行者として踏み切りを行く列車を見るのと、その列車に乗っているのとでは速度感がずいぶん違うなあ。しばらく津山線と並行していたが、ほぼ同じタイミングで津山線は左へ、三十一が乗る姫新線は右へカーブして別れていく。
このあたりは盆地の田園地帯なので基本的には平坦で曲線もきつくない。ただときどき川を渡ったり川に沿って走ったりすることがあるが、川は線路と反対側に向かって流れているようだ。美作千代駅はもともと対向式ホームをもつ構造だったのが、上り線側が撤去されて棒線駅になっている。しかしホームはまだ形を残していた。ところがそのホーム上に棚が作られて何か栽培されていた。実がなっていなかったのでわからなかったのだがまさかブドウじゃないよね。キュウリか何かかな。美作落合駅でそろいの制服を着た3人組の女子が乗り込んできたけど、高校生には見えない。こんなところに大学があったのかな。そろって中国勝山で降りて行った。
刑部で対向列車と行き違いをするはずだったが、相手が来ない。例の事故のせいで新見を12分遅れで出たそうだ。というわけで、こちらも待たされることになる。12分かあ。もし12分遅れると新見着は14:38。まさにその時間に岡山行きの「やくも」が出るということで、指令からの指示で運転士が「やくも」への乗り換え客がいないか聞いていたが該当者なし。実は三十一は、もし間に合うのであればその「やくも」で岡山に向かおうと思っていた。しかしまだ特急券は買っていないので「乗り換えます」とは言えなかった。車内で買うということもできるだろうが、いくらなんでも乗り継ぎの新幹線までは車内では買えない。別々に買えばいいじゃないかと思うかもしれないが、新幹線と乗り継ぐ在来線特急の特急券を同時に購入すると在来線側の特急料金が半額になる。別々に買うとその特典が得られない。実際のところそれで節約できる金額はたかが知れているのだが、その仕組みを知っていながら利用しないというのはテツの矜持が許さない。そのため「やくも」は諦め次の普通列車で岡山に向かうことにした。それでもそんなに夜遅くならないうちに帰れるだろう。
実際には新見には10分遅れの到着となり、「やくも」までは2分の余裕があってきっぷさえ持っていたなら充分乗り換えに間に合っただろう。しかし窓口できっぷをちゃんと買っていたら到底間に合わない。というわけで黄色い115系の普通列車で岡山に向かう。進行方向左側のクロスシート窓際に陣取って、眼下を流れる高梁川がよく見えるが朝早かったせいかうとうとすることが多くなった。総社あたりでかなり混雑し、倉敷でだいぶ乗客が入れ替わったが混雑はむしろ激しくなった。三十一が座っていたボックスの4席も全て埋まる。そのひとり、三十一の対角線上に座った大きな荷物を抱えた客がイヤホンもつけずにテレビかビデオか何かをずっと観ていてうるさいことこの上ない。どうも中国語のようだ。しかし本人はひんしゅくを買っていることに気づいた様子もない。終着の岡山までその状態は続いた。
岡山駅で適当な新幹線の指定席を入手し帰京。

今日の旅程:
鳥取(0705)→智頭(0731) 72D
智頭(0815)→津山(0924) 675D
津山(1246)→新見(1426+10=1436) 861D
新見(1450)→岡山(1622) 856M
岡山(1638)→品川(1956) 136A

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2016年9月28日 (水)

三段(腹のことではなく)

まずはじめに、今日の旅程を決める際の主目標を発表しておこう。どうもその方がいろんな説明がわかりやすそうだ。
三十一がこのブログを書くときには、読者にできるだけ新鮮な驚きを味わってもらうために極力ネタばれを避けているのだが、わかりやすさには代えられない。
などともったいぶって見たが、鉄分が濃い人々なら容易に推測できそうな、木次線がそれである。

もともと当初の予定では木次線に乗車するつもりではなかった。三江線を踏破したら山陰方面を西に向かうつもりだったのだ。だが一昨日芸備線に乗車していて、備後落合駅で木次線の列車を目撃したときにこれは片手間では踏破できないぞと感じたのが最初のきっかけだったろう。そもそも、三江線を主目的としたときに岡山に前泊するのは本来はあまり意味がないのだが、これにはもともと往きに津山に寄ってこようという計画の残滓が影響している。しかしそれでは津山に行くのが月曜になってしまうので後回しにすることにしたのだ。その結果、三江線の前泊である広島泊のさらにその前日に岡山泊というのが差し込まれ、岡山から広島に向かうのに芸備線を使うというルートを選ぶことになったのだ。それでも昨夜の宿が浜田でとれていればそのまま西に向かった可能性が高い。浜田に宿がとれず、出雲市と東萩を天秤にかけたときに改めて木次線が有力な候補として浮上した。はじめはそこまで考えていなかったのだが、中国地方山間部から山陰中部の、新幹線から直接のアクセスがないローカル線をこの機会に乗り潰してしまおうと、この旅行の目的が大きくシフトした。その結果今日の主目標として木次線が設定されることになったのだ。

さて、ここのところ毎日のように同じ説明をしている気がするが、木次線を昼間に乗り通すなら宍道11:19の備後落合行きに乗るしかない。そこでこの列車を軸に、出雲市から宍道に出て木次線で備後落合まで行き、芸備線で新見に出るというルートが必然的に決まった。この列車に間に合わせるには10:30過ぎに出雲市を出ればよい。朝ずいぶん余裕があるので、この間に一畑電車を使って出雲大社まで往復してみようかとも思ったのだが、そうすると7時過ぎに出て2時間ちょっとで戻ってこなくてはいけない。あまりに余裕がなさすぎるし、万一遅れたときに取り返しがつかない。同じようなことを岡山でもやっていたが、あのときはちゃんとバックアッププランがあった。今回は目標の列車に乗り損ねると以後の旅程がすべて崩壊する。そんなリスクはさすがにとれなかった。それに出雲大社には9年前に一度行ってるし。

またまた面倒くさいきっぷの買い方をして、それでもまだ時間があったのでお茶でも飲もうかと思ったのだが適当な店が見つからず、しかたないので待合室で時間をつぶす。よきタイミングでホームに上がってみた、つもりだったのだが、おや、松江方面行きの列車は10:43だったはずでは? 案内表示は10:41になっているなあ。手元の時刻表は田儀駅復旧前の臨時ダイヤを掲載しているのだが、実際には田儀駅はすでに復旧ずみなのでダイヤが変わっていたのかもしれない。危ない危ない。この列車は田儀を通らないので変わらないだろうと高をくくっていたが今後ちょっと注意しよう。
やってきた列車は西出雲始発だがキハ47気動車の2両編成。通学には遅い時間なので高校生はいない、はずなのだが女子高生がふたりほど乗車していた。宍道で木次線に乗り換える。女子高生のうちひとりも同じ列車に乗り換えた。中間試験には早いよね。

それはさておき、木次線の列車はもうすっかりお馴染みとなったキハ120だが、なんと豪華2両編成、と思いきや二両目は締め切りの回送車両のようだ。そういえば9年前に木次まで乗ったときもこうだったような気がする。いつもの座席に着席すると間もなく発車。地方のローカル線ではよくみかけるのだが、運転士とは別に保線担当者が前方監視のために立つことがよくあって、前方を見たい三十一にとっては正直邪魔ではあるのだがこれが乗客である三十一自身の安全に寄与していると考えると甘受するしかない。宍道を出た木次線はいきなりの急勾配。この区間はもとは民間で建設されたものをのちに国鉄が買収して編入したのだがその痕跡は正直感じられない。簸上鉄道が宍道から木次までを開業してから今年でちょうど100年ということでノボリが駅に立てられていた。木次までは以前乗車済みだが、あまり強い印象がない。勾配はきついが意外に風景は開けていて、いかにも古典的な日本の田園風景だ。木次駅では乗客の大半が降りていった。例の女子高生もその中のひとりだ。木次を出るといよいよ初乗車区間なのだが、あまり印象は変わらない。田んぼの中を築堤で横切ったり、山際の雑木林をつっきったりしながら徐々に高度を上げていく。はじめのうちは開けていた風景もだんだんと狭隘なものになっていき、大小さまざまな小盆地の連なりといった趣だ。そしてその小盆地ごとに駅が置かれている。これがかつてのそれぞれの「ムラ」に対応するのだろうか。こうした「ムラ」は明治以降は字あるいは小字と呼ばれるようになった。

出雲横田ではしばらく停車して後部のぶら下がり車両を切り離す。
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切り放された車両は宍道に向かって折り返す。
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残された1両目はそのまま終点の備後落合まで向かう。もちろん三十一はこのまま終点まで乗るのだ。身軽になった列車は相変わらず田んぼを中心とした小盆地を貫いていく。だいぶ登ってきたはずなのだが、それでもわずかな平地があれば畔を盛って稲を作らずにはいられない日本人の執念とも言うべき所業に半ば恐怖を交えた畏怖の念を抱いた。はたしてこの田んぼはいつまで続くのだろうかと見ていたが、だんだん形をいびつにしながらも県境の直前である出雲坂根近くまで途絶えることがなかった。
さてその出雲坂根駅はいまでは珍しくなった三段式スイッチバックと名水延命水で有名だ。ここで30分近く停車するので、駅の内外を撮りまくるついでに、駅構内に引かれている延命水をひとくち呑んでみる。特に旨いとも思わなかったがこれで少しは寿命が延びてひとつでも多くの非電化単線鉄道を踏破できるようになればいいのだが。
ホームから本線側を見る。左がこれまでやってきた宍道方面、右がこれから行く備後落合方面。
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同じところから反対側を。停車している車両の上に国道橋。
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30分近く待ってようやく発車。行き違いがあるわけでもないのにどうしてこんなに停車時間が長いのやら。おそらくはかつてのダイヤをそのままなぞっているのではないかと推測する。三十一にとってはたっぷり撮影時間が確保できて言うことはないのだが、急ぐ人には無駄な時間に感じられるだろう。もっとも、急ぐ人は木次線を使わない。これまでと逆方向に向けて発車した列車はシーサスポイントを越えて折り返し線に入っていく。しばらく高度を上げていくとスノーシェッドに守られたポイントが現れる。少し過ぎたところで一旦停車して運転士と保線担当者と、三十一を含むテツ数名が車両の反対に向かい、信号が変わるのを待ってまた反対方向に、つまり元の方向に走り始める。ふと外を見ると、右側の下のほうに今とおってきた折り返し線と、そのさらに下に本線が見えたので慌ててカメラの準備をしたが間にあわなかった。無念。

この先は30パーミルの最急勾配を経てJR西日本最高度駅である三井野原に向かう。このあたりはハーフループともいうべき複雑な線形をしているはずなのだが、トンネルを縫って走っていると方角がつかめず実感がわかない。ようやくトンネルが一段落するともはや峠の頂上に近いらしい。と、突然色鮮やかな道路橋が現れた。忌々しい国道のおろちループだ。さっき、出雲坂根駅からちらりとみえていたのだがスイッチバックを堪能している間にすっかり存在を忘れていた。カメラを構えるひまもなくファインダーをのぞかないまま闇雲にシャッターを切ったわりにはよく撮れていた。
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三井野原は中国地方では有数のスキー場らしく、旅館がちらほらと見えるがもちろん今はオフシーズン。ここをピークにあとは広島県側を一気に駈け降りていく。三井野原をはさむ区間ではさすがに田んぼは見かけなかったが、油木まで来るとまたもや田んぼが見られるようになる。

一昨日も来た備後落合到着。一昨日眺めていた乗り換え風景を今日は自分が実践することになるとは想像していなかった。
そしてここからは一昨日とは逆に芸備線を新見に向かう。備後落合ではけっこうな雨だったのだが、小奴可あたりでは小降りになって少し明るくなってきた。一昨日もこのあたりで晴れてきていたような気がする。新見に着いて、次の特急で米子方面に向かう。米子に向かったのは、初日に伯備線の南半分は乗車済みで北半分が残っていたため。特急にしたのは、日があるうちに米子にたどりつくためだ。米子から今度は鳥取を目指す。今日の宿営地は鳥取。実はこの鳥取泊まりはかなり異例で、まず鳥取に向かう列車は完全に夜になってしまうこと。それから鳥取では最初ホテルが見つからなかったのだがいろいろ手を尽くしてどうにか部屋を確保したこと。普段ならここまで無理はしないのだが、明日の計画のためにはどうしても鳥取に宿泊する必要があった。このあたりの説明は明日以降に。
米子で指定席を確保して、少し時間があったので喫茶店で夕食がてらこの文章を書く。頃合いを見計らってホームに向かい、列車は予定通り着いたのだが、三十一が新見から乗ってきた「やくも」の次の列車が遅れていたので待ちあわせで3分延発。これが響いて鳥取へも4分延着。その間もずっと車内で原稿書き。

本日の旅程:
出雲市(1041)→宍道(1101) 132D
宍道(1119)→備後落合(1434) 1449D
備後落合(1437)→新見(1600) 444D
新見(1610)→米子(1721) 1017M
米子(1841+3)→鳥取(1942+4) 2012D

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2016年9月27日 (火)

川下り

昨日に引き続き、今日も面倒くさいきっぷの買い方をしなければならない。この旅行のあいだ、ずっとこんななんだろうなあ。適当なフリーきっぷがないので毎日毎日きっぷを改めて買うことになる。日程通りのきっぷをあらかじめ買っておけばいいじゃないかというのはもっともだが、天候とかホテルの予約状況とか気分といった要素が絡んで直前になるまで日程が確定しないので仕方ない。特に今日は出発が早いので余裕を見込むと遅くとも6時半には駅に着いていたい。さらに逆算すると6時には起きなければいけない。アラームの助けを借りてだが予定通りに起きてチェックアウトし駅に向かう。会社に行くときにはこうは行かない。

これから乗り込む芸備線の三次行き列車はなんと6両編成。キハ47とキハ40をありったけ集めたんだろう。言い換えると、高校生がそれだけたくさん乗り込んでくると予告されたようなもので覚悟を決める。はじめ、デッキつきのキハ40に座席をとったが発車前に前2両だけが三次まで向かうと知らされて席を移す。クロスシートの進行方向左側だ。広島を発車してすぐ、右手に貨物ターミナルが見える。昨日は見逃していた。コンテナ車はたくさんいるが機関車がなかなか見つけられない。ようやく見かけたのはEF66だった。左手は太田川の堤防。下深川て15分停車して後寄り4両を切り離し。向原では高校生が一斉に下車していき車内の雰囲気が一変する。やがて江の川を左に見て終点三次に到着。
さて今回の旅行はもともと山陰地方西部を主な目的にしていたのだが、9月になってその目的に大きな修正をもたらすニュースが飛び込んできた。鉄には周知のことだろうが、JR西日本が今月中に三江線の廃止届けを提出すると表明したのだ。通常、廃止の1年前までに届け出ることになっているので廃止は来年9月末ということになるが、  国土交通省の許可を得て3月末での廃止を目指すのではないだろうか。
当初は今回の旅行で三江線に乗車するつもりはなかったのだが、隣接している路線であるので、廃止前の三江線乗車を主目標として計画を修正した。ところが廃止の対象になるだけあって昼間の全線乗車を目指すためには選択肢は事実上ひとつしかなかった。すなわち、9:57三次発の列車に乗り、石見川本で乗りついで14:49に江津に到着するというルートだ。厳密に言えば早朝5:44の三次発、あるいは6:00の江津発というのがあるのだが、江津や三次ではそもそも宿をとること自体が難しい。広島に宿泊して朝の芸備線で三次に出て乗りつぐのが確実なほぼ唯一の選択肢だったのだ。広島からの芸備線は次の列車でも間に合ったのだが、接続が4分しかなくかなり慌ただしい。前日の三次の乗り継ぎも3分だったので今日はいったん外から駅を見たかったし、何より最初で最後の乗車になる三江線でできるだけ良い席を確保しておきたかった。

三江線の列車は昨日も乗ったキハ120だがなんと豪華二両編成。しかも先頭車両はラッピング車両だった。何のラッピングなのか知らないが。
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昨日と同じように前方がよく見えるロングシート最前列に陣取る。三次を発車した列車は芸備線の線路を横切って右手に別れて行く。鉄橋を二回渡って江の川の左岸に出、これからほとんどの区間で江の川を右に見て走ることになる。左は山、右は谷。下には道路が見え、さらにその下に川が見えるという光景が十年一日のごとく続く。江の川はたっぷりとした水量をたたえ、一見するとどちらに向かって流れているのかわからないが、まだ広島県内であるにもかかわらずすでに列車と同じ方向つまり日本海側に向かって流れているようだ。細かいアップダウンはあるが、これから終点までこの江の川とほぼ並行しているので昨日の芸備線のような急勾配はなく、基本的にはほぼずっと下り基調が続く。三江線の北半分、浜原以北は戦前に、以南は戦後になってから開通しており、さらに南部の半分にあたる浜原-口羽間が最終的に開通して全線開業したのは昭和50年になってからだった。この建設時期の違いがどう現れているかというのもひとつの興味だったのだが、結果としては最終開通区間とそれ以外の違いが目についた。何しろ最終開通区間ではトンネルと鉄橋で川の屈曲に関係なく直線的に線路が布かれている。有名な宇津井駅はこうしたトンネルとトンネルの間を鉄橋で結んだ、その上に設置された駅だ。三江線では数少ないアピールポイントらしく、わざわざ数分停車して撮影時間を与えるというサービスを行っていた。それに便乗した三十一の写真だが、完全に逆光だったのでかなりオーバーにふったら一部白飛びしてしまった。
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背景に写った家の屋根がそろって赤い石州瓦なのはさすがに島根県で、石見国に入った証拠だ。もっともこのあたりは三江線の線路が江の川の右岸と左岸を行き来するごとに県境を越えるので、三次側から順にたどっていくとまず香淀駅が広島県、続いて作木口駅・江平駅・口羽駅が島根県、次の伊賀和志駅が再び広島県、そして宇都井駅からまた島根県となり、県境を越えた実感がまったく湧かない。浜原からは戦前に開通した区間に入るが、やはり江の川に沿って走るという光景に変わりはない。ときに雑木で川が見えなくなることはあるが、その逆にほぼ真下に川面が見えるようなこともあって、そんなときにはそれなりの高度感がある。やりようによっては四万十川沿いを走る予土線のようにトロッコ列車を使って観光地化できたんではなかろうかと思う。隣の木次線で使っているトロッコ列車を貸してもらってもよかったんではないか。今さらこんなことを言っても死児の齢を数えるような空しい所業でしかないが。

石見川本駅でいったん列車を下ろされる。次の江津行きの列車までは1時間半あまり。何もない駅で1時間2時間潰すのは慣れっこな三十一ではあるのだが、さすがに一瞬途方に暮れる。とりあえずはいつものように駅前に出て駅舎の写真を撮ってみた。備後落合よりは開けている。
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ひとまず町の中心地と思われる方角にぶらりと歩き出し、たまたま見掛けた喫茶店に入って昼食がてら時間を潰す。「カフェ」ではなく「喫茶店」というところが肝心だ。昔ながらのカレーライスを食し、昔ながらのコーヒーを喫して時間を見計らって店を出て駅に戻る。
駅に戻ってみるとこれから乗ろうとする江津行きの列車が待機していたのだが、これは全く同じ車両にしか見えない。ひょっとして運転士も同じかなあ。三十一も同じ席に座る。
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写真左にわずかに土手が見えるが、これが江の川の堤防である。反対方向からの列車と交換して江津に向け発車。
前方を展望していて気づいたのだが、このあたりで何ヶ所か、線路をふさぐ形で水門が設けられている。数えていなかったのだが、多分5ヶ所くらいはあっただろう。もちろん普段は開いていて列車を通せるようになっている。水位が高くなったときには水門を閉鎖して溢水を防ぐのだろう。もともと堤防を越えて線路が敷かれていたのだろうが、後になって堤防をかさ上げした際に元の高さに据え置かれた線路と堤防の段差を埋めるために水門が設置されたものと推測したのだが暇な人は調べてみてください。これも他の路線ではなかなか見掛けない貴重な要素ではあるんだけどなあ。
そういえば、廃線が決まったせいかところどころで撮り鉄の姿をみかける。なかには線路ギリギリに構えているヤツがいて冷や冷やする。この席からだとよく見えるのだよ。
終点である日本海岸の江津はもうまもなくのはずだが、江の川と左右に山という風景が変わる気配はなかなか感じられない。残り二駅という千金あたりまで来てようやく、前方のあの山をやり過ごすと海に出るんではないかという気配がしてきた。海に出る前の最後の屈曲部に沿って線路もぐるりと大回りしていく。川幅は広く、川の流れもゆるやかになって水鳥が遊んでいたり対岸にヨットなどのプレジャーボートが係留されていたりする。前方で川を渡る橋は国道と山陰本線だろうか。その橋のむこうにはもはや山はみえない。終着ひとつ前の江津本町駅に着く。駅名からこのあたりがもともとの古い市街地なのだろうと想像していた。本線の駅は古い市街地から離れて置かれることが多く、のちになって旧市街地至近に別に駅が設けられるようになる例はけっこう多い。八戸とか能代とか倉吉とか。しかし実際の江津本町駅は何の変哲もない川っぺりに置かれた無人駅であった。なんでこんな駅名なんだろうといぶかっているうちに山陰本線が近づいてきて終点江津に到着。全線乗り通してみて思ったのは、ほぼ全線が川べりで平地がほとんどなかったこと。昨日の芸備線でも、山越えの区間はあっても小盆地もあって、まだらではあっても沿線人口はそれなりにあった。しかし三江線沿線ではまれに現れる開けた土地もそれほど広いわけではなく、沿線人口もそれほど多いとは思えない。かなり厳しい状態というのは認めざるを得ない。

江津から山陰本線で今夜の宿営地である出雲市に向かう。はじめは浜田に宿をとる予定だったのだが楽天では空きホテルが見つからなかった。そこで西側の益田や東側の大田市を探してみてもやはり見つからず、最終的に候補になったのは出雲市か東萩、という江津から見て真反対のふたつだった。まったく初体験となる東萩と、かつて訪れたことのある出雲市の比較となったが、今後の展開を考えて出雲市を選んだ。その理由は今後明らかになるであろう。

出雲市へは次の特急で向かうのだが、その前に三江線の列車が折り返す。ただし折り返しの列車は2両のうち1両を切り落として1両編成となっていた。写真は江津駅を出た三江線の列車が右にカーブして今まさに姿を隠そうとしているところ。
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その数分後、下りのアクラライナーと交換する形でこれから乗ろうとしている特急が入ってきた。
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自由席にするか指定にするか悩んだのだが、とりあえず自由席にしておく。実際に乗ってみるとかなり混んでいて、海側の窓際は無理。かろうじて前から2列目に山側の窓際を確保。キハ187系はデッキの壁面がガラスになっていて前方がよく見えるのだが、特等席である1列目つまり三十一のひとつ前の席の若い男は何を考えているのか背もたれを無意味に深々と倒し、しかもテーブルに置いたPCだかタブレットだかに覆い被さるかのような前傾姿勢でのぞき込んでいて、背もたれを倒した意味がないんじゃないかと思ったが、その姿勢を保っているかぎりにおいては倒された背もたれ越しに三十一の席から前がよく見えるので、その態度そのものは腹立たしいのだが三十一個人の刹那的な欲求を優先してよしとしよう。
振り子車両キハ187系は、高速化改良された山陰本線を快調に飛ばす。田儀駅は今年の1月に大雨の影響で山側の線路が土砂に埋まり、単線での運用を余儀なくされて臨時ダイヤによる運行となっていたのだが、その土砂も撤去されて山側の線路の使用が再開しており土留めの工事が引き続き行われていた。西出雲では右手つまり三十一の座っている側に車両基地が見える。サンライズがいるはずだが見つけられなかった。目立ったのはやくもの381系電車だ。神戸川を渡り、高架にあがると出雲市。

本日の旅程:
広島(0657)→三次(0855) 1850D
三次(0957)→石見川本(1209) 424D
石見川本(1343)→江津(1449) 426D
江津(1519)→出雲市(1612) 3004D

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山とキハ120

月曜の朝、岡山は雨。
今夜の宿はすでに広島に決まっている。それにはちゃんと理由があるのだが、ともかく今日中に広島まで行くことになる。新幹線を使えば1時間もかからずに着けるのだが、もちろん三十一がそんな簡単なことをするわけがない。

ダイヤの都合で岡山出発は11時過ぎになってしまうのだが、9時にホテルを出る。駅の窓口でちょっと面倒なきっぷの買い方をして、無事に目的のきっぷを手に入れたところで駅を出て駅前の電停に向かう。この時間にしたのは、平日朝のラッシュが一段落した時間帯を見計らったからだ。岡山電軌はわずか2路線。終着まで20分もかからないので全線に乗車しても2時間はかからないはず。駅前電停でまず来た東山行きに乗り込み、すぐ折り返して分岐駅の柳川まで戻り、もう1路線の清輝橋行きで往復してまた駅前まで戻ってきたときにはほぼ1時間が経っていた。天気がよければもっとよかったのに。写真は清輝橋電停。
006s
岡山から特急やくもに乗車。381系電車には以前乗車したことがあるけれど、米子から松江までという、振り子の意味がほとんどない区間だった。自由席はかなり混んでいたが進行方向左側窓際の席を確保できた。倉敷までは山陽本線を行く。倉敷では水島臨海鉄道線のディーゼルカーと、DE10ディーゼル機関車を先頭にした貨物列車を目撃。瀬戸内工業地帯を象徴するような光景だ。倉敷からは伯備線に入る。伯備線は過去に乗車済みだが上りのサンライズ出雲だったので伯備線区間は夜。昼間の乗車は初めてだ。高梁川が近寄ってきて並ぶ。思っていたよりもずっと川幅が広くて驚かされる。山陽新幹線と山陽自動車道が並んで高梁川を越えていく、その下をくぐっていく。やがてもうひとつ高梁川を斜めに渡った高架橋が頭上を越えて右側に出たかと思うと合流してくる。井原鉄道線だ。総社駅を通過、左側に井原鉄道のホーム、右側には吉備線のホームと本線が挟まれる形になる。実は吉備線を使って総社に出てくるというのも考えたのだが岡山電軌を優先したのだ。
高梁川の川幅は広くなったり狭くなったりしているが水量は豊かで水面は茶色く濁っている。ときに車体の傾斜を実感することもあり、さすがに元祖振り子車両だと思った。席に座っているせいか、自然振り子方式でも違和感は感じなかった。備中高梁に到着。河岸の緩斜面に市街地が広がっているが、備中松山城は山城で車窓からは見えなかった。ここ備中松山藩は、備後福山藩とともに、中国地方の外様の雄藩である池田家の岡山藩と浅野家の広島藩の間に打ち込まれた譜代大名というクサビであった。18世紀半ば以降は百年以上にわたって板倉家が城主を務めてきた。方谷駅で上り列車と交換し、やがて新見に到着すると列車を乗り捨てて、山陰に向かうやくもを見送る。新見駅はこの近辺の拠点駅ではあるが周囲を中国山地に囲まれている。
041s
待機していた、JR西日本のローカル線用気動車キハ120が入ってきた。駅名標の横に立つキロポスト(距離標)は姫新線の起点姫路からのキロ程を示すものだろう。
089s
実は今日の日程はこの区間のダイヤで決まってしまった。芸備線の末端区間、新見ー備後落合間を日のある時間帯に走る列車は、早朝5時台の列車を除くとこの13:01発の列車しかないのだ。逆方向の列車も事情は変わらない。だから岡山出発が11時過ぎになってしまった。

新見に発着する芸備線の列車はここから2駅伯備線を走ってから非電化の芸備線に入るのだが、いま停車している1番線には架線が張られていなかった。
乗車したのは10人ちょっとだろうか。このうち終点まで乗り通すのはほぼ間違いなく鉄だろう。キハ120は前半分がロングシート、後半分がクロスシートになっているのだが、クロスシートにはもはや空きがなく(というのは4人席に少なくとも1人は座っている状態だ)ロングシートで前が見やすいところに陣取ることにした。先頭には地元のお婆さんがすでに座っていたのでその少し後に控える。
備中神代まで2駅間の伯備線は、電化されて特急や貨物列車も行き交う幹線のはずなのだが、乗っている車両と渓谷筋を行く急勾配路線という外観のおかげですでにかなりのローカル感。分岐駅となる備中神代でもやはり芸備線ホームには架線は張られていなかった。よく見るとホームの時点ですでに分岐済みで、この先はもう芸備線にしか線路がつながっていなかった。備中神代を出ると今回の旅行で初めて非電化区間に出るが、むしろこれまでの山中の線路に比べると開けた印象で、もちろん左右に山は見えるのだが、小盆地に広がる田んぼをつっきって線路が走っていく。市岡、矢神、野馳あたりまではそんな風景だ。その間に地元のお婆さんが下車していって一番先頭に席を移す。岡山県内最後の駅である野馳を出ると急な下り坂になり、25キロ制限がしばしば現れる。県境を越えて広島県内最初の駅である東城では帝釈峡にでも向かうらしい団体が降りていった。東城を出ると今度は上りになり、エンジン音をうならせて登っていく。内名を過ぎると今度はまたまた下っていく、アップダウンの激しい区間だ。小奴可を過ぎたあたりから日が出てきた。終着の備後落合に到着。

備後落合駅は芸備線と木次線の接続駅だが、接続駅としてはもっとも不便な駅のひとつと言っていいかもしれない。どうしてここで接続させようと思ったのだろうかといぶかるくらいの山中の秘境駅だ。
147s
2両ならんでいるキハ120の右側のほう、オレンジとピンクのラインが入っているのがこれまで乗ってきた芸備線末端部を走る列車で、左側の紫とブルーのラインのほうがこれから乗る三次行きになる。同じ形式ならわざわざ乗り換えなくても、と思わなくもないが車両運用の都合だろう。
180s
キハ120が2両並んだかと思ったら、今度は向かい側のホームに木次線のキハ120が入ってきて色違いで3両揃い踏みとなる。一見するとちょっとした拠点駅のようだが
実際には数少ない列車同士の接続をできるだけとるための工夫で、この光景が見られるのはほんの数分しかない。
三次に向かう列車では、これまでと同じ形式の同じ席を確保。多少は勾配が緩くなるだろうと思っていたのだが、今度はこれまで見掛けなかった20キロ制限が盛んに出てくるようになる。備後西条駅ではスプリングポイントを通過。備後庄原あたりまで来るとまた田園風景が広がるようになる。下和知駅では指令から何か無線が入ったらしいがよく聞き取れず、運転士が携帯で何やら話していた。通話が終わると何事もなかったかのように発車。次の塩町駅で高校生が大量に乗車してくる。いずれこういう時間帯が来るだろうとは覚悟はしていたが輸送力の小さいキハ120はたちまち満員になる。
三次ではわずか3分の接続で快速広島行きに乗り換える。キハ120単行と比べるとキハ47が二両編成の快速は定員では3倍くらいになっているだろう。ここまで来ると広島に向かう日常的な流動がそれなりのボリュームになっているということか。けっこう大胆に途中駅を通過していってるので、帰宅しようとする高校生はそれほど目立たない。と思っていたら、下深川駅でまたもやどっさり乗り込んできた。ここから広島までは各駅停車だ。5時半、まだかろうじて日のあるうちに広島到着。

今日の旅程:
岡山駅前(0930)→東山(0947) 岡山電軌
東山(0950)→柳川(1005) 岡山電軌
柳川(1012)→清輝橋(1020) 岡山電軌
清輝橋(1022)→岡山駅前(1033) 岡山電軌
岡山(1104)→新見(1206) 1009M
新見(1301)→備後落合(1425) 443D
備後落合(1438)→三次(1600) 359D
三次(1603)→広島(1729) 5873D

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2016年9月25日 (日)

64分の60

昼前の新幹線で西へ向かう。

一昨年の夏休みは四国、去年は北海道だった。順番というわけではないが、今年はわりと早い段階で西へ行こうと決めていた。
一昨年の四国で、陸続きになっているすべての都道府県、つまり沖縄を除く46都道府県のすべてに足を踏みいれてひとつの目標を達成してしまった。
国内の非電化鉄道をすべて踏破するという壮大な目標はあるのだが、それはいわば努力目標であって、実際に達成できるとは考えていないし、正直どこから手をつけていいのかわからない。そこでもう少し現実的な中間目標を設定することにした。それが「律令制国の全踏破」である。
実際には、全都道府県を踏破した時点でかなりの「律令制国」はすでに踏破済みである。改めて数えてみたところ、島部を除くと未踏破なのは4ヶ国(あいまいなものも含む)に過ぎない。しかしこの4ヶ国はいずれも意識して目的地にしないと踏破できない国々であった。さすがに生き残った精鋭だけのことはある。
具体的にこの国名を挙げると、志摩国、和泉国、美作国、石見国となる。ちなみに島まで含めるとこれに佐渡、隠岐、対馬が加わる。壱岐は高校の修学旅行で踏破済み。機会があれば島のほうにも行ってみたいと思っている。
さて未踏破の4ヶ国のうち和泉国は実は不確実だ。幼稚園年長組だったころ、当時大阪府下に住んでいた三十一は父親が勤めていた会社の保養所があった南紀白浜に旅行に行ったことがある。そのころ父も母も運転免許をもっていなかったので国鉄(JRではない)を使って往復したのはほぼ確実で、だとすると途中で和泉国を間違いなく通過しているはずなのだが、いかんせん全く記憶がない。踏破済みのうちに入れてしまおうかとも思ったのだが、いちおう未踏破のほうに入れておくことにする。

未踏破4国のうち、和泉は大阪まで行ってしまえば少し足を伸ばすのは難しいことではないし、不確実なので後回しにしてもいいだろう。
志摩国について考えると近くに伊勢神宮があったり、また鉄道に関していうと紀伊半島はかなり手薄で、こうした目標がなかったとしてもいずれ乗りに行きたいと思っていた。近鉄から独立した四日市あすなろう鉄道も興味深い。こうした目標とセットにして日程を組むのもありではある。

しかしやはり遠いほうから先にやっつけるべきだろう。非電化路線の西の雄ともいうべき山陰本線の西半分がまるまる未乗車で残っているし、その行き帰りのどちらかで津山の鉄道博物館に寄り道すれば美作も石見も踏破できる。そんな心づもりをしていた今年の夏休み、出発の直前になって大きなニュースが飛び込んできて修正を余儀なくされる。鉄な人には見当がつくだろうが、具体的には後日。

ちなみにタイトルの64の中には島部は含めていない。

本日の旅程:
東京(1150)→岡山(1515) 109A

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2016年9月12日 (月)

Y染色体 vs イエ

ちょっと前の、先週のTVタックルか何かで「女系天皇を容認するくらいなら男系の旧宮家を皇室に復帰させるほうがいい」と発言していたコメンテーターがあった。
それを聞いて三十一がまず思ったのは、「旧宮家より近い男系子孫がいるんだけどなあ」ということである。

あまり知られていないことだが、旧摂家の中には皇子を養子にした例がいくつかある。
まず江戸時代半ばに東山天皇の孫で閑院宮直仁親王の子が、鷹司家の養子となっている。この男系子孫は鷹司家本家では絶えているが、摂家に次ぐ家格である清華家の徳大寺家にさらに養子にはいった系統が今も続いている。三十一が知るかぎり、現在の皇室にもっとも近い男系子孫はこの系統である。
さらに、江戸時代初めに後陽成天皇の皇子が近衛家と一条家の養子となっている。現在の近衛家はこの系統になる。いっぽうの一条家は、本家の血統は一度絶えたが分家の醍醐家から養子に入ったので皇胤の血統が継続した。その後、本家は養子が継いだために一条家の現当主は男系では皇室の子孫ではなくなったが、実子が他家に養子に入ったため子孫は現存する。
ちなみに、戦前期の日本政治を語る上で欠かせない近衛文麿と西園寺公望はいずれも天皇の血を男系でひいている。近衛文麿は近衛家の直系の当主だし、西園寺公望は徳大寺家から同じ清華家の西園寺家を継いだ。天皇との血縁の親疎で言えば東山天皇の子孫である西園寺のほうが後陽成天皇の子孫である近衛よりも近い「親戚」のはずなのだが、西園寺が近衛を評して「自分がお上と会うときに比べて、近衛さんとお上はずっと親しくされているのはやはり親戚だからだろうか」と言っているのは、摂家筆頭の近衛家のほうが清華家の西園寺よりも家格がずっと高い(摂家の家格は親王家よりも上に見られていた)からだろうか。もっとも、近衛家にはしばしば皇女が降嫁している。

話を戻して、こうした養子に出た男系子孫のほうが、14世紀の崇光天皇にまでさかのぼる伏見宮家(戦後皇族離脱した11宮家はいずれもこの系統)と比べると今の天皇家にはずっと近い。ちなみに竹田宮家も伏見宮家の分家で男系をたどると760年くらい遡らなければ天皇にたどりつかない。「明治天皇の玄孫」というのは女系の話だ。

ところが「男系」を重視する某コメンテーター(名前失念)は、もっとも近親の男系子孫の存在を無視してはるかに遠い「旧宮家」のみを候補に挙げた。そもそもそうした存在を知らないのかもしれないが、そうだとしてもそこに顕われたのはやはりというか何というか「イエ制度」の呪縛である。
つまり、分家ならともかく一度イエを出て他家を継いだものにはもはや本家を継承する資格はないとする感覚だ。

現在のヨーロッパの王室では王位継承を男女平等に変えている例が多い。イギリスもそうだが、変更前からの王位継承順位は変更しないとしているのでそれほど目立っていない。スウェーデンでは現在の国王は男性だが皇太子は女子である。皇太子の下に弟がいるのだが、男女を通じて最年長者が王位を継承することになっている。もっとも、以前も男性優位ではあったものの、女子にも王位継承権はあった。イギリスのエリザベス女王は父国王ジョージ6世に男子がなかったために王位を継承することになった。もし弟でも男子があったなら女王になることはなかったが、しかし存命の叔父よりも王位継承順位は高かったのだ。こうした事例があったから、男女完全平等にした結果女子が王位を継承したとしても前例があるのでそれほどハードルは高くない。

ところがヨーロッパでもいわゆるサリカ法によって王位継承を男系に限った国がある。代表的なのはフランスだ。16世紀末に時のヴァロア朝の王位継承者がいなくなったとき、女系の子孫があったにもかかわらず13世紀にまでさかのぼった国王の弟の子孫に王位が渡って成立したのがブルボン朝である。親等でいうと21親等ということになる。イギリスでも貴族の爵位継承順位はだいたいのばあい、男系の子孫に限っている(例外はある)。だからときどき、爵位を誰が継承するかという裁判が起こされたりしている。

だったら日本でもひたすら男系をさかのぼっていけばいいじゃないか、という意見もあるだろう。ところが欧米と日本(など東洋)ではもうひとつ重要な違いがあって、欧米では教会が認めた正式な結婚の結果誕生した子供でないと王位継承権はない。正室の子でも側室の子でも(優先順位はあるにしても)イエを継ぐ資格がある日本とは大きな違いだ。だから欧米では「世継ぎを得るために側室を置く」という発想はない。側室の子は世継ぎにはなり得ないからだ。逆に日本では側室を許容することで継承者を確保してきたのだ。欧米ではこれが許されないからひたすら男系をさかのぼるとか、女系の相続を容認するという日本では必要なかった配慮が必要になった。

ところが現代、日本においても「天皇が側室を持つ」ことはとても考えられなくなった。大正天皇も明治天皇も、側室の子であって正式な結婚による子供ではなかったが、皇位継承権の有無を問題視されることはなかった。昭和天皇は大正天皇と皇后の間に生まれた嫡出子だが、昭和天皇と皇后の間に続けて4人女子が生まれたときには側室を置くことを薦めた側近があったという。昭和天皇自身はそれを拒否したが、昭和初期くらいまではそうしたことが現実味をもって検討され得たのである。しかしそういう時代はすでに終わった。国民の多くが核家族化しつつある時代にあって、国民統合の象徴である天皇家が国民とかけ離れた家族の形をいつまでも続けていられるだろうか。

「天皇家は一般国民とは違う形であることが必要だ」という意見もあるが三十一は採らない。「国民の総意に基づく」「国民統合の象徴」である天皇と皇室はあまりにも国民とかけ離れることは、いずれ国民から浮き上がって「国民の総意」を失うことになりかねない。そうした形で「国民統合の象徴」がなくなってしまうことは国民自身にとっても決して幸福なことではないだろう。

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2016年9月 4日 (日)

2016年8月の打ち上げ

8月は7件。中国4,アメリカ2、フランス1。ちょっと普段と傾向が違うけど、月単位でみるとこの程度の偏りはそれほど珍しくない。

05日 16.22.44GMT 西昌/長征3B (天通)
09日 22.55.25GMT 太原/長征4C (高分)
14日 05.26.00GMT ケープカナベラル/ファルコン9 (JCSAT)
15日 17.40.04GMT 酒泉/長征2D (QUESS ほか)
19日 04.52.00GMT ケープカナベラル/デルタ IV (USA 270 / 271)
24日 22.16.01GMT クールー/アリアン5 (Intelsat)
31日 18.50.00GMT 太原/長征4C (高分)

5日に中国が打ち上げた「天通」は新型の通信衛星ということらしい。
Orbital Launch Chronology

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