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2017年4月 5日 (水)

「鎖国」をやめられないクニ

学習指導要領で「鎖国」や「聖徳太子」という言葉を使うのをやめよう、という方針がパブコメでの反対意見によって撤回されることになったという。三十一はこのニュースを「撤回された」というタイミングで初めて知ったのだが、日本人はどうしてこうも「変化」が嫌いなんだろうと絶望的な気分になった。「改革」とか「新製品」は大好きなくせに、要するに新しく加わる分にはいいけれど、これまであったものがなくなっていくことには強い拒否反応を示すのだろう。

「鎖国」という単語だが、学術用語としてはとっくに死語になっている。まともな日本史学者でいま「鎖国」という言葉を使う人はいない。同時代に使われていた言葉でもないし、実態とも合わないからだ。
「鎖国」という言葉は江戸時代も後半になって西洋諸国の圧力が日本近海に及び始めたころになって、圧力に対抗するための方便として当時の体制をこう称したのが始まりで、しかも幕府によって採用されたものでもなかった。
三十一が日本史を習っていたころには、「1639年に鎖国体制が完成」と教わったものだが、これも後から振り返ってみればその年にできた体制が結果としてその後続いた、という以上の意味しかない。当事者にしてみれば何かが「完成」したという意識はなかっただろう。

「鎖国」をことさらに強調するのは、明治維新の大義名分のひとつが「開国」にあったからだ。
「外界との連絡を閉ざした幕府を倒して、世界に開かれた新しい政府をうちたてた」という図式を際立たせるために、実態以上に江戸幕府の「鎖国」を強調する必要があった。その「江戸幕府観」をいまだにひきずっているのだ。しかし明治維新からすでに150年が経とうという今日、そうした「明治史観」はもういい加減に捨てたほうがいいだろう。と言うか、歴史学者はとっくに捨てているのだが。

問題は、単に「鎖国」という単語にかぎったことではない。
自然科学の分野でも、学術的なコンセンサスが、根拠のない感情論に負けてしまうというケースが近頃しばしば見られる。
感情論自体はずっと昔からあるもので、最近始まった話ではないのだが、かつては学術の側にそれなりの権威があって感情論に打ち勝つことができた。しかし近年、科学技術をはじめとする学術への懐疑的な見方が強まって、感情論に比べて相対的に弱くなってきている。
もともと学術がもっていた権威も実は、確たる根拠を持ち合わせないものだった。今はそうした根拠のない権威が衰えていく過程なのだろう。それはもはや避けられない。これから学術の側はむしろ根拠をもった権威を構築することを考えなくてはいけないだろう。

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