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新しい年号は「令和」(れいわ)と決まった。違和感を禁じ得ないが、そのうち慣れるだろう。平成のときもそうだった。
三十一の予想は当然のように外れたが、「和」を的中させたのは上出来だろう。個人的には「和」が「貴い」とはさして思っていないのだが、世間一般にはそう思われていて、しかも現実では「和」が十分ではないと思われる場面が多いから、目標や理想として「和」を掲げるのは大方の納得が得られるのではないか。「和」の使用は20度目になるが、前の記事でも触れた通り「和銅」以外の18回(今度で19回目)はすべて2字目だ。試しに列挙してみると以下の通りになる。
承和、仁和、応和、安和、寛和、長和、康和、養和、正和、貞和、文和、永和、弘和、元和、天和、明和、享和、昭和、令和
しかし「令」はどうだろう。「令」は過去元号に使われたことはないし、天皇の諡号追号としても採用されていない。出典は万葉集だそうで、それ自体はまあいいとしても「令月」が「よい月」を意味するなんてことをどれくらいの人が知っているだろう。日常に使うことはまずないし(実際手元のIMEでは「れいげつ」は変換しなかった)、類似の使い方としては「令嬢」「令息」「令夫人」くらいしか残っていないだろう。そのなかでも本当に日常使われているとしたらせいぜい「令嬢」くらいであとは死語に近い。「令嬢」にしてももはや半死半生だ。
さらに気になるのが、漢文では「令」はもっぱら使役の助字として使われていることだ。「令和」という字面を見たときに「和せしむ」と訓じたくなる。「和」はいいとしても、それを上から強制あるいは指導されるようなニュアンスを感じる。「民主的でない」ということで議論を呼ぶかもしれない。
同じ「れい」という読みならむしろ「礼」のほうがよかった。「礼」はマナーだがそこには相手の感情や立場を尊重するという意味がある。「礼和」なら互いにリスペクトをもって融和するという理想を示すことになり、よほどのひねくれものでない限り文句はつけないだろう。ちなみに「礼」も過去の元号や天皇諡号追号に使用されたことはない(女院号としては例がある)。
まあいまさら何を言っても詮無いことだ。いずれ慣れるだろうし、また今後ますます西暦使用が主流になってそれほど広く使われないかもしれない。実はそれが目的だったりして。
まあ、当たらないだろうとは思うがここに予想しておく。
「和明」(わめい)
または
「和永」(わえい)
過去の元号を眺めていたところ、「和」という漢字は非常に多く使われているが、そのほとんどで二字目としての使用。一文字目として使われていたのは「和銅」(708年 - 715年) しかない。実のところ、ここに掲げた2種類の逆(明和/永和)は過去の元号として存在した。典拠は充分あるということだ。アルファベットの頭文字も「W」となり近年の元号と重複しない。
平成は災害が多かったから「安」がとられるのではないかという意見もあるようだが、三十一は否定的だ。余計な議論をひきおこしそうな元号は避けられるだろう。
ちなみに、過去の元号の一覧はいろいろなところで見られるだろうがこちらにも作ってある。
さてこの機会にひとつ新しいページを公開することにした。
calendar conversion暦の変換をするページで、現行のグレゴリオ暦、ユリウス暦、旧暦、イスラム暦どうしの変換ができる。機能自体はだいぶ前に自分用に作ってあったのだが、Web 用のインターフェースを作って外部から利用できるようにしたものだ。
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だいぶ間があいてしまった。
1月末からインフルエンザにとりつかれて、ふらつく体で医者に行って5時間待たされ、タミフルのおかげで熱は下がったけれどダメージは尾をひき2月は結局半分くらい休む羽目になった。
その間にスーパーボウルが終わり、オリンピックとパラリンピックが始まっては終わり、佐賀でアパッチが落ち、貴乃花が相撲協会を批判したかと思うと弟子の暴行事件で態度を一変させた。
ようやくまともに出社できるようになったころには会社でリストラが進行していて籍は確保したものの席は取り上げられて勤務地を変更するための引っ越しまで一週間しか与えられず、チームの人数は半分になっても質の低下は許さないという。
そういうわけでいろいろあった今年の前半だけど、わたしは元気です。咳が止まらないけど。
そういえば高畑勲も亡くなっちゃったなあ。
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トランプ大統領の「アメリカファースト」を「国益第一主義」と言って批判する人がいるが、それぞれの国が自国の利益を追求するのは当たり前で、それを否定するのは天に唾するような所業でしかない。問題は「国益」をどう考えるかだ。
1930年代の国際不況への対応として生まれたのが主要国によるブロック経済化の試みだ。自国を中心として一定の原産地と市場を囲いこみ、域外の勢力を排除することで経済的に自立しようとしたこの試みはしかし、排除された勢力の不満を強めて最終的に世界大戦にいたった。こうしたブロック経済化は短期的には効果があっても長期的には不安定化を引き起こす、という理解と反省の上に立って、戦後の西側世界は自由貿易を基礎とする国際協調主義をとってきた。
つまり、長期的には「自由貿易」と「国際協調」が自国の利益になるという認識を西側諸国は共有しており、その盟主がアメリカだったのだ。基本的にこの認識は今でも変わっていない。問題は「長期的な利益」よりも「短期的な見返り」を求める浮動層の意向を政治が無視できなくなってきていることだ。浮動層の母体は中間階級だ。はっきりと上層階級あるいは下層階級に属しているなら求めることは明確になりやすい。どっちつかずの中間階級がその時々の情勢や空気に流されて揺れ動く。皮肉なことに、「自由貿易」と「国際協調」に支えられて成長してきた経済が産んだ中間層自身が、自らの母体となった条件を壊そうとしている。
テレビで誰かが触れていたが、ナショナリズム Nationalism と民主主義 Democracy とポピュリズム Populism の語幹である Nation、Demos、Popul はいずれも「民衆」を意味し、つまりこれらは紙一重の違いしかないということでもある。古代ギリシャの民主主義が衆愚政治にとってかわられたように、民主主義がポピュリズムに陥ろうとするベクトルは常に存在する。ポピュリズムに陥らないためにもっとも重要なのは突き詰めれば「教育」ということになるだろうが、短期的な見返りを求める立場からすれば迂遠に過ぎるとしかみられない。堂々巡りだ。
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ちょっと前の、先週のTVタックルか何かで「女系天皇を容認するくらいなら男系の旧宮家を皇室に復帰させるほうがいい」と発言していたコメンテーターがあった。
それを聞いて三十一がまず思ったのは、「旧宮家より近い男系子孫がいるんだけどなあ」ということである。
あまり知られていないことだが、旧摂家の中には皇子を養子にした例がいくつかある。
まず江戸時代半ばに東山天皇の孫で閑院宮直仁親王の子が、鷹司家の養子となっている。この男系子孫は鷹司家本家では絶えているが、摂家に次ぐ家格である清華家の徳大寺家にさらに養子にはいった系統が今も続いている。三十一が知るかぎり、現在の皇室にもっとも近い男系子孫はこの系統である。
さらに、江戸時代初めに後陽成天皇の皇子が近衛家と一条家の養子となっている。現在の近衛家はこの系統になる。いっぽうの一条家は、本家の血統は一度絶えたが分家の醍醐家から養子に入ったので皇胤の血統が継続した。その後、本家は養子が継いだために一条家の現当主は男系では皇室の子孫ではなくなったが、実子が他家に養子に入ったため子孫は現存する。
ちなみに、戦前期の日本政治を語る上で欠かせない近衛文麿と西園寺公望はいずれも天皇の血を男系でひいている。近衛文麿は近衛家の直系の当主だし、西園寺公望は徳大寺家から同じ清華家の西園寺家を継いだ。天皇との血縁の親疎で言えば東山天皇の子孫である西園寺のほうが後陽成天皇の子孫である近衛よりも近い「親戚」のはずなのだが、西園寺が近衛を評して「自分がお上と会うときに比べて、近衛さんとお上はずっと親しくされているのはやはり親戚だからだろうか」と言っているのは、摂家筆頭の近衛家のほうが清華家の西園寺よりも家格がずっと高い(摂家の家格は親王家よりも上に見られていた)からだろうか。もっとも、近衛家にはしばしば皇女が降嫁している。
話を戻して、こうした養子に出た男系子孫のほうが、14世紀の崇光天皇にまでさかのぼる伏見宮家(戦後皇族離脱した11宮家はいずれもこの系統)と比べると今の天皇家にはずっと近い。ちなみに竹田宮家も伏見宮家の分家で男系をたどると760年くらい遡らなければ天皇にたどりつかない。「明治天皇の玄孫」というのは女系の話だ。
ところが「男系」を重視する某コメンテーター(名前失念)は、もっとも近親の男系子孫の存在を無視してはるかに遠い「旧宮家」のみを候補に挙げた。そもそもそうした存在を知らないのかもしれないが、そうだとしてもそこに顕われたのはやはりというか何というか「イエ制度」の呪縛である。
つまり、分家ならともかく一度イエを出て他家を継いだものにはもはや本家を継承する資格はないとする感覚だ。
現在のヨーロッパの王室では王位継承を男女平等に変えている例が多い。イギリスもそうだが、変更前からの王位継承順位は変更しないとしているのでそれほど目立っていない。スウェーデンでは現在の国王は男性だが皇太子は女子である。皇太子の下に弟がいるのだが、男女を通じて最年長者が王位を継承することになっている。もっとも、以前も男性優位ではあったものの、女子にも王位継承権はあった。イギリスのエリザベス女王は父国王ジョージ6世に男子がなかったために王位を継承することになった。もし弟でも男子があったなら女王になることはなかったが、しかし存命の叔父よりも王位継承順位は高かったのだ。こうした事例があったから、男女完全平等にした結果女子が王位を継承したとしても前例があるのでそれほどハードルは高くない。
ところがヨーロッパでもいわゆるサリカ法によって王位継承を男系に限った国がある。代表的なのはフランスだ。16世紀末に時のヴァロア朝の王位継承者がいなくなったとき、女系の子孫があったにもかかわらず13世紀にまでさかのぼった国王の弟の子孫に王位が渡って成立したのがブルボン朝である。親等でいうと21親等ということになる。イギリスでも貴族の爵位継承順位はだいたいのばあい、男系の子孫に限っている(例外はある)。だからときどき、爵位を誰が継承するかという裁判が起こされたりしている。
だったら日本でもひたすら男系をさかのぼっていけばいいじゃないか、という意見もあるだろう。ところが欧米と日本(など東洋)ではもうひとつ重要な違いがあって、欧米では教会が認めた正式な結婚の結果誕生した子供でないと王位継承権はない。正室の子でも側室の子でも(優先順位はあるにしても)イエを継ぐ資格がある日本とは大きな違いだ。だから欧米では「世継ぎを得るために側室を置く」という発想はない。側室の子は世継ぎにはなり得ないからだ。逆に日本では側室を許容することで継承者を確保してきたのだ。欧米ではこれが許されないからひたすら男系をさかのぼるとか、女系の相続を容認するという日本では必要なかった配慮が必要になった。
ところが現代、日本においても「天皇が側室を持つ」ことはとても考えられなくなった。大正天皇も明治天皇も、側室の子であって正式な結婚による子供ではなかったが、皇位継承権の有無を問題視されることはなかった。昭和天皇は大正天皇と皇后の間に生まれた嫡出子だが、昭和天皇と皇后の間に続けて4人女子が生まれたときには側室を置くことを薦めた側近があったという。昭和天皇自身はそれを拒否したが、昭和初期くらいまではそうしたことが現実味をもって検討され得たのである。しかしそういう時代はすでに終わった。国民の多くが核家族化しつつある時代にあって、国民統合の象徴である天皇家が国民とかけ離れた家族の形をいつまでも続けていられるだろうか。
「天皇家は一般国民とは違う形であることが必要だ」という意見もあるが三十一は採らない。「国民の総意に基づく」「国民統合の象徴」である天皇と皇室はあまりにも国民とかけ離れることは、いずれ国民から浮き上がって「国民の総意」を失うことになりかねない。そうした形で「国民統合の象徴」がなくなってしまうことは国民自身にとっても決して幸福なことではないだろう。
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三十一がひそかに注目しているアイドルが何組かあるが、あえて名前は挙げない。ここで名前を挙げてしまうとあたかもマイノリティを宿命づけられたようであまりに不憫だからです。万一奇跡が起こって晴れてマジョリティになれる日が来たらそのときにカミングアウトすることにしよう。
どうやら三十一がカミングアウトする時が来たようだ。
しかし残念ながらそのときの想定と違ってマジョリティになったわけではない。
タイトルで見当のついた人もいるかもしれないが、この10月一杯で「全員卒業」という形で活動を終了したアイドルグループがある。
「アイドリング!!!」だ。
小説でもドラマでもアニメでもマンガでも、三十一が好む物語の共通点は登場人物のキャラが立っていることだ。メンバーが特別かわいいわけでもなく、スタイルがいいわけでもなく、歌がうまいわけでもなく、ダンスが上手なわけでもなく、そろって若いわけでもないこのグループの(三十一にとっての)売りは、MCのバカリズムが引き出したそれぞれのメンバーのキャラクターだった。ドッキリを仕掛けられたり、相撲をとったり、罰ゲームをやらされているときに垣間見えるひとりひとりのキャラクターがリアルで面白かった。それが本当に「リアル」だったかどうかは一般人たる三十一には確かめようがないことだが、演出があったとしても気づかれないかぎりはどっちでもいいことだ。
活動終了はすでに4月に発表されていて、もう終わりが決まっているせいか最後のほうはかなりぶっちゃけた話も出るようになった。それによると「アイドリング!!!」のファンは2~3千人しかいなくてその中で「推し変」が繰り返されているだけだったという。「総選挙」に何万人も動員するどこかのグループとは大違いだ。しかしそれでも簇生するアイドルグループたちの中では動員力はあるほうだったろう。以前にも指摘したように
少数のコアなファンをあてにして(CD、イベント、グッズ、ファンクラブ会費など)堅実な商売を続けるのもひとつの方法論だろう。
というやり方を続けていくことも可能だったはずだ。
しかし「アイドリング!!!」の特異な点はプロデュースがテレビ局だったということだ。冠番組を放送するとか、イベントを主催するという点では有利に働いたかもしれない。当初のメディア露出という点でも有効だ。しかしテレビ局の本業はタレントをプロデュースすることではなく番組を放送することだ。上記のような方法でテレビに頼らずに活動を継続していくという選択肢はとれなかった。番組の打ち切りとグループの活動終了は連動せざるを得なかった。
もうひとつ、やはりテレビ局のスタッフは番組を作ることが本業でタレントのプロデュースではない。そこには自ずから違うノウハウがあるはずだが、番組のプロデューサーが結果としてグループのプロデューサーを兼ねるような形になった。秋元康とかつんくに匹敵するプロデューサーを雇えばよかったとまでは言わないが、ある程度経験のある専任のプロデューサーを外部から招聘するべきだったろう。
まあ、今さら何を言ってもあとの祭りだ。
正直、金銭的にも時間的にも体力的にもかなりの負担感があり、4月に「活動終了します」という発表を聞いたときには「やれやれ」という気持ちが少なからずあったことは否定できない。2年ほど前にプロデューサーが交代したときから、そう遠くない時期にこうした方向性が打ち出されるであろうことは覚悟していた。むしろ、よくここまでもったものだと思う。
状況を受け入れたつもりになっていた10月末、活動終了まで1週間を切った頃に夢を見た。この「4月に発表された10月いっぱいでの活動終了」そのものが壮大なドッキリだったという夢だ。
そうか、俺は終わって欲しくなかったんだ。
夢は正直だ。
残念ながら「活動終了」はドッキリではなく、「アイドリング!!!」は終わってしまった。
三十一が注目している(していた)アイドルは「アイドリング!!!」だけではなくまだ何組かあるけれど、そちらについてはまだカミングアウトしない。
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ずいぶん前にパスポートも切れてしまっているのだが、さすがに横須賀で米海軍艦艇に搭乗するためだけにパスポートを取り直す気にはなれなかった。
今日は米軍のフレンドシップデイ、兼海自のサマーフェスタなのでやや夏バテ気味だったが頑張って横須賀まで出撃する。
まずはJR横須賀駅で下車して海自へ。米軍はその後の成り行き任せのつもりだった。
案内によると公開艦艇は逸見岸壁と吉倉桟橋の両方に係留されている。一番近い逸見岸壁にはイージス護衛艦「きりしま」だったが外から眺めるだけで乗艦はパス。その奥に潜水艦が停泊していて、珍しく潜水艦にも乗艦できるようなのでまずそこに向かう。乗艦といっても甲板上までなのだが、それでも滅多にない機会なので逃すわけにはいくまい。なにしろこれだけの至近距離で現物を見ることができるだけでも貴重だ。残念ながらいま話題の「そうりゅう」級ではなく「おやしお」級の「やえしお」だったが。とりあえず行列から撮影した司令塔。一番わかりやすい画を掲載するが、最大望遠で吸音タイルの貼り付け状況を撮りまくった。まるっきり不審者だ。
乗艦して司令塔の後ろあたりから後方を写した写真。思ったよりも甲板が平坦なのが意外だった。もっと歩きづらそうな印象があったのだが、実際に乗ってみるとそうでもなかった。やはり現物に乗ってみないとわからない。話には聞いていたが、甲板上のいろんな構造物ができるだけ平滑になるように装備されていたのがよくわかる。なにかのフタをボルトで締めているのだが、そのボルト自体が穴の中に納まっていて突起部が無いようになっている。もちろんこれも撮りましたよ、いちいち載せないけど。
さて吉倉桟橋にまわって米海軍の駆逐艦 McCampbell に並ぶ。50分待ちということだったが時計を見ていなかったので実際どれくらい待ったかはわからない。個人的にはそんなに退屈しなかった。並んでいるあいだに後方から撮影した、逸見岸壁に停泊する「やえしお」と「きりしま」。
身分証を提示して McCampbell に乗艦。いろいろ撮りまくったが面白そうなものだけを掲載しよう。
前甲板で撮影した写真だが、艦橋直上のマストにとりつけられているおそらく航海レーダーがまっすぐ取り付けられておらず、右側に斜めに装備されているのがわかるだろうか。写真だとちょっとわかりづらいかもしれないが、実際にはアンテナが回転しているので目立つ。多少中心を外れていても機能的にまったく問題ないだろういというのはわかるのだが、日本ではなかなか出てこない発想だ。
そして艦首旗。うまく開いているところを捕まえられなかったので見づらいと思うのだが、真ん中にヘビ(ガラガラヘビ)が描かれていて、旗の下部には「おれを踏んづけるな DON'T TREAD ON ME」と書かれている。もともと独立戦争当時にときのアメリカ海軍(コンチネンタルネイビー)の一部の艦艇に掲揚されていたものだが、同時多発テロ以降に再び使われるようになったものだ。
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明治初め頃の日本の政治体制を「有司専制」と呼ぶことがある。
「有司」とは司にあるもの、つまり現に官についているもので、選ばれた少数のエリートが政権を専断することを「有司専制」と呼ぶのだ。
先週、NHK で自民党の高村副総裁が安保法案について「支持率が低下しても仕方が無い」と発言したのを観た(たまたま観ていた)ときに、この「有司専制」という言葉を思い出した。その同じ週末にやはり NHK で放映された NHK スペシャルで、戦後の歴史を概観して「岸と吉田」というふたりの基本的な政治姿勢を対比していた。その中で岸も同じようなことを言っていたが、もともと戦前からの官僚だった岸には「有司専制」的な姿勢がうかがわれる。そしてその岸の孫が今の安倍総理だ。
実は日本の政治体制はデモクラシー(民主主義)の皮をかぶったオリガーキー(寡頭政治)でしかないのではないかと、最近思うようになった。そしてその責任は寡頭政治(有司専制)を実行している為政者の側よりもむしろそうした状況を許している国民のほうが重いのではないか。先日の NHK の番組でも、「かつての PKO 法案などでもそのころは強い反対論があったけれど、現在では多くの国民が支持している」と言っていた。それも確かに一面の真実だが、「どうせのど元を過ぎれば忘れてしまうだろう」と高をくくっているのも否定できまい。
明治初めの「有司専制」は、一般には「藩閥政治」と呼ばれる。
本人たちの主観はともかくとして、少数エリートによる支配は「派閥性」を免れない。ごく小さい、近しい仲間のあいだで合意をとって進めるのは効率的ではあろうが、こうした小さなコミュニティーにおいてはできあがった関係性を壊すような動きは生まれにくい。大きな変化がない時代ならそれでもよかったのかもしれないが、短い時間で情勢ががらっと変わってしまうような変化の激しい時代や、小さなコミュニティーの論理が通用しない外部(外国など)との交渉が必要な時代(つまり現代だ)では対応しきれない。
安保法制は一言でいうと選択肢の自由度を高める法制だ。「政府の自由にさせたら危ない」というのはそれも「あなたまかせ」の議論でしかない。選択肢の広がったツールのうちそのときの情勢に応じて何を選択し何を使わないかを、その都度侃々諤々の議論を経て決めていくのが本来の民主主義であろう。
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