2012年10月30日 (火)

「冥王星を殺したのは私です」


冥王星が「惑星」でなくなったのは 2006年、今から6年前になる。その頃この blog の前身になるサイトで書いていた日記に飽きて更新が滞りがちになっていた時期に、異例に長い文章を書いているのは当時の三十一の関心の高さを物語っている。

この著者のマイケル・ブラウンというのは前述の三十一の文章にも名前が出てくるのだが、この当人が冥王星を惑星から外すために画策していたとは初めて知った。もっとも、三十一はアメリカ人のこの手の自慢話、あるいは打ち明け話には眉に唾をつけて見る癖がついてしまっているのであまり鵜呑みにしていない。ほんとうにそんなに影響があったのかなあ。反対意見を述べる「多くの」科学者のひとりでしかなかったんじゃないかな。当の「第10惑星」発見者本人という立場なのでそれなりの影響力はあったかもしれないけど、当人がひとりで議論をひっくり返したかのような言い方はちょっと信じがたい。

まあ論文ではないので、本人はそう思っていたんだろうくらいでスルーするとして、単純にサイエンス・エッセイとして見ると非常に面白い本である。途中で一時中断して他の本を読んだりしていたこともあるのだが、別に読みづらくて中断したわけではなく、するすると読み終えることができた。

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2008年3月11日 (火)

渋滞する惑星

実はタイトルは矛盾している。2006年に擦った揉んだの末決まった惑星の定義のひとつに「その軌道上で卓越した質量をもつ」というのがあるので、渋滞は起こりようがない。
直接関係ないふたつのトピックを無理矢理結びつけたのだが、なんとなく共通点があるように思う。
ひとつは「ボトルネックがなくても車の密度が高くなると渋滞が発生する」という論文が発表されたという記事。執筆者のひとり菊池教授が自身の blog で触れているので、ここからたどっていくのが一番確実。

Traffic jam without bottleneck
 渋滞の論文が出ました(または相転移現象としての交通渋滞)
数と密度 (渋滞論文の話の続き)
さらに渋滞の続き

にちゃんねるでも取り上げられているのだが、このやりとりを見ているとにちゃんねるに何らかの建設的な方向性を求めるのは無理だという気がする。というのは、投稿者の多くは「負けない」ことだけを目的にしているように見えるからだ。正面から論破されると「ネタにマジレスすんな」と話をそらすやり方は端から見ていると見苦しいだけだなあ。
まあそんな人はにちゃんねるの外にもいるけれど。

もうひとつはこちら。

「第9惑星か?」のニュースに対するコメント    井田 茂

どうもマスコミはこれまでの古典的な惑星観をひきずってるように思える。数少ない、せいぜい一桁の惑星が太陽系を構成しているという考え方はとっくに時代遅れになっている。太陽系そのものは、これまでの惑星たちが占めていた領域よりもはるかに外縁にまで広がっていて、そこには多様な外惑星天体が飛び交っている。「第9惑星」などとセンセーショナルに取り上げられた天体も、そういった多数の天体のひとつにすぎない。

これらのニュースからわかることは、「常識的な感覚」というのは実はあてにならないということだ。科学者はそれを知っている。だからどうしても懐疑的になる。「疑わしきは信用しない」というのが科学的な態度だ。そもそも「常識」なんてものは人間の数だけあるもんだし。

 

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2007年11月14日 (水)

「生物と無生物のあいだ」

それほど期待して読み始めたわけではないのだが、かなり面白かった。kikulog でWTC陰謀論とか血液型性格判断とかマイナスイオンなどといったお題目を弄んでいる人々に是非読んでほしい。ただし、そういった人々は読解力が乏しいのでどの程度理解できるやら。
非常に面白い本なのだが、読みきるには多少の根気が必要かもしれない。もちろん、一般向けの書籍なのでそれなりに説明がされているのだが、特有の語彙とか言い回し、厳密な論理構成がちりばめられていてその手の文章に慣れていない人にはちょっと読みづらいだろう。

「生物とは何か」という命題はむしろ科学というより哲学の問題のような気がするが、しかし生命活動の仕組みを科学の手法でもって細かく解明していくと、そこには生命活動に固有のふるまい、あるいは傾向が見いだせる。そういったものを帰納していくと、生命の本質が見えてくる。それは研究の本来の目的ではないが、違った意味で究極の目的と言えるのかもしれない。

生命の本質は「自己複製」であると考えられた時代もあった。しかし、自己複製を行なえば生命であるかというとそれは違う。また、自己複製を行なわないものは生命ではない、というとそれもまた違う。ウィルスは自ら自己複製は行なわないが、他者に寄生することによって自己複製を行なう。ウィルスが生物か否かというのは議論の余地がある。いっぽう、生命活動とは「エントロピーを減少させる活動だ」という説明をすることもある。つまり、生物は自分を構成する細胞のひとつひとつにマクスウェルの悪魔を飼っていることになる。これは一種の説明として価値があるものではあるけれど、しかし「生命」の定義としては足りない。その逆は必ずしも真ではないし、また生命は閉じた系とは言えない。
しかし、この「閉じた系ではない」という事実からまた異なった見方が生まれてきた。この著者が主張しているのがまさにそれである。人間を含む生命は「閉じた系」ではないから、外部からなんらかの栄養なり情報なりを摂取して不要なものを排泄する。常識的には、これは「生命活動に必要なエネルギーを摂取して老廃物を排出する」と考えられている。つまり「人体」という箱の中を外部から取り入れた物質が通過していく、という模式図である。ここでは「人体」はある程度固定されたものととらえられている。しかし現実は異なる。その「人体」を構成する物質を分子レベルにまで細分化して見ていくと、その個々の分子はあらゆる個所で常に入れ換えられているのである。自分の見慣れた顔、身体、手足、はては小学生の時に転んで怪我をした傷跡まで、どれひとつとして1年前と同じ物質によって構成されたものはないのである。著者はこのダイナミズムに注目する。生命とは、物質が流れていくその過程の中で一時的にとどまって仕事をする「場」にすぎない。著者はこれを「動的平衡」と呼ぶ。生命は、身体を壊して作り直すという作業を際限なく続けている。なぜそのようなことをしているかと言うと、常に作り替えることによって老朽化あるいは不慮の事故による機能損失を先回りして防止しているのだ、と著者は考える。

これは非常に面白い見方だが、多くの人間には受け入れにくい考えだろう。しかしこの考え方を受け入れたとき、人間を含む生命というものに対する見方は変わらざるを得ない。そして三十一にはその変化は、けして悪い方向には向かわないと思えるのである。

ところで、あとがきに著者が小学生の時に暮らしていた町の話が出てくる。実はこの町は三十一が今住んでいる町で、登場する小学校、短大、公営住宅、公園のすぐ横を歩いて通勤している。そうか、あの小学校でNHKの「ようこそ先輩」を撮っていたのか・・・

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2007年10月 2日 (火)

「単位の進化」

アポロの月面着陸とか、東京オリンピックとかが「最近の話題」として取り上げられてることからもわかるように、原本はかなり古いものである。もともとはブルーバックス用に書かれた本らしい。ブルーバックスから講談社学術文庫に収録っていうパターンはあまり見かけない。
三十一が学生のみぎりには、MKSA単位系からSI単位系への過渡期(といっても、実態はMKSAなのだが)で、両方の表記が見られた。この本の中ではSIへの言及はあるけど、紹介にとどまっている。最近ではもっぱらSIなんだろうなあ。学生時代に授業で提出したレポートでは「単位は何だ」としつこく確認され、等式の左右で単位の次元が一致しているかどうか何度も検算した三十一としては、懐かしくも苦々しい記憶を呼び戻されたことである。

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2007年6月 3日 (日)

「変な学術研究1」

変な学術研究と言っても、もともとは専門の学術雑誌に掲載されたきちんとした論文で、発表した本人は大まじめであることは間違いない。
だが、まじめだからこそ笑えるというのは世の常である。特にこの本は著者がフランス人というだけあって、斜に構えた皮肉な表現が秀逸である。こういう表現をうけつけない人には腹が立つだけかもしれないけれど。

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2007年4月 9日 (月)

学研のガンダムムック

学研が歴史群像のたぐいのムックを出しているのはよく知られているけど、同じ体裁でガンダムの「一年戦争」を、しかも上下巻で出したのはちょっと面白い。しかも三十一はそれを買ってしまった。
内容はファンタジーだと思って読んでいればいいんだけど、それでもちょっと頭をかしげる記述をみつけてしまった。

おかしいと思ったのは二個所、どちらも下巻だが。
ひとつ目は46ページのソーラーシステムの記述。「熱力学第2法則から、焦点であっても太陽の表面温度の6000度以上にはならない」 これ本当?
問題なのは熱量であって、温度じゃないと思うんだけど。接触している物体間における熱の移動なら温度差が問題になるけど、いったん電磁波エネルギーに変換されて伝播されてるから、もとの温度がいくつでも関係ないと思うなあ。

そしてふたつ目は132ページの「ツィオルコフスキーの法則」の説明。「宇宙船の速度は同じ重さの燃料なら燃焼温度が高いほど高速を出すことができ、同じ燃焼温度ならより多くの燃料を消費したほうが高速であるということだ」

↓このへんでも説明されてるけど、燃焼温度じゃなくて燃焼ガスの速度でしょう。全然意味が違っちゃいますぜ。


この筆者は何か「温度」にこだわりでもあるのかなあ。"Text : Jyoji HAYASHI" とあるんだけど、まさか林譲治?

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2007年3月 5日 (月)

「文化としての数学」

途中ずいぶんあいてしまったので読み始めてから読み終わるまで時間がかかっているが、実際に読んでいた時間はそれほど長くないはずだ。
三十一がこの本を読んでみようと思ったのは何より著者名に覚えがあったからだ。今をさること30年近く前、三十一が中学生のころにこの著者が中学生向けに書いた数学の本が非常に面白く、何度も読み返したことを覚えている。いま探してみたらその本がまだラインナップされていたのでかなり驚いた。

この本(というのは「文化としての数学」のほうだが)の中でデカルトの「方法序説」のはじめに書かれている真理に近づくための三つの法則がとりあげられている。この法則をどこかで聞いた覚えがあるなあと思ったら、この本(というのは「関数を考える」のほうだ)で紹介されていたんじゃなかったかな。しかしこの法則、特に第一の法則はすべての「ニセ科学者」に読み直してほしいものである。

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