2008年11月30日 (日)

"くじら"と"まぐろ"

当夜の夜行か、あるいはその日のうちに帰京することにする。アメフトの予約録画が土曜日までしか設定できなかったのでね。そのためには早めに出なくてはいけない。朝出て最初の特急に乗ることにする。間に合ったのはソニックでした。白いソニックね。白いかもめと同じく885系だけど、白いソニックに使われている885系はまだ多少新しいせいか綺麗。ああ、やっぱり綺麗な白の885系は格好ええなあ。
平日9時前とあって車内はサラリーマンが主体でわりと混んでいる。ホームの自由席の列はかなり長い。座れるかどうかなあと思ったけど、窓際の席にありついた。進行方向右側。この鹿児島本線の博多小倉間は九州でもっとも往来が多い路線のひとつだ。鹿児島本線方面の特急、日豊本線の特急、博多に向かう通勤電車、そしてコンテナを積んだ貨物列車。折尾駅を出て黒崎駅に近づくと、右側に線路が見えてくる。筑豊電鉄のようだ。目測した印象ではあるけれど、軌間は普通だが軌道中心間隔がかなり狭いようだ。見かけた車両はまるで路面電車である。福北ゆたか線が電化された今、かなり厳しい状況であろうことは容易に想像できる。このあたりで雨がふりはじめた。
小倉でソニックを見送り、向かいのホームに停まっていた普通列車で門司港へ向かう。門司と門司港の間は、関門トンネル開通後は東京~九州間のルートから外れてしまった。それでもかつては優等列車の一部がこの駅を始発としていたが今では普通列車しか走らない。門司港駅は今では珍しい頭端駅。レトロということを売りにして街作りをしているらしく、新しさを感じさせるものはほとんどない。そこに停車しているのが813系とか817系の新しい電車で、そこだけ違和感がある。古い駅だが頭端式なのでホームから改札まで段差がない。かつてはみんなバリアフリーだったのだよ。近代的な橋上駅のほうがひとにやさしくない。門司港駅はおそらく大正から昭和初期を想定しているのだろうなあ。しかし三十一的には昭和30年頃が好みである。鹿児島本線の起点を示す0キロポストを見かけたのでカメラに収める。門司港まで足を伸ばしたのは未乗車区間の踏破も目的のひとつだが、最大の目的は駅前にある九州鉄道博物館だ。道路から入るところがちょっとわかりにくい。平日ということもあってかかなり空いていた。ゲートでまず目につくのが屋外展示車両。屋根付きのせいかかなり綺麗だ。先頭は9600。やはり筑豊と言えばキューロクでしょう。その後ろはC59だなあ。C59って個人的にはC62より好きなのである。屋外展示車両はあとの楽しみにとっておいて、まずは屋内展示に。展示物はそれほど多くない。内容はまあまあというところかな。入り口に戻って、売店をのぞく。あまり購買意欲をそそられない品揃えで、結局何も買わなかった。そして楽しみにしていた屋外展示。まず気づいたのが、一番奥に石炭車が置かれていること。九州の鉄道は筑豊の石炭を運ぶために建設されたと言っても過言ではない。このホッパー式の石炭車が九州では主に使われた。九州と並ぶ炭田である北海道ではボギー構造の石炭車が多用されていて対照をなしている。次は月光のヘッドサインをかかげたクハ581。だが中に入ってみてがっかりした。余剰の581系を近郊電車に改造した715系の塗装だけ元に戻して展示しているのだ。内装は改造されたままである。その次はクハ481。さらに戦前型ディーゼル車キハ07。九州向けで最初に量産された交流電気機関車ED72。関門トンネル開通時に使用された電気機関車EF10。そして最初に見たC59と9600。どれもきれいに手入れされているように見える。電車とディーゼル車は車内にも入れる。もう少しバリエーションがあったりするといいんだが、それはぜいたくというものだろう。鉄で古いものが好きな人にはお勧めだ。かかった時間は全体で40分くらいかなあ。普通の人が展示を見学するだけなら30分で足りるだろう。シミュレーターとかミニ鉄道を試しているともっと時間がかかるだろうけど。門司港駅に戻る。駅を中心にレトロな街並みで観光客誘致を狙っており、それにひっかかったと見られる観光客がちらほらと。三十一はまっすぐ駅に戻って小倉に戻る。戻り電車に使われていたのも813系だった。

小倉から新幹線に乗り九州に別れを告げる。自由席特急を買ってホームにのぼるとちょうど来たのが700系のひかりレールスターだ。700系に乗るのは初めてだと思う。およそ1時間で広島。この間はほとんどトンネルもしくは高架で海が見えるのはほんのわずか。最初から車窓に期待していなかったので適当に座り本など読む。広島へは2年前にも来ているのだが、あまり変化がないように見える。まずは荷物をコインロッカーに放り込み、ついでみどりの窓口で帰りのチケットを確保する。「はやぶさ・富士」の個室寝台を第1候補に、もしそれがダメなら岡山まで新幹線で行ってサンライズに乗り継ぐというのを第2候補に。それもダメなら「はやぶさ・富士」の開放B寝台が第3候補となり、最後の手段としては夕方の新幹線でその日のうちに東京に帰ってしまうというふうに心づもりをしていたのだが、首尾良くB個室を確保できた。しかしこのみどりの窓口氏、新人にも見えないのだがB個室の操作がわからないらしくしばらく迷ったあげく他の人に聞いていた。それで焦ったのか頼んでもいない乗車券まで発券してくれて三十一の指摘をうけて取り消すというドタバタぶり。ドタバタはあったのだが帰りはこれで確定したので、残りの午後いっぱいを存分に使えることになった。

早速きっぷを買って呉へ。2年前にも九州の帰りに広島で下車しているのだが、そのときの目的も呉だったような気がする。だけどしょうがないんである。前回、呉を訪れたのは2年前の9月、それからすぐの11月に潜水艦「あきしお」が搬入され、やがてそれを目玉とする海上自衛隊呉史料館、通称「てつのくじら館」が開館した。実にタイミングが悪いとしか言いようがない。呉線の電車は前回にも乗った103系。呉までは30分強といったところか。前回訪れた大和ミュージアムと「てつのくじら館」はすぐ隣。直進は大和ミュージアム、右折は「てつのくじら館」という分かれ道を右に曲がる。目の前に潜水艦の船体が現れる。でかい。見上げるその鉄(鋼製だけど)のかたまりには圧倒させられる。大きすぎて写真ではスケール感がわからないのが残念。佐世保と同じく海上自衛隊の広報施設という位置づけなので、入館は無料。佐世保のように名前を書かされることもない。まずは潜水艦の隣に建てられた展示館に。展示スペースは佐世保と同じか、少し狭いくらいか。しかし、佐世保のような総花式の展示ではなく、2階は掃海艇、3階は潜水艦に特化した展示を行なっており、対象を絞り込んだせいか内容は遙かに濃い。そして3階からは連絡橋と船体開口部を通って「あきしお」艦内の見学ができる。発令所では実際の潜望鏡をのぞくことも可能。順路を全部まわるのに1時間かからなかった。しかしこれはお勧め。佐世保よりはるかにお勧め。ただ売店の品揃えは佐世保と大差なかった。建物の外に出て、あらためて「あきしお」を間近で眺める。船首のほぼ真下にマッシュルーム・アンカーが置かれていた。

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「てつのくじら館」を出て道路を渡り大和ミュージアムへ。こちらは海自も協力しているはずだが基本的には民間施設で入場料は500円。そして目玉は映画のために作成された10分の1の大和の模型。まわりを何周もしていろんな角度から写真を撮る。前回は見るのに一生懸命で写真を撮るのを忘れていた。展示自体は2年前にも来たので、ざっとまわってすぐに下りてくる。実際、大和以外にはあまり見るべきものがないのだ。前回にも見つけた展示の誤りはまだ訂正されていなかった。ただし、ミュージアムショップはさすがに充実。商売気というものは偉大ですなあ。ここなら会社に持っていってウケるお土産が買えるに違いないと大人買い。宅配を頼んで大和ミュージアムを後にする。時刻はようやく3時半といったところで、帰りの列車までは6時間以上ある。呉駅前でちょっと食べ物を腹に入れても4時にもならない。うーむ、あとどうやって時間を潰そう。あとになって考えてみたら、呉線を反対方向に三原まで行って戻ってきてもよかったんだ。その時点では思いつかず残念なことをした。広島まで戻ってから思い出して、それから日没まではもう時間がなくなってしまった。

広島駅で実家への土産を物色。あとは1本で帰るだけなので送らずに持って帰ることに。パスタで夕食とし、本屋があったので本を1冊買って残り時間をスタバで潰す。ところがこのスタバが入っている商業施設が9時で閉まってしまうので三十一も追い出され、しばらく放浪したあげく駅のマックでお茶など飲む。パスタにもドリンクが付いていたし、スタバでカフェラテを飲み、そしてマックでアイスティーを飲む。お茶飲み過ぎだ。頼んでしまってから思い出したのだが、マックのお茶は不味いので頼んではいけない。結局かなり残してしまって、発車時間がようやく近づいてきたのでキオスクで翌日の朝食を確保してからホームに向かう。ここにもカメラ小僧がいるなあ。
雨の影響か少し遅れて到着、個室寝台車に乗り込む。「北斗星」の個室は何度も乗っているが九州特急の個室は初めてだ。三十一の個室は下段。「北斗星」の個室とは構造はかなり似ているが、窓際に座ろうとするとテーブルが足につかえて邪魔である。もう11時も近いが、さっきまでずっとお茶を飲んでいたのでまずトイレに行き、帰ってきてPCを開いて当日の行程を簡単にメモしたりしているうちにバッテリーが早くも怪しくなってきたので適当に切り上げる。もう放送も終わってしまったので寝てしまおう。

夜中の3時にやはり尿意に襲われて起き出す。お茶の飲み過ぎには注意しましょう。窓から車外を見る。新幹線とおぼしき高架橋が見えた。それからしばらくの間外を見ていたがどのあたりを走っているのか見当がつかない。いくつも駅を通過するのだが駅名が読み取れない。それほど都会というわけでもないが田舎というわけでもなさそうだ。電車区らしいものがあり何本もの電車が留置されているんだが、果たした何区だろう。岐阜とかかなあ、でもこんな電車区あったかなあと思っているうちに目に入ったのが転車台と扇形機関庫と「梅小路」の文字。おや、京都ですかい。思いの外進んでいなかったのだね。てことは、さっきの車両基地は向日町だったと見える。京都駅を通過すると山科に向けてトンネルに入る。これから逢坂越えでトンネルになるのがわかっているのでまた寝てしまう。

翌朝、放送があって起きたのは浜松の手前。天気はいいらしい。二度寝したりしているうちに静岡も過ぎて富士に近づく。このあたりでは海側が通路、つまり個室は山側を向いているのだが、雲がかかっていて富士山は見えなかった。丹那トンネルを抜け熱海を出たところで廊下に出、海を眺める。写真撮影の名所、根府川橋梁も転落防止フェンスのせいで眺望がきかず興醒め。小田原を過ぎたところでまた自室に戻って荷物の整理などはじめていると、茅ヶ崎を過ぎたあたりでなぜか停車。放送によるとこの先の踏切で非常停止ボタンが押され停車したとか。さらに追加情報では踏切に人が倒れているとか。救急車や消防車が集まってきて何やら作業を行なっている気配。「救護作業」を行なっているとか言ってるけど、事実としては「搬出作業」でないのかねえ。野次馬根性を出して前のほうにいってみると、実際に何か見えたわけではないがあの踏切だとすると位置関係からして機関車の先頭は踏切にかかっているはずだ。ああ、関係ないけど牽引機はEF6643だ。初日に三十一が乗った「はやぶさ・富士」を牽いてた機関車だね。戻ってくる途中、「何かにブルーシートをかけている」という声が聞こえた。やっぱり、"下山"しちゃったわけだなあ。
結局、45分ほど遅れて列車はようやく動き出した。動き出した列車の中から見てみると、消防隊員やら警察官やらがブルーシートを持って"何か"を隠していた。ダイヤ通りなら9時58分に到着するはずの東京駅に、10時45分に到着。

11/28~29の旅程:
博多(0825)→小倉(0917) 3007M
小倉(0924)→門司港(0938) 2536M
門司港(1036)→小倉(1049) 4327M
小倉(1057)→広島(1149) 458A
広島(1228)→呉(1303) 5632M
呉(1600)→広島(1639) 3943M
広島(2237)→東京(1045) 1レ

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2008年11月27日 (木)

今来たこの道帰りゃんせ

昨日の記事で「白いかもめ」を883系と書いていた。正確には885系。こっそり直しておきました。

ホテルをチェックアウトすると駅のコインロッカーに荷物を放り込む。今日の午前中は佐世保に来た第一の目的である海上自衛隊史料館に行くのだ。開館が9時半なのであまり早く出てもしょうがない、9時ごろ駅から歩き出す。タクシーに乗ってもよかったんだが、少し肌寒いくらいの歩くにはちょうどいい陽気だし、そんなにわかりにくい道でもなさそうなので歩くことにした。駅の反対側に出ると目の前は海。ただし海自の岸壁はフェリーターミナルの向こうでよく見えない。広い道の歩道をのんびり歩く。ふと見ると旧松浦線、現松浦鉄道の高架橋が見え、ディーゼル車が走っていった。時刻表調べてあれに2駅くらい乗ってもよかったんだと、そのとき初めて気づく。もう手遅れだ。橋で川を渡って公園に入る。川沿いは市立の公園だが、その隣は米軍の保養施設で「許可無く立ち入りを禁ず」と書いてある。ちょっとビビったがみんな平気で入っていくので有名無実なんだろう。この「ニミッツパーク」を横切って道路に出ると、今度はまた違う看板があり「自衛隊佐世保病院」とある。これが山本五十六が日本海海戦で負傷した後に一時入院していたという佐世保病院か。もちろん建物は新しくなっているに決まっている。

佐世保史料館に到着したのは、9時39分。入館時刻を記入させられたので1分単位で判明している。展示の感想は記事をわけよう

史料館を出たのは12時半ごろ、約3時間ほどいたことになる。今日は午後から雨になるという予報だったが、まだ雨が降る気配がないので駅に向かって歩くことにする。行きとは違うルートをつかって、30分かからないくらいで駅に到着。ちょうど15分くらいあとに博多行きの特急が出るのがわかったので昼食を買い込んで乗り込む。次の停車駅、早岐で進行方向が変わることがわかっているので座席は後ろ向きだ。みんなわかっているので大人しく後ろ向きに座っている。早岐が進行方向が変わるのは、かつて長崎本線は以下昨日も説明したので省略。
佐世保線はほぼまっすぐ佐賀方面に向かう。すぐに低い峠を越え、佐賀県に入ると有田。接続する松浦鉄道の列車が遅れているとかで少し待たされる。5分ほど遅れて発車。武雄温泉に向かう。車内の電光掲示板での英字表記が「TAKEOONSEN」となっており、Oがダブっていて日本語離れして見える。このあたり、確かに山がちではあるのだがそんなに極端な急勾配があるようには見えない。無理して今の本線を作る必要があるほどの隘路であったとは思えない。トンネルもそれほど多くないしね。肥前山口に到着すると、長崎からの「かもめ」と併結して1本の列車となって博多に向かう。長崎本線の海沿いの部分では、下り列車で左側、上りでは右側が海になるのでもっぱらそちら側の窓際に座ってきたのだが、ここから先の(というか、起点方向の)長崎本線では海はまったく見えない。どちらに座ってもそんなに変わらないので、敢えて反対側に座ってみた。こちら側に座ったことによる最大の収穫は、例の吉野ヶ里遺跡を車窓から見れたこと。まあこのあたりは昨日も来た道。鳥栖から先の鹿児島本線は一昨日来た道。あまり車窓を熱心に観察する動機が生まれにくかったのだが、ひとつだけ、原田駅だけは気にして見ていた。一瞬の通過ではあるが「はるだ」の駅名標を確認する。

博多に到着すると荷物をコインロッカーに放り込んで、約30分後の快速電車で今来た道を逆戻りする。やはり一日に一度は非電化区間を乗りたいということで、筑豊本線のうち非電化で残ってしまった区間(のひとつ)である桂川~原田間、通称"原田線"を乗車しようというのだ。実はこの区間は極端に列車本数が減ってしまって、乗れるときに乗っておかないと次にいつ乗れるかわからない。今回の旅行ではかなり優先順位の高い路線だったのだ。かつては特急が走っていたこともある路線なのだがねえ。もっとも、今日は佐世保の史料館でどのくらい時間がとられるかわからなかったのでスケジュールは確定していなかった。佐世保で思いの外タイミングよく特急に乗れたので、博多まで行ってしまっても間に合うようになった。いったん博多まで行ったのは、大きな荷物をコインロッカーにしまって身軽になるため。今夜の宿は博多だ。

813系の快速電車で原田までは4駅、約20分。原田駅では駅の片隅にキハ31ディーゼル車が1両ぽつんと停まっている。このホームは2面の番線の間に高さのギャップがある。いわゆる電車ホームと汽車ホームのコラボレーションですね。こうして見ると30センチくらい段差があるんだなあ。約7分の待ち合わせでディーゼル車は発車。かつては筑豊本線と鹿児島本線は線路がつながっていたはずだが、まあ今でも厳密に言うとまだつながってるんだろうがその渡り線はさび付いていてしばらく使われていない様子だ。北側にむかって発車すると、おもむろに右にカーブして鹿児島本線から離れる。むこうは電化複線、こちらは非電化単線だ。少し高度をあげ、バイパスと西鉄を乗り越す。筑前山家の駅前には錆が浮いた路面電車の車両が2編成置かれていた。西鉄か何かで使われていたものかなあ。ここから一気に峠越えにかかる。冷水峠だ。それほど山深いという景色ではないのだが、かなりきびしい上り坂であることがわかる。峠を登り切ったのか、エンジン音が少し緩んだと思うまもなくトンネルに突入。冷水トンネルはとんでもなく長い。抜けるまで少なくとも数分はかかっただろう。調べてみると3286メートルあるらしい。このあたりから雨が降り始める。飯塚市内に入った筑豊本線の沿線は、確かに市街地というわけではないが寂れているというほどでもない。この区間にある駅はすべて行き違い設備が撤去されており、ホームの片方は草むしている。かつての名残か自動信号が設置されて機能しているのだが、実際には原田~桂川間は1閉塞として1本の列車が往復するだけになっている。左側から電化された線路が近づいてきて合流すると桂川。ここから先、折尾までの筑豊本線と、いま左から合流してきた篠栗線はともに電化されて一体化された福北ゆたか線として運用されている。

福北ゆたか線は、北九州地区と博多を結ぶ路線として機能している。これまでその機能を負ってきた鹿児島本線のバイパスであるとともに、従来もっぱら北九州地区との結びつきが強かった筑豊地域を博多と結びつけることで再活性化をはかろうというもので、JR九州はこれまでいろいろと興味深い施策を行なってきたがもっとも重要な施策のひとつだと言えるだろう。もっとも、鹿児島本線のバイパスとしては実際には機能していない。単線区間が多いせいだろう。距離的には鹿児島本線が約50キロ、福北ゆたか線が約60キロ。

桂川では1分で接続する快速をいったん見送り、駅舎の写真などを撮ってから9分後に博多に向かう813系普通列車に乗り組む。えーと、この篠栗線もこれまで乗ってきた区間に負けず劣らず山の中なのですが。やはり博多に直結しているか否かが運命をわけたのだろう。だって、あれダムじゃない? 雨のせいでよく見えないけど。筑前山手駅なんて街が真下に見えるんですけど。ところで、今乗っている電車は813系。最近整備されている817系ではなく少し古いタイプになる。やはり817系は快速優先かな。これ普通だし。813系電車に初めて乗ったのは一昨年の九州旅行、鹿児島から川内までの区間だが、そのとき気づいたマークが今回の電車にもあるのを発見。

Pb270041

2時間弱の間に3本の列車を乗り継ぎ、ほぼ二等辺三角形の旅をして再び博多に。先にも書いた通り今夜はここで泊り。

今日の旅程:
佐世保(1308)→博多(1453) 4016M~2024M
博多(1524)→原田(1549) 4351M
原田(1556)→桂川(1624) 6626D
桂川(1633)→博多(1714) 2653H

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2008年11月26日 (水)

東の端から西の端へ

昨夜泊まったホテルの目の前の道路で工事が始まって、これは寝られないかもしれないと思ったが、実際にはほとんど一瞬のうちに眠ってしまったらしい。疲れていた、というか体調が悪いんだね。

昨日は豊肥本線で西から東に九州を横断したが、今日はもうひとつの九州横断線、久大本線で再度西へ向かう。久留米と大分を結ぶという意味で久大本線と呼ばれている路線だ。博多行きの特急「ゆふ」は最近供用が始まった高架ホームから発車するらしい。改札を入り、いったん地下道に下りて一番奥のホームにあがる。そのホーム自体は列車の発着には使われていないらしいが、そこからさらに階段を上がって中二階のコンコースに出、もう一階上がって目的の高架ホームとなる。今日の「ゆふ」に使用されているのは昨日乗った「九州横断特急」と同じキハ185の3両編成。どっちが景色がよいのかわからなかったのだが、1両目の自由席に乗り込んでみるとすでに先客があって、右側先頭の座席を占めていた。先を越されて気づく、この席からは前方が非常によく見える特等席なのだ。左側では運転席が邪魔になる。それにつられて、三十一も何列かうしろの右側窓際に席を占める。実はこれは失敗でした。

いったん東向きに発車し、大きく右にカーブして西に向かう。いやあ、線路の上に架線などという邪魔者がいない路線はいいねえ。だから三十一は北海道が好きなのかもしれない。なにしろ北海道のJRの大半は非電化単線だ。閑話休題。南大分駅を過ぎると市街地から外れる。ちょうどそのあたりで高速道路をくぐる。豊後国分という、国分寺跡がほど近いという駅にとまったが、かつての豊後国の中心地も今は見る影もない。これから由布院方面に向け、大分川に沿って高度を上げていっているのだが、どうも川はずっと進行方向左側を流れているらしい。右側の席からは川面はほとんど見えません。無念。そのうち反対側に渡るかもしれないなどという虚しい期待は虚しいままに終わった。ひとつ峠を越えて由布院盆地に入ってきたのだが、かなり濃い霧。前方にかすかに由布岳らしき影が見えるのだが、ほとんどわかりません。これなら右側に座っていようが左側に座っていようが関係ないとわずかに溜飲を下げる。
由布院を過ぎたあたりで、右手に大分自動車道の忌々しいコンクリートの塊が見えてくる。実は大分自動車道は、久大本線にほぼ並行しているのだ。ああ忌々しい。やがてちょっとした盆地と市街地が現れる。日田だ。日田は江戸時代に九州の要として幕府の天領になっていたことで知られる。九州北部のほぼ中心に位置する日田は、大身の外様大名たちを牽制するのに格好だったのだろう。日田から2駅、夜明駅で日田彦山線が分岐する。どうしてここに分岐を持ってきたのかわからないくらい、何の変哲もない山間の小駅。純粋に地形上の問題かな。

夜明駅は大分県最後の駅。福岡県に入ると、一気に視界が開ける。筑後川が形作る筑後平野の、もっとも奥地になるらしい。遠景には山が見えるのだが、少なくとも線路のまわりは平地になった。乗っていてわかるような勾配も感じられなくなった。晩秋の、あるいは初冬の日本の農村の風景。薄茶色の、あるいは焦げ茶色のモノトーンの中に鮮やかなコントラストを示すのは、柿の実のオレンジだ。

久留米に近づくにつれ、市街化が進んできた。豊肥本線の熊本側と同じように、そうね、筑後大石駅あたりまで電化して電車を走らせればペイしたりしないかね。三十一の個人的な趣味としては電化してほしくないけど。九州新幹線の躯体が見えてくると、鹿児島本線と合流。しばらくは並行して走っていたが、駅の直前で本線を横断して鹿児島本線の上り線に入って久留米に停車。ちょうど同じタイミングでED76に牽かれた下り「はやぶさ」が入ってくる。昨日はあの列車に乗っていたわけで、ちょうど24時間かけて一周してきたことになる。もっとも、昨日の「はやぶさ」から見た「ゆふ」は黄色いキハ75だったけど今日は四国のお古のキハ185だ。電化複線の鹿児島本線を博多方面に走る。左側には九州新幹線の高架橋がのしかかるように走っている。筑後川を渡り、高架橋が離れて見えなくなったかと思うと鳥栖に到着。ここで「ゆふ」を下りる。

鳥栖駅には西側にしか出口がない。巨大なサッカースタジアムがある東側には、自由通路というか歩道橋で線路を越える必要がある。三十一もその歩道橋を渡る。サッカースタジアムではなく、線路のすぐ横に保存されている230形蒸気機関車268号の写真を撮るためである。これって、いわゆるA8かな。

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30分ほどあとの「かもめ」で長崎方面へ。3度目になる白い「かもめ」だ。この車両自体は好きなんだが、手入れがよくないと白いだけに汚れが目立つんだよなあ。真っ白だったら本当に綺麗だろうに。うーむ、模型が欲しくなってきた。平日の昼前とあって、車内はビジネスマンが多い。かろうじて左側窓際にありついた。長崎本線では海はずっとこちらである。佐賀につくと、車内はかなり空いてしまった。佐賀というとあまりイメージがよくないが、それなりにビジネスのタネはあると見える。このあたりまではほとんど平地で885系の振り子機能は宝の持ち腐れだが、肥前鹿島を過ぎたあたりから山が海岸に迫ってきて、線路は海岸沿いに左右し885系もその身を揺らして力走する。左手は遠浅の有明海。海苔養殖とおぼしき棚が海面に浮かぶ。やがてその海も見えなくなり、ひと山越えると諫早。ここで下車する。

ここまでは予定通りだが、ここから先の予定は確定していない。オプションはふたつ。まずひとつは、ついに島原から先が廃止されてしまった島原鉄道を往復して、それから今夜の宿泊地である佐世保に向かう。そしてもうひとつは、ここから長崎までの長崎本線のうちいまやローカル列車しか走らない非電化の旧線を制覇し、それから佐世保に向かうというプラン。どちらかに決められなかったのは、旅行に持ってきている携帯時刻表に島原鉄道の情報がほとんど載っていなかったせいだ。現地に来て島鉄のダイヤとか所要時間を見て決めようというわけである。諫早駅には、島原鉄道の発車時刻表はあったが所要時間がわからない。幸いなことに旅行センターがあったので備え付けの大型時刻表で調べてみると、諫早から終点島原外港までおよそ1時間。往復で2時間といったところだが、終点まで行く列車が意外に少ない。今からだと最速で帰って来るのは16時前。それだと、次の佐世保行きが17時過ぎになってしまう。大村線快速にはシーサイドライナーというニックネームがついているのだが日が暮れてからでは意味がない。というわけで島鉄プランは却下となり、長崎旧線プランが採用と相成った。

まずは長崎行きの電車に乗り込む。これは電車であって、新線を経由する。分岐となる喜々津駅で旧線を行くディーゼル車に接続するのだ。どうせ2駅だから立っていてもいいんだけど、席が空いていたので座る。そこそこの乗車率で発車。ところが次の西諌早駅について思わずのけぞった。ホームが制服姿の高校生で埋まっているのだ。どっと乗り込んだ高校生でいきなり車内は阿鼻叫喚。まだ昼過ぎなのになあ。期末試験にはまだ早いよね。乗り換えとなる次の駅で降りられるかどうかも不安だったが、喜々津駅では高校生もかなり降りていったのでそれに混じってホームに下りる。高校生たちは跨線橋を渡ってぞろぞろと乗り換えて行く。あれについて行けばいいんだろうなあ。絶対に席にはありつけないと覚悟していたんだが、奇跡的に右側、つまり海側の席にありついた。

喜々津駅を発車してすぐに右にカーブし、海岸沿いに出る。すごいぞこれ。まるで海の上を走っているようだ。新線が開通するまでは、夜行特急「さくら」も、昼行特急「かもめ」もこの景色を見ながら走っていたんだなあ。輸送力増強のためとはいいながら、この景色がほとんど見られなくなってしまったのは残念なことだ。廃線にならなかっただけよかったとも言えるけれど。大草までは海岸に張り付くように走っていた線路が、大草駅を過ぎると急激に高度を上げていく。あからさまにディーゼルエンジンの音が高くなる。谷を峠に向かって登っていく線路の、向かい側の斜面は一面のみかん畑だ。筑後平野で見かけた柿とは違う色合いのオレンジの実。峠をトンネルで越えると今度は下り。下り勾配の途中に本川内駅がある。ここは近年までスイッチバックだったが最近設備が撤去された。本線上に新たにホームが設置されているが、かつて使われていた線路には線路止めが置かれ、ホームは草むしている。旧ホームの駅名標の、駅名板だけが取り外され、外枠の鳥居部分だけが残されてぽつんと立っている風景は何とももの悲しい。この急勾配があったせいで内陸部に新線が建設されたんだけど、現代の電車にはこの程度の勾配は屁でもないはずだ。

長与駅で高校生はほとんど下りてしまい、次の高田駅ではホームに掲示されていた病院の広告看板に誤字を見つけてしまう。「長崎県西彼杵群」って何さ。西彼杵郡だろうに。群れてどうする。浦上で電化の新線と合流する。非電化よさらば。ほどなくして長崎。

長崎で昼食を摂り、佐世保に向かう快速に乗り込む。長崎方面から大村線に入る列車は、大村線が非電化なので当然ディーゼル車だ。せっかくディーゼル車だから、ということかもしれないが各駅停車は長崎線内は旧線を経由する。ところが快速列車は新線経由なのだ。「快速」だから早いほうで、という意図はわかるが「シーサイドライナー」という名前なんだから海沿いの旧線を通ってほしかったなあ。この名前は大村線が海沿いを走ってることからつけたんだろうけどね。長崎から諫早までは扉脇長手のロングシートに座っていたが、諫早でだいぶすいたので海側の窓際に座り直す。諫早駅構内はほぼ南北方向に線路が走っていて、本線たる長崎本線は駅を出ると大きく右に曲がって鳥栖方面に向かい、分岐であるはずの大村線がほぼまっすぐ北向きに走る。実は、今の大村線がかつての長崎本線だった。そのためにこういう線路配置になったのだろう。鹿児島本線からの分岐点、鳥栖から長崎まで最初に線路がつながったとき、明治31年の長崎本線は肥前山口から現在の佐世保線に入り、武雄・有田を経て早岐から現在の大村線に入り、大村湾沿いを南下して諫早に至りそこから長崎に向かっていたのだ。現在の有明海沿いの長崎本線がすべて開通したのは実に36年後の昭和9年である。

諫早を出た列車は、またも非電化の大村線に入る。大村、竹松、川棚などなじみのある地名が続く。大村はかつての海軍航空隊の所在地で現在でも陸自駐屯地や海自第22航空群などが所在する。竹松には陸自の駐屯地があり、川棚はかつて川棚海兵団が置かれた(佐世保第二海兵団と呼んでいた時期もある)。そしてこの列車の終点は佐世保である。説明不要な日本の海の護りの西の要だ。しかし車窓からは大村湾は見えるがそれらしい施設は見かけることができなかった。わずかに大村付近ではるかに点のようなヘリコプターが一瞬見えただけである。AH64みたいに見えたけど、SH60だろうね。

ハウステンボス駅につくと、またもや頭上に無粋な架線が現れる。ホームの目の前は川と見まごうような針尾瀬戸。その向こうは針尾島で、何度も見たことのある、しかし実見するのははじめてのハウステンボスが広がっている。正直三十一には何が楽しいのかわからない。まあ需要があるところにはあるんだろうね。早岐駅で佐世保線と合流。駅構内は非常に広い。ここにも大きな機関区があったはず。終着の佐世保駅は近代的な高架駅になっていた。ホームから港が見え、沖がかりしている自衛艦が目に入った。「はつゆき」型の練習艦だねえ。なんで練習艦だとわかるかと言えば、艦首に描かれている艦番号が4桁だったから。具体的な番号まではわからなかったけど、護衛艦に残っている「はつゆき」型の艦番号は3桁だから、練習艦に移籍された艦だということはわかる。なんで「はつゆき」型だとわかるかと言えば、それはもう「見ればわかる」としか説明しようがない。

本日の旅程:
大分(0818)→鳥栖(1049) 82D
鳥栖(1120)→諫早(1236) 2017M
諫早(1310)→喜々津(1318) 829M
喜々津(1328)→長崎(1410) 5135D
長崎(1511)→佐世保(1700) 3238D

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2008年11月25日 (火)

解答の時間です。

正解は1でした

一番最初の予定では金曜の夜あるいは土曜の夜、その次の予定では日曜の夜に出発するはずだったのが、日曜はどうにも調子が悪く、結局一日遅れの月曜夜出発となった。

雨の東京駅、廃止まであと半年を切った「はやぶさ・富士」だが、聞くところによると廃止の前提だった静岡空港の来年春の開港があやうくなったとかいう話で、それでも予定通り廃止されるんだろうか。それはともかく、先頭の牽引機EF66の周りには黒山の人だかり。乗車率も比較的高く、三十一が確保した寝台の向かい合わせの上下4席はすべて埋まっていた。三十一は上段に追いやられた。
食べ物がないことはわかっているので、夕食は東京駅で済ませ、朝食をキオスクで買い込んで乗車。早々に自席(上段)に上がってしまうと外が見えないので、通路の折りたたみ椅子を出して座り込む。熱海を出、丹那トンネルに入ったのを機に上段に上がる。しばらく音楽を聴きながら本を読んでいたが、浜松を過ぎたあたりで眠くなってきたので寝ることにする。まだ11時前だったけど。

翌朝、広島あたりで目が覚める。そのあともしばらく寝台上で横になっていたが下関が近づいてきたので着替えて起き出す。下関着。カメラを持って先頭へ。ありゃ、ここでも人だかりだ。切り離される直前のEF66をカメラに収める。

Pb250027

戻るとまもなく発車、関門トンネルをくぐって2年ぶりの九州。門司ではまた牽引機が替わる。EF81からED76へ。EF66は「はやぶさ・富士」をまとめたヘッドマークだったが、こちらは「はやぶさ」単独となる。後ろのほうでは、大分へ向かう「富士」が切り離される。まず幌がたたまれて通路が閉じられる。電磁直通ブレーキのジャンパが切り離され、ブレーキ管が外されて、連結器のロックが解除される。こうして1本の列車は2本の列車となり、三十一が乗る「はやぶさ」が先に熊本に向かう。

車内はだいぶすいてきた。ま、急ぐんならソニックにでも乗り換えたほうが早いしね。見ると、隣のブロックがまるごとあいていたので荷物を抱えてそちらにうつる。ED76牽引の貨物列車とすれ違う。ああ、EH500を目撃できないかなあと思ったけど結局見かけなかった。博多を過ぎると車内は空気を運んでいるようである。その後しばらく気を失っていたらしく、ふと気づくと鳥栖。最近はサッカーが売りらしいがもともとは鹿児島本線と長崎本線が分岐する鉄道の町で、九州でも最大級の機関区が所在していた。少し離れたところに巨大な橋がかかっている。どうも九州新幹線らしい。
しばらくすると福岡と熊本の県境の、と言いたいところだが熊本県に入ってしばらくしたところに山越えとなり、ふと通過した駅を見ると田原坂である。そこで思い出すのは今を去ること30年近く前、急行「阿蘇・くにさき」「雲仙・西海」が廃止される直前の夏休みに初めて「阿蘇」に乗って熊本に来たときのこと。昔から同じことをしてるんだなあ。そのころは単に山の中だとしか思わなかったけど、成長した目で見ると攻めにくい地形である。峠を下るとまたもや右側から新幹線が近づいてきて、熊本。熊本駅はまだ地平だが、新幹線が開業するころには高架になってしまうかもしれない。次の列車まで2時間ほどあるので、九州のガイドブックを入手してから昼食を摂る。

熊本から九州横断特急に乗り、豊肥本線経由で大分に向かう。九州横断特急にはやはり2年前、人吉から八代まで乗ったのだがこの区間では乗っていなかった。そして豊肥本線はやはり30年近く前に乗っているのである。そのころはまだ豊肥本線には特急は走っておらず、キハ58系(と思われる)の急行「ひのくに」に乗ったと思う。はっきり覚えていないが、5時間くらいかかっていたかもしれない。豊肥本線のうち熊本寄り、肥後大津までは電化されて通勤通学路線となっている。ちょうど学校がひける時間帯らしく、通過する、あるいは停車する駅のホームは制服の高校生で埋まっている。三十一も昔はこんなだったのかなあと思うと忸怩たるものがある。電化区間の終点、肥後大津の駅前には有名なビジネスホテルチェーンのホテルが建っていた。需要あるのかなあ。

肥後大津を過ぎると、阿蘇の外輪山に向かって急激に高度を上げていく。キハ185のエンジン音もひときわ高くなってきた。やがて立野。スイッチバックで有名な駅だ。30年前にはキハ58の窓から顔を突き出してスイッチバックしていく先の線路を見上げたものだが、もちろん今はそんな芸当はできない。一気に外輪山にとりつき、それまで並行していた道路がはるか下方に見下ろせる。やがて右手に阿蘇の山々。一時よくなって来ていた天気がまた少し曇りがちとなり、空とのコントラストが弱くなってきているので撮れないかもしれないと思いつつカメラを取り出すとちょうど電池切れ。その時は、どうせうまく写らないだろうと思ってあっさり諦めたのだが、しばらくすると距離が縮まったのかくっきりと見えるようになって来たのがちょっと残念。宮地を出ると阿蘇カルデラを東に抜けることになる。立野のような外輪山の切れ目がこちらにはないので、つづれ折りとトンネルで越えていく。

熊本から大分への分水嶺を越え、これまで登ってきていた豊肥本線は下りに転じる。この先それほど見所があるわけではないはずなので、目を閉じて寝に入る。しばらくうとうとしていたが、PHSがメールを受信したバイブレーションで目が覚めた。やれやれ、会社からだよ。返信のメールはすぐ書けたのだが、ちょうど圏外になってしまって送信できない。そもそも、うけとったメールも送信時間から実際に受信するまで30分近くかかっているようだ。たまたま駅近くになって受信できるようになったのかな。大きな駅に到着し、アンテナが立ったところですかさず送信。その後、線路が大野川に沿って走るようになる。球磨川沿いの肥薩線もよかったけど、この景色もわりといいね。予想外の収穫である。時刻はそろそろ5時に近いが、窓の外はまだ明るい。考えてみれば、東京と比べて経度にして6度か7度は西にあるはずで、そうすると20分から30分ほど日没が遅くなるということだ。もともと5時には暗くなることを織り込んで計画していたのだが、少し変更が必要になるかもしれない。自由度が高くなる方向への変更なので歓迎だ。

ちょうど日が暮れた頃に大分駅到着。基本的にはまだ地平なのだが、一部高架ホームの供用が始まっているらしい。この時期に来ることができてよかったのだな。

昨日から本日にかけての旅程:
東京(1803)→熊本(1149) 1レ~41レ
熊本(1436)→大分(1728) 1076D

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2007年11月 1日 (木)

バタデンと神社

今夜の夜行列車で東京に帰ることにする。理由は明白で、NFLの録画予約が明日の昼のぶんまでしかできていないためだ。夕方からのぶんは、ケーブルテレビのチューナーの予約が満杯で予約しきれなかった。まあ、頃合いかもしれない。そろそろ体力的にも辛くなってきた。

今日も今日とて、さらにさらに起床が遅くなっている。ホテルを出、松江駅のコインロッカーに荷物を放り込む。かぎをしめ、小銭入れをポーチにしまって変なことに気づく。今夜の帰りの指定券がないぞ。昨日買ったあと、このポーチにしまったはずなのだがなあ。そういえば、今朝の荷造りのときに細かいパンフレット類を旅行鞄の中に突っ込んだ記憶がある。さてはあの中に紛れたか。確認しようにも、もう鞄はロッカーの中。それだけのために閉めたばかりのロッカーを開けるのは馬鹿馬鹿しすぎる。部屋を出るときに指差確認したから、ホテルに忘れてるってことはまずないはずだ。ここは予定通り行動して、戻ってきたときに確認しよう。少し早めに戻ってきて、もし見つからなかったらそのときに対策を講じればいい。

ある意味では今回の旅のメインエベントになる一畑電車を今日一日で全線走破する。先日の銚子電鉄に続く地方ローカル私鉄の旅だ。縁起でもない言い方になるが「なくなる前に乗っておこう」というものである。「くりでん」と「鹿島鉄道」は乗り損ねたしなあ。松江駅前からバスに乗って、一畑電車の始発駅「松江しんじ湖温泉」へ。昨日、循環バスの上からこの駅は見ているのだが、改めて駅の写真をとる。ところが、次の電車まで20分近くあるのだ。今回もってきた「小型全国時刻表」にも、こちらで買った地域版の時刻表にも、一畑電車のダイヤは掲載されていない。昨日のうちにネットで調べておこうと思っていたのだが、睡魔に負けて寝てしまった。だいたい、今朝は咳が止まらず体調最悪。今日が最終日でよかった。

二両編成のワンマン電車はたぶん西武か東急あたりのお古だろう。始発駅を発車した電車はすぐ宍道湖の北岸に出る。対岸には山陰本線が走っているはずだが、はるかにかすんでとても見えない。宍道湖の景色にも飽きてきて、持参の文庫本など読んでいるうちに気づけば一畑口に着こうとしていた。この一畑口では進行方向が変わる。と言っても、これまでほぼ真西に向かって走っていた列車が北向きに進路を変えたかと思うと、そこが一畑口の駅になり、そこから南に向かって発車した列車はまたもや真西に向かって走り始める。これはかつて一畑口から北に向かって一畑薬師まで線路がつながっていた名残だが、ずいぶん昔にこの路線は廃止されてしまった。しかし今日も相変わらずここで向きを変えているのである。このあたりから宍道湖はほとんど見えなくなった。雲州平田を経て、出雲大社方面への分岐駅である川跡(かわと)に到着。これまで乗ってきた電車はそのまま終点の出雲市へ向かう。しかし、一畑電車で始発の松江から終点の出雲市まで乗り通す人はいるのかなあ。支線になる川跡~出雲大社前の間は基本的にピストン運転らしい。ここで三十一と一緒に乗り換えたのはほぼ全員が出雲大社を目当ての観光客に見受けられる。乗っていたのは10分ほどだろうか、出雲大社前に到着。

帰りの電車の時刻を確認しておいて、出雲大社方面に歩き出す。のんびり歩いても10分ほどで境内へ。そこから拝殿や本殿といった主要建造物まではさらに10分。この参道の砂利道はきれいに掃かれていて歩きやすいなあと思ったら、よく見たら下にマットが敷いてあるんでした。拝殿が見えてきたところで、太鼓や笛の音が聞こえてきた。どうもお祓いをしているようだ。ちなみに三十一は神社に来ても普通参拝はしない。それなりの礼儀は払うが、自己の良心に反することはしたくない。形だけの参拝はかえって不誠実だとも思う。上着のポケットから何かの時のお釣りだった小銭が出てきたので、それを賽銭箱に放り込む。礼も拍手もせずただ放り込むだけだ。宗教心はないが、こういった歴史的施設の維持費の足しになればいいと思うので、参拝しないこととは矛盾しない。本殿の遷宮のための浄財をつのっていたのに、幾らか払ってもいいとすら思ったくらいだ。一口千円と言われたのでやめたけど。しばらく拝殿を眺めていて、そういや肝心の本殿はこの後ろのはずだなあと思いついた。ここからでは見えなかったので気づいていなかったのである。裏に回ると本殿が見えた。本殿そのものは塀で囲まれていて、さらに手前に別の建物があるのかわずかに屋根が見えるくらいである。これじゃあなあと思ったけど、後ろにまわったほうがよく見えるかもしれないと塀の周りを一周すると、明らかに横とか後ろのほうが見やすい。あまり同じことをしてる人はいないけど。

その後、少し離れたところのバスターミナルに行ったのは、あわよくば日御碕神社まで足を伸ばそうと思ったからだけど、バスの本数がかなり少ないので断念した。少し時間があまったので、出雲大社の反対側にある古代出雲歴史博物館なる施設を見物することにした。あまり期待していなかったのだが、思ったよりも面白く、出雲大社本体よりも長い時間滞在していたようだ。その後、出雲そばなど食してから一畑電車の駅に戻り、いったん川跡まで戻ってから今度は電鉄出雲市方面の電車に乗り込む。川跡駅では両方向の電車に乗り継げるようにダイヤが組まれており、従って必然的にここで本線の電車がすれ違うことになる。つまり一時的に3本の電車が並ぶことになるわけだ。15分ほどで電鉄出雲市に到着。おそらくJRの出雲市が高架化するのに併せて一畑電車の駅も高架になったのだろう。一畑電車だけが地平で残ってたんじゃ効果が少ないからなあ。おかげでローカル私鉄には分不相応なくらい近代的な高架駅になっている。果たして誰が金を出したのやら。たぶん自治体だろうな。

一畑電車の駅とJRの駅は少し離れている。予定では一番近い特急やくもで松江に戻るはずだったのだが、どうも怪しげなアナウンスが聞こえる。やくもに乗る乗客は快速で松江まで行って乗り継げ、という内容だ。何があった? 駅でアナウンスを聞いてみると、どうも岡山あたりで事故があったらしく、伯備線のダイヤが大きく乱れていて折り返し上りやくもになるはずの下り列車が松江で打ち切られることになったようだ。出雲市で折り返す代わりに松江で折り返して、少しでも遅れを回復しようというのだろう。駅は少し混乱している。6両編成の特急に乗るはずだった乗客が2両編成の快速に流れたのだがら、座席はあっという間に埋まってしまった。三十一自身はどうしてもこの列車でなくてはいけないということでもないので、次の特急を待つという選択肢がないわけでもなかったが、この調子だと「次の特急」なんてものが予定通り来るかどうかもわからない。仕方ないので同じ快速に乗り込んだ。実はこの列車は、昨日宍道からの帰りに乗ったのと同じ列車なのだ。二日つづけて同じ列車に乗るのも芸がないと思ったので、やくもで戻る予定にしてたのだがなあ。結局この列車では、松江に着くまで立ち通しになった。

松江に着いてまずしたことは、コインロッカーから荷物を取り出して切符の確認。あったあった。これで東京まで帰れる。さて、帰りの列車が出るまでの3時間ほどどうやって時間を潰そう。まず考えたのは、どこかに本屋がないかということ。それなりの本屋があれば1時間や2時間は簡単に時間を潰せる自信(何の自信だ)があるし、帰りの列車の中で読む本を入手することもできるだろう。ところが、少し歩き回ってみたものの松江駅前にはそれなりの書店というのがないらしい。まったく書店がないわけではないけどね。駅前のデパートにも入ってみたが、書店はなかった。旅行で地方都市を訪れるたびに思うんだが、本屋のない街でよく生きていけるね。

結局本屋はあきらめ、イートインのベーカリーでサンドイッチとお茶の簡単な夕食。これは時間つぶしを兼ねているのだ。頃合いを見計らって土産物と列車の中で消費する飲み物と明日の簡単な朝食を仕入れ、ホームに上がって待つことしばし。登場したときから一度乗ってみたいと思っていた285系寝台電車、サンライズ出雲が到着。しかし残念なことに到着直前にまたもやデジカメの電池切れ。うーむ、しかしどうせ夜だからフラッシュなしじゃブレるしなあ。列車に向かってフラッシュをたくのはマナー違反以前に危険なのでやめましょう。与えられた個室は最後尾1号車の上段右側。これまで何度か個室寝台は使ったけど、上段は初めてだ。おなじく上下段になっている北斗星などのB寝台とこのサンライズが違うのは、上段下段それぞれ独立した廊下になっているということ。最近東京近郊でよく見る二階建てグリーン車と似た構造だ。従って室内に階段はない。検札が済んだところで部屋に鍵をかけ、着替えてくつろぐ。だけどこの状態だと外から丸見えのはずである。

サンライズのシングルは窓が幅広く、上下もそれなりに高い。非常に見晴らしがいい。しかし窓から外を見るためには、ベッドに座り込んで窓にもたれるしかない。長時間はつらい。いずれにせよ、外が真っ暗でとても景色なんて見れたものではない。窓ガラスがまるで鏡のようである。このままではせっかくの景色が宝の持ち腐れなので、室内の電灯を消してみる。これで外の景色が比較的よく見えるようになったが、そこまでしても外は真っ暗。なんだかんだ言って、日本の地方ってこんなもんだよなあ。やがて米子着。そういや、米子の少し手前に転車台があったけど、あれは生きてるのかなあ。すれ違いざまに見たかぎりでは、扇形車庫はからっぽ。使われていないようだ。米子でけっこう乗客が乗り込んでくる。松江で乗ったときには1両に5人くらいしか乗ってなかったから心配してたんだが。このあたりで6分遅れ。米子を出て少ししたところで日野川を鉄橋でわたる。ちょうど向かい側の下り線をEF64が牽引する貨物列車が走っていった。それほど長い編成ではないが、少なくとも連結されていたコンテナ車はほぼ満車。喜ばしいことだ。伯耆大山から右に曲がって伯備線に入る。伯備線はもちろん初めてだ。なんとなくだが、山陰本線と比べてスピードが落ちたような気がする。これまでにもまして窓の外は暗くなってきて、かなり目をこらしても景色が見づらい。しかし、かすかに目にとまった景色は、山あり渓谷ありとかなりバラエティに富んでいるようだ。やっぱり昼間に景色を見ながら通りたいなあ。やがて目に入った山中の小駅は果たしてどのあたりかと時刻表を見ると、島根県最後の駅であった。そこで改めて前方を見るとやがてトンネルに突入し、抜けたところは岡山県だ。備中神代では芸備線用と見られるディーゼルカーを見かけ、次の布原駅では下りやくもとすれ違う。このへんはSL時代の有名な撮影地で、夜に車中から見ても険しい地形が見てとれる。新見に到着したころには10分ほど遅れていた。この後はほぼ10分の遅れを保ったまま備中高梁を通過して倉敷から山陽本線に入り、岡山到着。岡山でサンライズ瀬戸と併結され、東京に向けて走り出したのもやはり10分遅れだった。その後上郡、姫路、三宮と停まっていく頃には日付が変わる。明日は東京着7時過ぎということなので、1時前には床につく。そうそう、個室内には「シェーバー専用」と注記のあるコンセントが装備されていたので、シェーバーじゃないけどデジカメを充電しておいた。寝る直前に室内の写真を何葉か。

いったん5時頃に目が覚めたがその後また二度寝して6時過ぎ、横浜到着前に放送で起こされる。外はもう明るい。片づけなどしてるうちに横浜に到着。夜中に遅れを取り戻したらしく、定時だった。しかし誰かが非常装置をいたずらしたとのことで発車は1分遅れた。東京到着もそのまま1分遅れ。荷物をかかえて通路に出ると、スーツ姿のビジネスマンがけっこう乗っていた。意外に使われているのかなあ。確かに、米子あたりを午後8時に出て、東京に朝7時には着けるのだから使いようによっては便利だろう。個室というのもあるだろうけど、やっぱり寝台列車も工夫次第でそれなりに需要は喚起できるのだよ。
Pb010057





昨日から今日の旅程:
松江しんじ湖温泉(1031)→川跡(1119) 一畑電車312
川跡(1120)→出雲大社前(1131) 一畑電車14
出雲大社前(1455)→川跡(1506) 一畑電車19
川跡(1511)→電鉄出雲市(1518) 一畑電車320
出雲市(1530)→松江(1608) 3454D
松江(1931)→東京(0708) 4032M~5032M

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2007年10月30日 (火)

ふたたびの城

なんだかだんだん起床が遅くなっている気がする。朝食をとって部屋にもどったら9時をまわっていた。米子駅の改札を入ったら、目の前でDE10が入れ換えをしていて慌ててカメラを構える。入れ換えてるのは何かの客車かなあと思ったが、よく見たらキハ181系の特急気動車だった。キハ181とキハ180の2両を引っ張っている。この説明でわかるひとはわかるだろうが、要するに片側はアタマがない状態なのだ。どうするんだろうと思って見ていたら、やがて牽機のDE10は離れていってしまい、そのうち片方にしか運転台のない2両編成は、運転台のほうを先頭にして(当たり前だ)走り去っていった。どういうことなんだろうなあ。バックできないから、その間だけDE10のお世話になったってことかな。

ついでにすぐ側にとまっていたEF64もカメラに収めたりしているうちに、下り列車がやってくる。岡山からやってきた「やくも1号」だ。381系も登場して30年以上になるけれど、三十一が乗車するのは初めてである。米子から松江まで、ほんの30分にも満たない間の乗車時間というのが少し残念なくらいだ。はじめは中海の海岸べりを走っていた線路だが、松江が近づくと宍道湖につながる大橋川が見えてくる。昨日の境水道を思い出すなあ。
松江駅も鳥取と同じ高架になっており、近代的ではあるが味気ない。

昨日の鳥取と同じく、松江にも循環バスがある。しかしこちらは一回200円で、観光客向けのコースだ。10分ほどで松江城の大手門前に到着。松江城は、市内の山に築かれたとはいうものの標高差はせいぜい数10メートル。外様の雄池田氏の居城であった鳥取城と違って、親藩の松平家が長らく支配した出雲松江城は実質的には平城と言っていいだろう。松江城の最大の特徴は山陰地方で唯一天守閣が現存していることだ。鳥取城なんぞ、江戸時代初期に天守閣が焼失して以後再建されなかったというのに。

二日つづけて城を見ているからどうしても比較してしまうが、まったく違う構造をもつ城を単純に比較してもしょうがない。とにかく本丸までのぼって下から天守閣を見上げる。中に入れるらしいのだが金が必要らしい。そこまでして高いところに昇りたいと思うほど馬鹿ではないと思うので昇らない。上がってきたのとは反対の本丸北門から降り、内堀の中に建てられている護国神社と稲荷社をのぞいてお堀端に出てくる。ところで、この神社の鳥居の前に建っている住宅はいったい何なんだろう。お城の中ですぜ。この神社の神職かなあ。

内堀のすぐ外側に建っている小泉八雲記念館、小泉八雲旧居、そして武家屋敷などをやはり外からみて、また循環バスを捕まえて駅前に戻ってきた。もう少し見所があるかと思ったのだが、三十一的にはもうおなかいっぱい。ちょうど昼を過ぎたくらいだが、午後をどうしよう。ここはやはり昨日思いついた計画を実行するか。周遊きっぷ「山陰ゾーン」にはバス路線も含まれているが、鉄道路線はJR山陰本線の鳥取~出雲市、境線・米子~境港、伯備線・伯耆大山~根雨、木次線・宍道~木次、そして一畑電車の全線。この中で当初から乗車する予定がなかったのは木次線である。この際だからここを乗り潰してしまおうというのがその計画である。

快速アクアライナーで宍道へ。この列車は益田までいく特急補完列車なのだが、30分ほどで下車。隣のホームにキハ120気動車が待っているので乗り換える。ぼつぼつ高校生が見えるなあ。正直、行きは半分くらい眠っていた。松江城に昇るのでもけっこう疲れたのである。最近体力がないなあ。40分ほどで木次に到着。走り去っていくディーゼルカーを見送り、改札を出て駅舎の写真を撮ったりしているうちに、ホームにすべりこんできたのは「トロッコ奥出雲おろち」であった。そうだった、ひょっとしたら見られるかもと思っていながら、今の今まで忘れていた。乗客がみんな降りていってしまったタイミングを見計らって、改札の中に入って写真を撮る。お仲間数名。
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駅のすぐ横にある木次鉄道部の基地に引き揚げたすぐあとに、宍道に向かう列車が入ってくる。今度はゆっくり車窓外を眺める。これまた懐かしい日本の田舎だなあ。一昨日見てきた先祖の地を思い出す。宍道に戻ってきてまたもやアクアライナーで松江に戻ってくる。途中、宍道湖畔を走っている。このあたりは電化と複線化という改善を経ているが、そのせいだろうが上下線がときどき大きく離れる。東北本線あたりでも見る線形だ。

松江に戻ってきて、そろそろ戻りの切符を確保しておいたほうがよかろうということで指定席を確保する。もし予定していた切符がとれなかったら、明日の行動に少し修正が必要になるところだったが、これでまるまる一日確保できた。

今日の旅程:
米子(0957)→松江(1020) 1011M
松江(1342)→宍道(1405) 3455D
宍道(1416)→木次(1454) 1449D
木次(1511)→宍道(1545) 1454D
宍道(1549)→松江(1610) 3454D

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2007年10月29日 (月)

城と海

今朝は昨日よりもっと遅く目が覚めた。今日は旅程に余裕があるだけに、切迫感がないのだろう。実は、余裕があるどころの話ではなく、今夜は米子に泊まるという以外何も決まってないのだ。鳥取から米子までは特急で1時間弱。その他はまるまる空白なのである。本来なら(普通の観光客なら)鳥取を訪れればまず砂丘、というところなのだろうがそこは三十一のすることである。砂丘に行って自分が何をするかまったく想像できない。つまり行って見たいものなどないということだ。天気もよくないし、違った方向で考えよう。ひとつ目についたのが、街の北にそびえる鳥取城である。石垣以外何も残ってないようだが、池田家が長年因幡伯耆両国を支配した拠点だけあって、それなりの規模はあるだろう。さて、では駅からどうやって城まで行くか。タクシーかバスかそれとも歩きか。駅の観光案内所でバス路線を研究していたら、100円循環バスというのがあって、このうち1系統で城のすぐ下までいけるらしい。20分に一本という比較的頻度の高い運転をしているそうなので、これで行って帰ってくるのがよかろう。

バスに20分ほど揺られて城跡の公園前で降りる。降りた目の前がすでに堀になっていた。左手は県立博物館、右手はかつて大正天皇が皇太子時代に鳥取を行啓したときに宿舎として建造されたという瀟洒な仁風閣。しかし今日は月曜とあってどちらも休館。しょうがないので城跡を登りはじめる。来てみてわかったのだが、鳥取城は平山城で、主要部分は平地からそれほど高い位置にあるわけではないが、背後は標高差200メートルはくだらないと思われる山を背負っており、その山頂に山上丸という最終防衛拠点が置かれていた。とりあえず二の丸まで登り、さらにその上の山上丸に向かう登山道に挑戦したが、これがかなり本格的な登山道で早々にリタイア。しかし二の丸からでも鳥取の市街地が一望できて、池田のお殿様はこんな気分だったのかなあと思う。
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ちなみにすぐ下に見えるのが仁風閣。

景色を堪能して下山し、またもや循環バスに乗って駅にもどってきたのは昼前。昼食を求めて放浪しているうちに雨がぽつりと降ってきた。雨だという予報も砂丘に足を向かわせなかった一因だ。
1時過ぎころ、乗る予定の列車には少し早いがホームにあがる。ちょうどそのくらいの時間に「スーパーはくと」が入ってくるからだ。HOT7000系で運転される「スーパーはくと」は東京にいてはお目にかかれない。今回、乗車する予定はないがせっかくだから実物だけでも見ておきたい。そうこうしているうちに若桜鉄道からの直通車両が入ってきた。4本ある鳥取駅のホームのうち、1番線にはHOT7000系のスーパーはくと、2番線にはローカルのキハ47、3番線にはこれから乗り込むキハ187系のスーパーおき、そして4番線には若桜鉄道の「さくら4号」。すべてのホームが埋まることがあるなんて思っていなかったのでちょっと意外だった。思わず記念写真を撮ってしまう。
スーパーおきでは進行方向右側、つまり海側に席を占める。もっとも、どの程度海を眺めることができるかわからないが。JR西日本が誇る(と三十一が勝手に思っている)キハ187系振り子気動車のスーパーおきは、このあと5時間かけて長駆、新山口まで走るが、三十一は1時間ほど乗るだけで米子で降りてしまう。スーパーおきの走りはかなりきびきびしていて小気味良い。昨日乗っていたキハ47とは大違いだ。比べるほうが間違っているけれど。並行する国道9号線を走る自動車を次々に追い抜いていく。実に気分がいい。昨日は逆に抜かれてたからなあ。天気予報通り、雨が降ってくる。しかしそれほど激しい雨ではなさそうだ。伯耆大山で電化された伯備線と合流して、やがて米子着。

当初考えていたよりも鳥取で時間を食わなかったので、このまま境線で境港まで足を伸ばす。できたら米子で荷物をコインロッカーに預けていきたかったんだが、乗り継ぎ時間が短かかったのでそのまま荷物をかかえて境線に乗りこむ。大篠津では、すぐ上を米子空港に着陸する旅客機が通り過ぎていく。おお、駅から駐機場のエアバスがよく見えるぞ。よく見えるどころの話ではない、境線は米子空港の滑走路延長のためにやがて迂回させられることになるのだ。だったらどうせのこと、米子空港と駅を直結して境線を空港アクセス鉄道にすればいいのになあ。

境港に到着して、すぐそばに見える港へ。境水道を挟んで向かい側には美保関半島の山がそびえている。山陰地方でも有数の港湾である境港には海上保安庁の基地があるんだが、巡視船岸壁は空っぽ。すべて出払っているらしい。あとでニュースで知ったのだが、ちょうど不審船対策の合同訓練があって、それに参加していたようだ。思ったよりも見るべきものがないので早々に引き返す。境港駅を出てすぐ、右手に更地が見えたのだが、えーと、地面の一部が黒く焦げてないか? そういや、境線沿線で火事があったってニュースがなかったかな。次の駅で大量の高校生が乗り込んでくる。しまった、そんな時間帯か。次の駅でもほぼ同数の高校生が乗ってきて車内は非常にやかましい。しかし、午前中の鳥取城登山未遂の疲れが出たのか、そのやかましさに睡魔が勝ってしまう。起きたり意識を失ったりをくり返しているうちに米子に到着。

米子で列車を降りると、ホームの向こう側に見える側線にDE15が停車していた。米子はまだ地平駅で、ホーム脇に側線が何本もひかれているという近頃珍しい構造の駅だ。ホームからDE15のショットを狙おうとデジカメを構えていたら、目の前のホームに列車が入ってくる模様である。近づいてくるのは、どうやら客車だ。いわゆるジョイフルトレインで、先頭にみえるサインによると「サロンカーなにわ」である。そう、先頭が客車ということは推進で進入してきたのだ。米子駅自体は電化されているけれど、普段JR西日本の客車列車はないから、ひょっとしたら・・・という期待通り、牽引(推進)機はDD51であった。DD511186。何枚か撮影したところで、跨線橋をわたって反対側のホームに移る。足回りを含めて写真を撮るためである。ふと見ればえらくごっついカメラを構えた男性が何人か見受けられる。鉄ですな。この団臨が鳥取方面に(あるいは岡山方面に)去っていくのを見送ったあと、改札を出てホテルへ。

今日の旅程:
鳥取(1334)→米子(1431) 1005D
米子(1437)→境港(1520) 1657D
境港(1608)→米子(1649) 1662D

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2007年10月28日 (日)

先祖の地

目が覚めて外を見ると昨日とはうって変わった青空。時計を見るとすでに8時だった。昨日2時には寝たのにたっぷり寝てしまった。熟睡できたかどうかはまた別だけど。
ホテルの朝食をとり、荷造りをしてチェックアウトしたのは9時を少し回ったころ。すぐ側の駅に向かい、コインロッカーに荷物を放り込んでタクシー乗り場へ。「海軍記念館」というと「総監部の?」 話がはやいなあ。さすが海軍の街。それどころではない、今日はアメリカの「イージス艦」が入港しているという情報を教えてくれる。ははあ、昨日駅前でアメリカ人らしい若い男のグループを見かけて「もしや」と思っていたのは正解だったようだ。

駅から総監部まではメーター1100円。何年か前に大湊でも似たような施設を訪れたことがあるのだが、ほとんど同じような印象だ。正門のところで「記念館を見学したい」と申し出ると代表者の名前と住所を記載させられて「そっちの道をあがったところの緑の屋根の建物だから」えーと、ああ、これか。展示物ははっきり言ってたいしたことなかった。いや、それなりの人にはそれなりの感慨をもたらすのかもしれないが、正直あまり新しい情報がなかったのだよ。唯一興味を引かれたのが佐久間艇長の遺書かなあ。でも舞鶴と佐久間艇長はあまり関係がない。

30分そこそこで記念館をあとにする。いちおうカメラももっていったのだがまったく使わなかった。総監部のほぼ真向かいが桟橋になっている。道路を渡るためにのぼった歩道橋から実によく見えた。あれが「アメリカのイージス艦」だな。アーレイバークかと予測していたのだが、タイコンデロガ級でした。どうみても一般人と思われる風体の見学者が見えるので、中に入れるのかなと思っていってみたら、やはり入れるらしい。米艦の近くには寄れなかったが、艦尾方向から眺めることができた。シャイローですな。自衛艦には、乗艦はできないがすぐそばから観察できる。16DD「ひゅうが」が竣工したらお役ご免となる「はるな」がまず目につく。ペンキ臭いなあと思っていたら艦尾で塗粧作業中でした。
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あとは「はまゆき」「あぶくま」、それから対岸の岸壁上に「すずなみ」。さらにミサイル艇「はやぶさ」「わかたか」「うみたか」。これらミサイル艇の艦尾ウォータージェットの構造は実に興味深かった。これは是非カメラに収めねばとデジカメを構えたらなんとバッテリー切れ。げげ、なんでこんな絶妙なタイミングで。充電器は東舞鶴駅のコインロッカーの中。憮然。

まあそれでも久しぶりに実物の軍艦を目にして気持ちはリフレッシュした。これだけでもここまで足を伸ばした甲斐があったものだ。横須賀でもよかったような気がしなくもないけれど。帰りにPXで自分へのおみやげを、ただしかさばらないもの限定で入手して門を出る。さて、来るときはタクシーだったけど帰りはどうしよう。途中でバス停を見かけたけど、次のバスを待っていては予定の列車に間に合わないことがわかっただけ。だいたいの見当をつけて駅に向かって歩き始める。途中で流しのタクシーがいたら捕まえよう。結局、空車のタクシーはつかまらず、30分ほどで駅にたどりつく。駅で手に入れていた観光地図が役に立った。

今日の泊まりは鳥取。東舞鶴から綾部に出て山陰本線という本来のルートに復帰し、そのまま下っていくことにする。昨日は夜間だったのでよく景色を見ることはできなかったが、舞鶴線沿線の景色は昼間でも大して興味をそそらない。西舞鶴駅の手前で田辺城跡公園を見かけたくらい。乗った列車は綾部からそのまま山陰本線に乗り入れて福知山まで行く。福知山は「北近畿Xネットワーク」の要の駅というだけあって、やや複雑な配線になっているけれど、乗ってきた列車が遅れたおかげでその配線を鑑賞する時間もなく、自由席特急券を買って城崎温泉行きの特急北近畿7号に乗り込む。この列車では、進行方向左側に席を占めたのだが、これには少しわけがある。

列車は福知山盆地をしばらく走ったのち、県境を越えて兵庫県に、昔で言えば丹波国から但馬国に入った。播但線と合流する和田山駅を出たあと、三十一の視線は左側窓外に釘付けになる。実はこのあたりは三十一の先祖の地、本籍地なのである。30年ほど前に一度墓参に訪れたことがあったきり、住んでいたこともないし、一泊したことすらないのだがそれでも三十一の個人情報と切っては切り離せない土地なのだ。駅を通過。しかし求める地名は線路沿いではあるものの駅から少し離れているはず。実質的にはまったく初めて見る景色なのだが、どこかにわずかでも手がかりがないかとなおも窓外を凝視していた三十一の目にやや大きな神社が飛び込んできた。これだ。このあたりがその地だ。改めて周囲を見わたしてみると、見も知らぬ先祖が生活を営んでいたかつての様子が彷彿とされる。つまり開発がそれほど進んでいない典型的な日本の田舎なのだ。逆に言えばそれくらい辺鄙な土地であったということだ。このような山村から、ありとあらゆる人々が東京に集まってきたのだなあと改めて感慨にふける。

列車が少し遅れて城崎温泉駅に到着する。ホームのアナウンスが「乗り換え客は急げ」と言っているので急ごうとするのだが、ここが終着と思われる年配の団体客が跨線橋を塞いでいた。かき分けるようにして隣のホームに移り、列車に飛び乗るとまもなくドアが閉まった。この先、城崎温泉から鳥取までの間の山陰本線はほとんどローカル線と化している。大阪京都方面から北近畿を訪れる観光客は城崎温泉から先へは行かないし、鳥取へ行くには智頭急行経由が主流になっている。かろうじて観光客を集めているのが余部鉄橋だ。この間、山陰本線は日本海沿いを走っているのだが、海岸は断崖絶壁となっていて海岸線に線路をひくなど思いもよらない。海面の高さからかなり高いところを線路は走っている。断崖がわずかに入江になったところに集落があり、その集落から崖をあがったところに線路と駅がある、というパターンがくり返される。余部も、その隣の鎧もそういうかたちになっていた。香住駅で団体客が乗り込んできて、車内はたちまち満員になった。これから2駅さきの余部まで乗車するらしい。北海道でも経験したことだが、このようにバスで駅に乗り付けてほんの何駅かおいしいところだけ列車に乗り、その間にバスが先回りするという手法が横行している。効率はいいのかもしれないが味気ない。

余部鉄橋ははるか昔(30年ほど前に本籍地を墓参したとき)に下から見上げたことはあるのだが、鉄橋上から下を見下ろしたことはなかった。今回が最初の、そして多分最後の機会になるだろう。トンネルを抜けて鉄橋にさしかかる。下を見下ろす。まるで空を飛んでいるようだ。銀河鉄道999に乗っているような気分になった。汽車の時代にはさぞ恐ろしかっただろう。

浜坂でいったん乗り継ぐ。あとは今日の目的地鳥取に到着するのを待つだけだが、その手前にもうひとつの楽しみがある。鳥取駅の手前、山陰本線が鳥取平野におりてくるその途中に、山陰本線で唯一のスイッチバック信号場があるのだ。この滝山信号場で行き違いを行なう列車は今はないようだが、しかし設備は今も生きている。急勾配を下っていく列車の中から前方を見ていると、やがて右手前方に予告信号機が現れたので「さては」と思ったら、やはりそれであった。

まもなく高架駅の鳥取着。近代的な高架駅でありながら架線が引かれていないという光景はやや奇妙だ。しかしこうした組み合わせはすでに帯広駅で経験済みなので初体験というわけではない。ちなみに、いわゆる県庁所在地駅で非電化なのは三十一が知るかぎり5つ。鳥取はそのひとつなわけだ。希少価値と言うべきなのかどうか。

今日の旅程:
東舞鶴(1253)→福知山(1334) 338M
福知山(1343)→城崎温泉(1450) 3017M
城崎温泉(1454)→浜坂(1549) 177D
浜坂(1619)→鳥取(1710) 539D

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2007年10月27日 (土)

西へ旅立つ

古典落語の世界だと「西へ旅立つ」ってのは「西方浄土へ赴く」、つまり死ぬってことなんだけど、ここでは文字通りの意味でしかない。
日本の47都道府県のうち、地続きでない沖縄を除いた都道府県のうち三十一がこれまで足を踏み入れたことがないのは6県。今回はそのうち2つを制覇しようという旅である。鉄道趣味的には、建て替え前の余部鉄橋とサンライズを経験するのが主要目的だ。

しかし、天気は台風のおかげであいにくの雨。大荷物を抱えて、雨の中でかけるのはあまりうれしくない。大きな傘を持って行きたくなかったので、けっこう強い雨の中折りたたみ傘でなんとか駅までたどりつく。こんなときに限って、途中でデジカメを忘れたことに気づいて一度引き返す羽目になる。まあ、台風さえ行ってしまえば天気も回復するようなので今日明日の辛抱だ。

東京で切符を買う。山陰ゾーンの周遊きっぷ、「ゆき」は東京から京都を経て山陰本線経由で鳥取まで、「かえり」はサンライズを使う予定なので伯備線・山陽本線・東海道本線経由で東京に。ところが、今や関西から鳥取の経路は智頭急行経由はくと利用が主流になっているため、最初「ゆき」の経路を間違えて発券された。「作り直したほうがいいですか?」もちろん、そうしてもらわなければ困る。そうじゃないと余部鉄橋を通れない。

今夜の宿は舞鶴。経路からは少し外れているが、当日になって城崎温泉に宿を求めるなんて無謀な試みをするよりはずっとまし。それに一度舞鶴という街には行ってみたかった。

新幹線で京都に着く頃には雨はあがっていた。山陰線に乗り換える途中で、跨線橋から写真を撮ってる人がたくさんいたので「変わった車両の列車でも来ているのか」と思ったらさにあらず、虹が出ていたのだった。
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京都から乗り換えた「たんご5号・まいづる7号」はいい加減くたびれた183系、それも485系を直流化改造した183系だから相当古い。車内で綾部~舞鶴間の飛び出した区間の清算をする。京都駅を出てしばらくは、京都市街の西部を北上する。京福線の上を越えるときにちょうど単行の電車が走っていった。この市街地を走る路線が比較的最近まで非電化のまま放置されていたのは、国鉄の無策を示している。途中、山城国から丹波国に移るあたりの国境で、嵯峨野渓谷を越える。このあたりは電化の際に新線に切り替わった区間だが、旧線を廃止せず観光鉄道として活用している。ときどき眼下にその旧線が見えるのだが、うーむ、確かにこれは観光鉄道としては絶品に違いないが、山陰を代表する幹線がこの急曲線では、輸送力の増強も難しかったろう。丹波に入ったちょうどそのころからまた雨が降ってきた。途中で渡った鉄橋から何気なく下を見たらとんでもなく高かったので少し驚いた。そうは思っていなかったが、実際に来てみると思いのほか山深いところだとわかる。亀岡あたりでは複線化工事が進んでいた。すっかり暗くなっていた和知駅では、測線にDD51が牽引する工事列車が停車していた。マヤ検かな。暗くてよくわからなかった。綾部で福知山行きと分かれて舞鶴線に入る。西舞鶴を経て東舞鶴に到着。東舞鶴は小浜線と舞鶴線の境界駅だが、一見なんの変哲もない高架駅でしかない。雨は少し小やみになったようだが、風は激しい。

今日の旅程:
東京(1333)→京都(1553) 89A
京都(1624)→東舞鶴(1802) 5095M~3047M

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2007年6月30日 (土)

六~七日目・帰京ちょっと寄り道

釧路から札幌に向かう。よく考えたらわざわざ釧路に宿をとる必然性はなかったような気もするが、予約してしまったものは仕方ない。キャンセルしてもキャンセル料がもったいないし。スパカツを食いに来たと思えばよかろう。
出るときに結構時間がぎりぎりで焦っていたせいか、鍵を室内に置いたまま出てきてしまった。あとチェックアウトするだけなのでフロントに一声かけておく。カード式なのにいちいち返せってのもどうかなあ。

釧路からは始発のスーパーおおぞらに乗り込む。始発駅だから特に指定席も必要ないだろう。実はこれがフリーパスを使って乗る最後の特急なのだ。6回まで指定がとれるのに、2回しか使わなかった。まあ使い方次第だけど、6回は充分な数だろう。
釧路駅は相変わらずの地平駅だが、少し帯広寄りで高架工事らしきものをしていた。ここを高架にしても踏切の解消くらいしかできないと思うんだけどなあ。むこうは海だし。
自由席をいいことに海側の窓際を確保したんだが、昨日に引き続き天気がよくない。尺別~音別あたりの一番海に近いところでも、波打ち際はわかるが、水平線はかすんでわからない。
白糠に着いたところでアナウンスが入る。車両点検のためしばらく停車するとか。おやおや。乗り継ぐ予定の列車まで、多少の余裕はあるがありあまっているというほとではない。1時間単位で遅れたりすると困るなあ、と思っていると、今度は何も言わずに発車してしまった。1分くらいしか停まっていなかったんじゃないかなあ。とか言いつつも、その後まもなく入ったアナウンスによれば6分遅れなんだそうな。ってえことは、これまで所定より遅く走ってたってことかなあ。
帯広を経て狩勝峠を越え、石狩国に入ってくる。石勝線は相変わらず山中を走るが、ところどころに線路と並行して高架橋のようなものをせっせとこしらえているのが見える。これは石勝線の線形改良工事、などではなく、札幌方面から十勝に抜ける道東自動車道の工事なのだろう。いまいましい。

さて、石勝線のヤマの中であれこれと考える。JR北海道は、現在「オホーツク」、「サロベツ」、「とかち」の一部、「北斗」の一部に使っているキハ183系を、現在「宗谷」に使われているキハ261系の増備で置き換えるつもりなんだそうだ。純粋な振り子式であるキハ283系の増備はもうない、ってことなんだろうなあ。
まあ、オホーツクとサロベツをキハ261系にするのはいい。ちょっと悩ましいのは、現在キハ283系が投入されている「とかち」6往復のうち2往復と、まだキハ183系を使っている「北斗」11往復のうち4往復をどうするか、ということ。三十一としては、「とかち」をキハ261系にそろえて、ひねり出したキハ283系を「北斗」に充当してキハ281・283系に統一してほしいところだが、2往復対4往復で数が合わない。所要時間もそれほど変わらないので、「とかち」からでは「北斗」の置き換え分は出てこない。かと言って「北斗」の一部にキハ261系を投入するのもどうかなあ。キハ283系を増備すればすむ話ではあるけれど、そんなことはしそうもないなあ、貧乏なJR北海道としては。
実はもうひとつ、夜行特急「まりも」と臨時夜行特急「利尻」に使われているキハ183系はどうするんだ、という問題もあるのだけど。

結局、列車は8分遅れで札幌に到着。面倒なのでまた荷物をコインロッカーに放り込み、腹ごしらえと土産の物色とそれから大通り公園へちょっと写真をとりに。大通り公園に行くときは歩いていったんだが、帰りは面倒になって1駅を地下鉄に乗る。

13時半ごろ、札幌の改札をくぐって帰京のために乗る列車を待ちかまえる。おお、入ってきたぞトワイライトエクスプレス。なんで札幌から東京に戻るのにトワイライトエクスプレスに乗るのか、それはもう「テツ」だからとしか言いようがない。北海道にわたって二日目、たまたま札幌でトワイライトエクスプレスを目撃して、しげしげと眺めているうちに思いついたのだ「これで帰ってもいいなあ」
大阪に昼過ぎに着いたとしても、新幹線を使えば午後のうちに自宅まで戻ってこられる。首尾良く切符がとれたらそうしよう、と思ったのだが、幸か不幸かきっぷはとれてしまい、こうして乗り込むハメになる。

とった切符はB寝台個室シングルツインというやつ。一人用の個室なんだが、補助ベッドがついていて二人でも泊まれる。えーと、これ補助ベッドというよりかなりちゃんとしたベッドなんですけど。このソファ兼用のベッドよりよっぽど寝心地いいんじゃないかなあ。窓がないけどね。

14時5分に動き出した列車は、千歳線室蘭本線函館本線を経由してまずは五稜郭へ向かう。この個室は北海道を走っている間は海側だけど、本州にわたったら山側になってしまう。まあいいか。実際、北陸本線や信越本線からは海が見えるところはけっこう限られている。親不知あたり、それから滑川あたりの富山湾、そして柏崎~直江津間の信越本線くらい。海がよく見えるのは本当は羽越本線のはずだけど、真夜中になってしまう。三十一はこれまで羽越本線に乗ったことがないので初乗車なのだが、夜中なのはちょっと残念。

そういえば、このトワイライトエクスプレスの上り列車は、森~大沼間で砂原線と呼ばれる函館本線の迂回線を経由する。この区間も実は未乗。機会を付くって制覇しなくてはと思っていたのだが、今回は諦めかけていた。期せずして制覇することができた。同じ意味で、二日目の函館から札幌に向かう北斗が七飯~大沼間で藤城線と呼ばれる迂回線を経由していたので、厳密な意味では今回で函館本線を完全制覇することになる。
五稜郭を出たあたりで、札幌で入手していた弁当を食する。食堂車の6千円もするような懐石弁当や、1万2千円もするようなフルコースは食っていられない。「北斗星」と違って予約時間帯以降のパブタイムでは食事メニューはそろっていないらしい。発車後に弁当の注文を聞いてまわっていたから、頼めないこともなかったようだけど、いくらするのかな。ただし、朝食の予約だけはしておくことにする。

そうそう、大事なことを忘れていた。この個室に入って室内を見わたし、まず目についたのは壁に作りつけられたコンセントであった。さっそくPCをつなぐ。おお、電気きてるぞ。これで時間つぶしは万全。札幌駅で買っておいた文庫本の出番はないかな。

青函トンネルも今更どうという感慨もわかない。なにしろ7回目だ。青森信号場で機関車がED79からEF81に代わっているようだが、信号場なので降りるわけにもいかず、衝撃で連結作業を推測するのみ。ちょうどパブタイムになったので、食堂車に行ってみる。少しでも食堂車に金を落とさないといずれ食堂車そのものがなくなりかねないからね。しかしビール一杯とチーズ盛り合わせで1600円は高いなあ。おまけに三十一がのんびり飲んでいたら、他の客はいなくなってしまった。大丈夫か、これ。

部屋に戻ってベッドメークをし、寝る前に本など読んでいたら駅に停まったので外をのぞいてみたら秋田であった。秋田の町は初めてなのでちょっと感慨にふける。これから羽越本線に入るはずだが、ちょうどいいきっかけなので寝てしまう。

あまりよく眠れなかったが、それ自体はいつものことなのでベッドのせいではないだろう。目が覚めて外をのぞくと薄明るい。駅をふたつばかり通過したが、駅名は読み取れなかった。JR東日本の管内ではあるようだけど。てことは、信越本線のどこかかなあ。やがて少し大きな駅を通過したので見てみると柏崎だった。次あたりから海沿いになるので、隣のサロンカーに移動。誰もいないサロンカーから海岸の眺めを満喫する。去年の9月に金沢に行く途中ではあまりよく見えなかったのでリベンジだ。

笠島をすぎたあたりで自室に戻り、富山あたりで朝食に呼び出されて食堂車へ。食べ終わったころちょうど金沢着。ここから先は未知の領域だ。サロンカーへ移ってしばらく外を眺める。あ、BGMに流れてるのはシューベルトの未完成だなあ。そういや、個室の案内にもBGMをFMで流してるって書いてあったっけ。部屋に戻ったら見てみよう。
小松をすぎたところでちょうど未完成の演奏が終わったので、部屋に戻る。あと3時間くらい、時間があるようなないような半端な時間。PCに向かってせこせこと内職をして時間をつぶす。

きっぷは大阪まで買ってあったのだが、京都で降りることにする。早めに帰ることにしたのだ。能登地方の大雨の影響で北陸本線のダイヤが乱れていたらしく、京都駅着は8分遅れ。考えてみれば、京都駅を通過したことは何度もあるが、京都駅で降りたのは中学の修学旅行以来ではなかろうか。もちろんその当時と今の駅は似ても似つかぬものになっているはずだ。もうン十年前のことなど覚えていないけど。今の駅はこんな感じ。
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700系のぞみに乗って東京へ。京都から東京までは2時間半ほど。新幹線は偉大だ。

昨日から今日の旅程:
釧路(0739)→札幌(1131+8) 4002D
札幌(1405)→京都(1214+8) 8002レ
京都(1306)→東京(1526) 9306A

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