2009年11月12日 (木)

血液型差別と人種差別は構造が同じ

かなり今さらなんだけど、最近また kukulog に ABO FAN 氏が出没し始めて、そこについたコメントで参照していた blog での議論を読んで思ったのがタイトルのようなこと。

本当は怖い血液型性格判断 (404 Blog Not Found)

「人種によって肉体的特性に差があること」と「人種によって待遇に差をもうけること」は区別しなければいけない。同じように「血液型によって性格に差があること」と「血液型によって待遇に差をもうけること」は区別されるべきだから、「血液型によって性格に差があること」は事実であっても「待遇に差をもうけること」は否定できる、という意見が気になった。

一見もっともらしいのだが、集団の問題と集団に属する個人の問題が「区別」されていないように思える。わざとぼかしているのかもしれないが。

三十一は血液型と性格に関連はないと思っているが、ここではそれは前提として必要ではない。仮に(百歩譲って、仮に)関係があったとしても同じである。
人種で例えると、人種甲と人種乙を比較したときに、人種甲のほうが有意に身体能力が高い(例えば足が速い)という結果が出たとしよう。これは「集団」間の比較である。この(仮定の)事実を知った上で、オリンピックの陸上代表に人種甲に属する甲1なる人間と、人種乙に属する乙1なる人間がともに応募してきたときに、あなたは「人種甲のほうが速いから」という理由で実際走らせて見もしないで甲1を選ぶか?
そんなことはないだろう。甲1は人種甲の中でも足が遅く、乙1は人種乙の中でも飛び抜けて足が速いかもしれない。実際に走らせてみたら乙1のほうが甲1よりも足が速かったということは充分あり得るのである。

血液型性格判断は、実際に走らせても見ないでオリンピック代表選手を選ぶのに似ている。血液型を元にして配置を決めている、などという会社は従業員各々の特性や長所短所を把握する能力が無いということを自ら宣伝しているようなものだ。

もしどうしても血液型を基準に判断したいのであれば、例えば血液型がA型である人間のうちどんなひとりを選んでも(ANY)、A型以外の血液型の人間の誰よりも(EVERY)几帳面である、という命題が成立する必要があるのだけど、どんな頑固な血液型信奉者でもそこまでの強い主張をするとは思えない。

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2009年7月18日 (土)

どうせこれも捏造って言うんだろうなあ

Historic Apollo landing sites imaged by new lunar orbiter (spaceflightnow.com)
月面着陸「捏造」論争に終止符? アポロ足跡を撮影 (asahi.com)

もともと「論争」と言えるほどの論争でもなかったんだが、どっちにしろ「捏造」論者は厳密な証拠調べをして判断しているわけでもないし、この写真をも「捏造」と言い出す人がいるんじゃないかな。どうせそういう人はどんな動かぬ証拠を持ってきても信じないのだ。

たしか「かぐや」でも月着陸船が離陸するときの噴射ガスの痕跡らしいものを見つけた、という発表があったと思うけど、今度は明らかにNASAが狙って動かぬ証拠をとりにいったものだろう。よほど「"捏造"論」に辟易しているものと思われる。

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2009年6月28日 (日)

ゲルマン民族とはあまり関係がない

たまたま発見したのがドイツ人で、だからゲルマニウム (Germanium) と命名されたのが元素番号32である。半導体として知られているけど、むしろ有名なのは「健康」器具の材料としてだろう。

ゲルマニウムは効かないよ (kikulog)
ブレスレットは効かないだけだが、食べると実害のあるゲルマニウム (忘却からの帰還)

金属ゲルマニウムを身に付けていたからといって、何か効果があるかもしれないと思えるところがすでに三十一にはよくわからないのだがなあ。ゲルマニウムは安定元素だから何か出てくるわけでもないし、経皮吸収されるなんて話も聞いたことがない。電子が放出されるなんて与太ごとを書いている業者もあるらしいが、電子が出てるってβ崩壊してるってこと? そんなもん一瞬だって身に付けたくないですわ。

なお、ゲルマニウムを口にするのは「やめたほうがいいこと」に分類される行為で、ゲルマニウムを含む「健康食品」を摂取していた人の中には死者も出ているとか。身に付けても効果がなく、食べるとキケンな代物がなんで「健康によい」と思われるようになったのか、その「都市伝説」の形成過程にはちょっと興味があるけどね。

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2009年6月 4日 (木)

科学は人類を不幸にしたか

ちょっと前までなら「仮にも新聞記者が」と思ったかもしれないが、今となっては「新聞記者の言いそうなことだ」と思うような記事。

発信箱:むなしい科学 (毎日.jp)

三十一が知ったのはこの blog から。

"天然"かもしれない (忘却からの帰還)

化学物質と無縁の生活が不可能なように、科学の成果とまったく無縁の生活は難しい。結論を言ってしまうと、科学によって人類は恩恵を受け、かつ問題を抱え込んだ。それでも総体として利点のほうが大きいからこそ、科学の進歩は続いたのだろう。

かなり前、科学の功罪について議論をしたことがあった。
そのとき「医学の発達で死亡率が下がり、農業の発達で飢えることがほとんどなくなったのは科学の功績だ」と言うと、相手は「『科学』と言われて医学や農業は思い浮かばなかった」と答えた。

そうかもしれない。
科学というと最先端の電子機器や遺伝子操作や原子力をまず思い浮かべるのだろう。だが科学の恩恵はもっと広く深い。だからこそその影響も広く深いのだ。

はてぶのコメントにもあったけれど、もし科学と完全に無縁の生活を送っていたならどうなっただろう。毎年風邪をひいていた三十一は、現代の目から見れば何でもないような風邪できっと大人にもなれずに死んでいた可能性が高い。そうでなくても、身体の丈夫でない三十一は食料を確保できずに野垂れ死んでいただろう。三十一が今ここにこうしていることこそが科学の恩恵だ。中にはそれを「科学の罪だ」と思う存在もいるかもしれないが。

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2009年5月20日 (水)

健康のためなら死んでもいい

いまどきはインフルエンザが流行の先端だが、天然痘が「根絶」されたのは三十一が中学生のころだったかな。数ある感染症のなかでまず天然痘が標的に選ばれたのは、その影響が深刻だったことの裏返しである。

死への恐れの前に敗北する神 (忘却からの帰還)

かつてのキリスト教社会では天然痘は「人類に神が下した鉄槌」と見なされていた。この教義に厳密に従うと、天然痘を予防するための接種を受けることはすなわち神の意志に逆らうことになる。1885年のこと、カナダはモントリオールで天然痘が流行した。プロテスタントの教会は接種を受け入れたが、カトリックは拒否した。その結果は推して知るべし。

この記事を読んで三十一は、アフリカから無辜の民を拉致して奴隷として酷使した「文明社会」の論理を思い出した。彼らによると、奴隷となった人々は肉体の自由は失ったかもしれないが、これまで知らなかったキリスト教の「真理」を知り、精神の解放を得た。これは失った肉体の自由を補って余りあるものであり、結局は奴隷自身のためである、というのである。現代の目から見るとまったく噴飯物の議論なのだが、「キリスト教」のところを「将軍様」に置き換えると現代でも(ごく一部で)通用していそうだなあ。

もうひとつの連想としては(こちらのほうが記事の筆者の意図するものだろうけど)、インフルエンザワクチンにリスクがあることは事実であるとしても、それを理由にしてワクチン接種を拒否するのは本末転倒である、ということだ。確かにリスクはゼロではない。だが必要なのは、それぞれの発生確率も含めたリスクとベネフィットを正確に比較判断することだ。目前に見えるリスクだけを評価して、その先にあるベネフィットに目を向けないのは公正な評価とは言えない。それは「神の怒り」を恐れて天然痘に無防備な身をさらすような行ないである。

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2009年5月 9日 (土)

化学物質と無縁の生活は可能か否か

駅前のファストフードでひとり寂しく(実際には別に「寂しい」などと思ったりしないのだが)晩飯を食っていたときのこと。最初は隣席のカップルの会話がうざったいなあと思っていたのだが、そのうちその向こうの窓際の二人連れの会話が耳につくようになってきた。正確にいうと、学生とおぼしき女子に向かって得々とまくし立てている、それより少し年嵩の男の話の内容が気になったのである。

それは「環境ホルモンがどうのこうの」とか、「性同一障害」がどうしたとか言う、あからさまに怪しげなセールストークだ。ずいぶん前に同じようなセールストークをア○ウェイのセールスマンから聞いたことを思い出した。
ところで環境ホルモンは実はそれほど問題にするような影響はないことがわかっている。マスコミは「問題がありそう」というときは騒ぐけど「問題なかった」というときは放置を決め込むのであまり知られてないけどね。

そうこうしているうちに問題の彼が聞き捨てならない一言を口にした。

カガクブッシツってのは、人間が作った物質のことなんだよ。

ハイそれ間違い。
人工的に合成された物質は確かに化学物質だけど、化学物質のすべてが人間が作ったとは限らない。ある命題が真であったとしてもその逆が真とは限らない、というのは基礎の論理学ですな。そもそも、身の回りの物質はすべて化学物質である。水でさえ H2O という立派な化学物質だ。

例えば「自然」の代名詞ともいうべき無農薬栽培でさえ、微視的には土中の水や窒素化合物やリン酸といった化学物質と、空気中から取り込んだ二酸化炭素という化学物質を反応させて、有機物という化学物質を生成する、化学合成作用だと言える。

彼はさらに畳みかける。「現実的には、化学物質とまったく無縁な生活は無理なの」

そりゃあ、そうですなあ。
「化学物質」の歴史は人類はおろか地球よりも太陽系よりも古いのである。「化学物質と無縁な生活」なんてこれまで一瞬だって実現したことはない。

いや、言いたいことはわかるんだけどね。言葉の選択がおかしいのですよ。細かいことを言うようだけど、用語を不適切に使う人間には理屈が通じないというのは、かなり確度の高い経験則なのでね。

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2009年4月 9日 (木)

知っているからと言って理解しているとは限らない

先日も紹介した blog で、7回におよぶ連載記事が掲載されている。まだ連載中なので、初回にリンクをはっておこう。

自然選択を理解していない米国人 (1/7) (忘却からの帰還)

日本人の多くは進化論を信じていると思う。しかし進化論の神髄である「突然変異」と「自然選択」の仕組みをどれだけ理解しているか。「自分は進化論を理解している」と思う人は是非この記事で紹介されている設問に挑戦してほしい。

実は三十一はこの記事を読んで、少なからず自信喪失したのだ。真の「科学の子」への道のりはまだまだけわしいなあ。

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2009年3月13日 (金)

知ることと感じることのギャップ

普段よく読んでいる blog だが、今日の記事は特に興味深い。

科学への抵抗感についてのレビュー論文 Bloom and Weisberg[2007] (1) (忘却からの帰還)

リンク先のふたつの図を見てほしい。曲がった管からボールが飛び出したときに、そのボールの描く軌跡は A B どちらになるだろうか。
中学校の理科で習う「慣性の法則」を知っているなら、A が正しいとわかるはずだ。しかしそれでも、感覚的に B のほうがもっともらしいと思えてしまう。「科学の子」をめざし、「神」を信じず「エネルギー保存則」を信じる三十一でさえ、A には違和感を感じてしまう。

ちょうど、と言うべきかどうか、こちらでは「面倒なので科学的根拠をいちいち考えず、もっぱら直感に頼っていてそれで人生うまくいく」と放言する人物が登場。

報道ステーションでホメオパシー (kikulog)

三十一の経験では、経験の裏打ちのない「直感」は単なるあてずっぽうにすぎず、しかも理屈に合わないことがほとんど。しかしそういう人に限って根拠のない自信に満ちているので始末に悪い。

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2009年2月20日 (金)

最後の追い込み

しばらく動きが無いと思っていたら、一気に追い込みがかかったぞ。

何の話かというと、ABO FANさんの話である。(ABO FANさん用2: Interdiciplinaryな掲示板)

この話を始めたときに最初に書いたエントリではあちこちにトラックバックを送ったんだけど、その続きのエントリではトラックバックしていなかった。そう何度もトラックバックしてもなあと思ったからだが、TBを送ったエントリだけが妙にアクセス回数が多かったのは、短期訪問者が多かったんだろうなあ。それも今は落ち着いたみたいだけど。

閑話休題。
"143 zorori 2009/02/19 20:41" でまとめられているけど、しつこいくらいに「論理(理論ではないので注意)」「理論(論理ではないので注意)」と繰り返しているのは、三十一が指摘していた通り論理と理論の混同が根本的な問題であると言っているのだろう。
まあこの程度のことはまともな思考回路の持ち主なら当然気づくことなんだけどねえ。逆に言うとこれに気づかないってのはどういう思考回路を持ってるんだか不思議でならない。

この前後の zorori さんと lessless さんの追求はかなり決定的で、ABO FANさんの説明の根本的な問題を浮き彫りにしている。これで ABO FANさんもついに年貢の納め時か。

などと考えるのは実はまだ早い。これまでABO FANさんはあちこちで袋だたきにあって一時的に撤退しながらも気がついたら別のところで復活していた、というのを繰り返しているからねえ。

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2009年2月 6日 (金)

再帰的論理構成の妙

あまりに楽しいので、もう少し続けよう。ここで「楽しい」というのは「愉快」というよりむしろ「滑稽」のほうがしっくり来る。

何の話かというと、もちろん ABO FAN さんの話である。(Interdisciplinaryな掲示板・ABO FANさん用2)

ちょっとおさらいしてみよう。
ABO FANさんの主張(主張の中身はこの際関係ない)は、論理と現実のデータから構成されているので、論理だけ否定しても意味がない、と ABO FAN さん自身が発言した。論理と現実のデータは車の両輪のようなものだ、と。
しかし主張の根拠となる論理と現実のデータは、両方正しくないと主張が正しいとは主張できない。論理 AND データが必要なのであって、論理 OR データでは無意味なのだ。

これに対する ABO FAN さんの反論はこうである。
>#23 ABO FAN. 2009/02/03 00:12
>新しい論理なら、既存の論理と矛盾するのは当然でしょう。 
>問題は、どちらが現実のデータを矛盾なく説明できるかどうかなのです。

>40 ABO FAN. 2009/02/04 00:40
>どんな珍妙な説でも、現実のデータが矛盾なく説明できれば「正しい」ということになります。

そして前回も引用した、

>59 ABO FAN. 2009/02/04 22:27
>現実も、データから新しい理論が生まれたわけですし。

読めばわかるが、論理→説明→理論と用語が変わってきている。一見すると同じ内容を別の言葉で言い換えているように見えるかもしれないが、この単語のすり替えには意味のすり替えが含まれている。
実はここで言っている「新しい論理」「珍妙な説」「新しい理論」というのは、まさにそれこそが ABO FAN さんの新規に提唱している説で、「主張」である。

あれあれ?
主張の根拠は論理とデータだったよね。この論理が実は主張そのものだったとすると、主張の根拠(のうち半分)が主張そのものであるという妙なことになってしまうのである。ニワトリが先か卵が先か・・・

「車の両輪」のアナロジーを使って例えるならば、「データ」と「論理」の両輪で支えられた車に乗っている「主張」氏だが、両輪のうち「論理」が外れてしまったので、「主張」氏は車に乗ったままで「論理」の代わりに手で車を支えている、という状態。

本当にできるもんならやってみてくださいな。

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2009年2月 5日 (木)

論理≠理論

こちらで取り上げた件について、ABO FAN さんが反論している。

これが不注意な人が聞き流すと一理あるように聞こえてしまうような言い方なのだ。もちろん、注意深い人間にはまったく通用しないような言い訳なのだけどね。
逆にいうと、言葉の意味に無頓着で不注意な用語の使い方をしている ABO FAN さんはこれを本気で信じているかもしれないという恐ろしい(でもかなりの確率で正しい)想定がなされるのである。統計をとって検定したわけじゃないけどね。

もっとも典型的なのが掲示板その2の #59。

>59. ABO FAN 2009/02/04 22:27
>メタ版の#171から再掲します。
>
>・光は粒子かつ波動である
>・重力によって空間は湾曲する
>・高温超伝導物質が存在する
>・位置と速度を同時に正確に測定することはできない
>
>これって、データなしで説明できるとは、私には思えません。
>現実も、データから新しい理論が生まれたわけですし。
>血液型と性格も同様と思いますが?
(強調は引用者)

おーい、いつのまにか「論理」が「理論」にすり替わってるよー。

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2009年2月 1日 (日)

半分=全部

ちょっと前に kikulog で「活躍」していた ABO FAN さんが、今度は TAKESAN さんの blog で「活躍」している。

コメント欄では議論がまとまらないので(なにしろ kikulog でも3000近いコメントになってしまったくらいだから)、レンタル掲示板に場を移してやりとり(議論ではない)が続いている。
その論理の破綻っぷりは Judgement さんがまとめているのでそちらを参照していただくとわかりやすいのだが、それにしても今日みつけたこの発言には正直ぶっ飛んだ。

>969 ABO FAN 2009/01/31 18:44

>いままでzororiさんの反論では、半分の否定にしかならないんですよ。
>というのは、私の主張は、論理と現実のデータが両輪だからです。
>失礼ですが、論理だけ否定しても、あまり意味がないかと…。

うわー。これはびっくり。

主張=論理+データ

であるときに、そのうち論理が否定されたらそれは主張の全否定を意味するんですが。データが否定されたときも同じですよね。

追記:

掲示板が「その2」に移行し、最後のほうのエントリのうちいくつかがこちらに再掲された。上に挙げた内容も #6 に再掲されている。

改めて考えると、以前から ABO FAN さんが論理の話をしている途中で「血液型の話じゃないですよね」と別の話に移ってしまうのが不思議でしょうがなかったんだが、こういう発想の持ち主だとわかると理解できた。もちろん同意はしない。

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2008年11月21日 (金)

もひとつ、お先に失礼

今日、久しぶりに松浦さんの blog L/D が更新されていたと思ったらどっかで聞いたような内容で、最後までめくってみたらやっぱり先日三十一が触れたのと同じ blog に触発されて書いた記事でした。

我、如何にして占いより脱せしか (松浦晋也のL/D)

三十一はあまり占いにハマったことはない(単に忘れているのかもしれないが)と思うけど、実は一時期筮竹を習おうかと思ったことがある。あの竹ヒゴの束をジャラジャラやって占う、あれだ。別に本気で占い師になろうと思ったわけではなく、たまたま中国思想にハマっていたときに儒教の基礎教典のひとつである「易経」に関連してちょっと試してみた程度のことである。
ただ「易経」の経文や解説などを読んでみると、なんだか漠然としたことしか書いていない。それを実際の状況に応じて読み解くのは占者の力量だ、などとそれらしいことが解説に書かれていたけれど、要するに何も決まったものはない、ということだねえ。

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2008年11月18日 (火)

Astrology と Astronomy は似ているが違う

Astronomy: 天文学
Astrology: 占星術

~logy のほうが「術」だというのは不思議な気がするが、単に古くからあってそれらしい呼び方をとられてしまったということだろう。

アシモフがある会合で女性に天体の話をしたら「まあ素敵。あなたも占星術を信じてらっしゃるのね!」と言われて絶句したとかいうエピソードをエッセイで紹介していたけれど、そういう会合ならともかく、kikulog に占星術信者が乱入するのはまったく場違いだ。

「超能力番組を10倍楽しむ本」山本弘 (kikulog)

ま、トピのタイトルはほとんど関係ないけど。

当人は科学者に占星術を信じさせようと思ってるのかねえ。風車に突進するドンキホーテみたい。痴人の夢ですな。

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2008年10月 5日 (日)

「ネタにマジレスすんな」撲滅キャンペーン

kikulog できくち先生がこんな「キャンペーン」を始めた。

「ネタにマジレス」とか言って勝った気になっているようでは、単に自分のダメさ加減を世間に知らしめているだけだから (kikulog)

いやまったく同感です。三十一も以前のエントリで同じようなことを書いている。

渋滞する惑星

自分がきくち先生と同じことを考えていたと知って、ちょっと自慢したくなりました。

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2008年7月14日 (月)

常識と非常識のはざまで

911陰謀論でもアポロ捏造論でもいいが、こういう(本来の意味とは違う)懐疑主義者の思考傾向は興味深い。とはいえ、ちっとも面白くはないんだけど。

たとえば911のケースでは、WTCのビルの壊れ方が不自然に見えるというところから始まって、あのビル崩壊は実は飛行機の衝突によるものではなくあらかじめ仕掛けられた爆薬による制御解体だったのではないか、ひいてはイスラム過激派によるテロだったというのはウソでアメリカ政府による自作自演だったなどという主張に至っている。

アポロの場合、宇宙飛行士の歩き方がまるでワイヤーで吊っているようだとか、遠くの景色が妙にはっきり見えてまるで書き割りのようだとか、空が黒いのに星がまったく写っていないのはおかしいというところから、あれは実際に月には行っておらず地球上で画面を合成したのだなどと言う。

911でもアポロでも、まず最初は印象である。「不自然に見える」「吊っているようだ」「書き割りのようだ」「空が黒いのにおかしい」。これらは要するに受け取る側の「感じ方」であって、その感じ方はそれぞれの人間のこれまでの経験に依存する。別の言い方をするならば、その観察者の「常識」に反しているために違和感を感じる。だけどその「常識」って本当に正しいのか?

WTCにしたって、あの規模の建造物が事故にしろ制御解体にしろ崩壊する場面を911以前に見た人間はいない。もっとずっと(WTCに比べて)小さなビルの制御解体から類推してるにすぎない。そもそも、普通のビルにしたって事故で崩壊する場面などというものは滅多に見るものではない。何が「普通」かもわかっていないのに「おかしい」と判断する基準は何だろう。

同じように、真空で重力が地上の6分の1しかない環境で数10キロにもおよぶ宇宙服を着込んだ人間がどんなふうに動くかをアポロ以前に見たことがある人間はいない。面倒なのでいちいち説明しないけど、遠くの景色がはっきり見えるのも暗い空に星が見えないのも「真空」ということで説明できる。空は暗いけど昼間なんですよ、あれ。

もちろん、一般の人間がそんな環境のことを詳しく知っている必要はない。人間の「常識」は空気があり重力加速度が 9.8kgw である環境に最適化されている。つまり人間の「常識」は環境に大きく制約されているのだ。前提が異なる環境では「常識」は常識ではない。そこでは非常識が常識となり、常識が非常識となる。

「高度に発達した科学は魔法と見分けがつかない」という有名な言葉がある。多くの人にはいまさら説明不要だろうがさきごろ亡くなったSF作家クラークの言葉だ。「魔法と見分けがつかない」というのは「現実のものとは思えない」、つまり「常識に反するふるまいをする」ということだろう。地上以外の環境での「常識」との違和感は多く「環境の相違」に起因しているが、地上でみられる現象での違和感は大部分スケール感の欠如、と言ってまずければスケール感の差異に起因しているように思う。例えばWTCにしてもそうだ。あの規模の高層建造物を10階建てのビルとまったく同じ構造でただタテに引き延ばしたとしたら、自重でとても立っていられないだろう。生物の進化が「まるで意志があるように見える」のは、膨大な試行錯誤のうち結果を残した部分だけが見えているからだ。

これほどさように「常識」はあてにならない。「おかしいと感じた」ときには果たしてその前提は正しいのかどうかまず自分の感覚から疑ってみることが必要だろう。

と、さんざん「常識」をこき下ろしておいて矛盾するようだが、特に911陰謀論者が駆使するロジックはまったく「常識」に反している。上述した通り、陰謀論者の主張の骨格は、WTCの崩壊は制御解体によるものでテロは自作自演だったとするものだ。率直に言ってこの主張はできの悪い「あと出しじゃんけん」に過ぎない。テロリストの立場に立って考えてみよう。これが仮に誰かの自作自演だったとしてもテロリストに原因をかぶせようとしてるのだから同じことだ。

そもそも、WTCを崩壊させる必然性はどこにある?

飛行機を突っ込ませて多数の犠牲者が出れば目的は達するのだ。結果としてWTCが崩壊してしまったのは瓢箪から駒のようなもので、もともと想定していたものではなかった。911以前に飛行機の衝突でWTCが崩壊すると考えていた建築学者は誰もいない。想定していなかったから研究もなかったのが実態だ。911陰謀論者は、飛行機の衝突でWTCが崩壊してしまったのを「おかしい」と感じたわけだ。「おかしい」と思われそうな仕掛けを誰が仕掛けるものか。

三十一がもし陰謀をたくらむなら、ひそかにテロリストに手を貸してハイジャックが成功するように仕組むだろう。WTCに爆薬をしかけるなんて手間のかかる露見のリスクが高い作業はしなくてすむし、成功しても失敗してもテロリストは「自分が自分の意志でやった」と信じているからバレにくいし自然だ。
それだとWTCは崩壊しないかもしれないけど、それで何か問題がありますか?

WTCに飛行機が突っ込んだけど建物の崩壊までには至らなかったとして、ブッシュ政権はアルカイダへの攻撃を手控えたと思うかね?

常識を疑うべき場面では疑い、常識に従うべき場面では従うべきだろう。その区別をするために必要なのは「常識」、かな。

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2008年7月11日 (金)

あの騒ぎは何だったのやら

なんだかなあ。

「異常行動とタミフル関連なし」 1万人調査で厚労省 (asahi.com)

転落事故などを受けて厚労省は昨年3月から、タミフルの10代への使用を制限。三つの調査を進めてきた。他の動物実験や臨床試験でも服用と異常行動の関係は示されておらず、厚労省は今後、出そろった三つの調査結果をもとに、措置を継続するかどうか方針を決める。
今回の調査では、07~08年にインフルエンザで受診した9715人について解析。タミフルを服用した7487人のうち、異常が現れたのは11.9%の889人。一方、服用しなかった2228人でも12.8%の286人に異常があり、割合は変わらなかった。

「タミフルを服用した患者のうち1割に異常行動がみられた」という報道それ自体はウソではなかった。しかし「タミフルを服用しない患者にも1割で異常行動がみられた」という事実を同時に示さないとまったく意味が変わってしまう。
これから得られる結論は、若いインフルエンザ患者はある割合で(おそらく高熱のために)異常行動を起こすことがある、ということだろう。それはタミフルの服用の有無には関係なく起きる。つまりタミフルだけを悪者にしてきたこれまでの報道は誤解を招くだけだった。

これは単に無実のタミフルに罪を着せた、というのにとどまらない。タミフルさえ飲まなければ大丈夫という誤った対応をとらせることになる。冤罪の影には裁きをうけずにすんだ真犯人が隠れているのだ。

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2008年6月24日 (火)

騙されたほうが悪いのか

先日とりあげた「ウォーターエネルギーシステム」について、kikulog で興味深いやりとりがされていた。

ウォーターエネルギーシステム、水発電 (kikulog)

コメント番号105あたりから始まった展開だけど、最初から読んだほうが流れが分かりやすいと思う。
kikulog ではよくある展開の、大勢に異を唱えて袋だたきに合うというパターンだが、要は日経の記事をどう評価するかというものだ。三十一も問題の記事を改めて読んでみたが、確かにちゃんと読めば読み取れるくらいの内容は書かれている。「言い分垂れ流し」というほどひどい内容でもなかったと思う。
会社の発表(と日経の記事)だけでも、この「製品」がうさんくさい代物であることは読み取れる。それについては(袋だたきにあった当人も含めて)kikulog 中での認識は一致している。ではどこに差があるかというと、

「この記事で自分は充分理解できた。それで騙されるようなやつは騙されるほうが悪い

と、

「この記事で自分は充分理解できた。だけどこの見出しの付け方は誤解を招くよね

の違いだ。

これは要するに「自己責任」の範囲を広くとるか狭く見るかの考え方の違いに由来する。それぞれの「考え方」の違いでロジックではないからお互いに歩み寄るつもりがないと絶対に話がかみ合わない。常連の側には kikulog という場でのマジョリティであるから譲る気はなかった。いっぽう、袋だたきにあった側もまったく譲る気配がなかった。結果は御覧の通りの喧嘩別れ(一方的な撤退宣言)である。

三十一のみるところ、日経の記事の問題(があるとするなら)は、上述の通り見出しのつけかただ。「水と空気だけで発電」は明らかに間違いであるし、実際に間違いだった。「大げさ」どころの話ではない、はっきりとした「ウソ」である。kikulog を見るかぎり、誰もが「おかしい」と感じるくらいのわかりやすい「ウソ」だった。この見出しだけを見て騙されるような人間が出たとして、「騙されるほうが悪い」と思うか「騙されるような見出しをつけるほうが悪い」と思うかの違いが、この興味深い、しかし不毛なやりとりをうんだ。

よく知られている通り、菊池教授は「ニセ科学」に強い問題意識をもっていて、この「ウォーターエネルギーシステム」についても「ニセ科学」の文脈で話をしている。また有り体に言ってしまえば、kikulog はその菊池教授の意見表明の場であるから「危機感などない」という人間を受け入れる余地がない。「ニセ科学」に対抗するためには一般の科学リテラシを高めることが必要だから、kikulog に一貫しているのはいかにして一般の科学リテラシを高めるかという命題である。そこに日経のような「一流」マスコミがリテラシに欠けた見出しをつけた記事を配信したのだから批判されるのは自然な成り行きだった。その場で「リテラシが低いのは本人の責任だ」という発言をするのは「KY」としか言いようがない。

三十一の考えを簡単に述べてみよう。前に書いたことにも通じるのだが、自己責任の範囲を広くとりすぎるのは、アダムスミス流の素朴な自由資本主義を信奉するのと同じで逆に非現実的だと思う。「騙すのも騙すのも自己責任で」という考えを突き詰めていくと、最終的には逆に損失となるだろう。払い戻し率の低いギャンブルみたいなもので、一部の人間は儲かるかもしれないが、大多数の人間は損をすることになる。自分は「一部」のほうに入ると思っているかもしれないが、「大多数」になってしまった人もみんなそう思っていたのだよ。もしそうなっても文句を言わないように。「自己責任」だからね。

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2008年6月19日 (木)

進化論と創造論とIDとNHK

興味深い研究成果が論文発表された。

E-Coli実験に情けない反論をするインテリジェントデザイン理論家Michael Behe (忘却からの帰還)

ひとつの大腸菌とその子孫を20年間、4万4千以上の世代を観察して、もともとの大腸菌が持っていなかった「クエン酸を利用する」という形質を獲得したことを確認した、という画期的な(と三十一は思うのだが)研究である。

この研究を行なった Lenski は500世代ごとに大腸菌を冷凍保存していて、必要に応じて「時間をさかのぼって」観察できるように準備していた。さまざまな世代、さまざまなグループの大腸菌を解凍して培養を再開させ、「クエン酸を利用する」新しい形質が獲得されるかを調査したところ、あるグループの特定の世代以降から繁殖したグループのみがこの形質を獲得し、それ以外のグループではこのような進化は起こらなかった。すなわち、この時期に起こった何らかの変異が「クエン酸を利用する」形質の獲得を導いたということになる。

まあ実験の詳細はいいだろう。細かいことが知りたければ原論文にあたってください。三十一もそこまでは読むつもりがない。

アメリカで「進化論ではなく創造論を学校で教えるべきだ」という主張があることを報道などで知っている人は少なくないと思う。日本人から見ると荒唐無稽としか思えないが、一定の支持は得ているようだ。しかし宗教と理科を混同させるこの種の主張で建前としての「政教分離」を突破することは難しい。そこで考え出されたのがID(インテリジェントデザイン)説だ。これは様々な種が何らかの知性を持った(インテリジェント)存在によって創造された(デザイン)というもので、誰が見たって創造論の言い換えに過ぎないのだが、ID論者は「インテリジェントな存在は現在のところ未知であって、神だと主張しているわけではないから宗教ではなく、ID理論は進化論と同列の科学的な仮説である」と強弁している。

Lenski の実験はインテリジェントな存在の介入なしに大腸菌が新しい形質を獲得したことを示している。おそらく初めて進化そのものをリアルタイムで観察した実験だろう。そういう意味で非常に画期的だ。創造論者に対する強烈な一撃と言えよう。

日本では、創造論が市民権を得ることはまずないだろう。生物が進化によって単純なものから複雑なものを生み、その末端に我々人類があることは一般常識になっていてそれに疑問を呈する人はほとんどいない。

だから日本ではアメリカみたいな心配はしなくていい、などと思っていると大間違いで、実は最近三十一は日本人の進化論理解にすごく不安を感じているのである。
例えば日曜の夜、大河ドラマの前に流されているドキュメンタリー番組などでもよく見られる論調なのだが、「~の目的のために~と進化した」と単純化した説明がされることが多い。「高いところの葉を食べるためにキリンの首は長くなった」といったたぐいだ。この説明自体が直ちに間違いというわけではないが、重大な誤解を招くおそれがある。これではまるで個々の生物の意志が進化をもたらしたみたいではないか。

進化の過程は世代を通じて進行していくということを忘れてはいけない。ある特定の個体が高いところの葉を食べたいと思ってがんばって首を伸ばしたとしても、そういう後天的に獲得した形質は遺伝しない。遺伝しない形質は進化に寄与しない。意味がないのである。進化するためには、変化を遺伝子に書き込む必要がある。残念ながら個人の努力の結果は遺伝子に書き込むことはできないのだ。

変化をもたらすのは突然変異だ。突然変異はまったくランダムに起こる。キリンの突然変異は、首を長くする方向へも短くする方向へも平等に発生する。ゾウの鼻も、個々に見れば短くなっても不思議ではない。突然変異とはそういうものだ。
その突然変異をある方向に方向づけるのが適者生存である。突然変異は、環境に適する方向にも適さない方向にも平等に働く。しかしたまたま不適な形質を与えられて生まれた個体は適応できない。したがってこの不適な形質は生まれては来るけれど長続きしない。適応した方向の形質を与えられた個体のほうが生存に有利だ。この差はそれほど顕著なものではない可能性がある。あるグループは100のうち50が生存するのに対し、別のグループは100のうち51が生存する、くらいの差でしかないかもしれない。しかしこのわずかな違いも無数の世代を経る間に進化として目に見えてくる。
進化の過程の裏には、繁栄してきた種の何倍もの適応できず子孫を残すことができなかった種と個体があったに違いない。そうした無数の犠牲の上に立って今我々がいる。

そういや、やはりNHKの爆笑問題の番組で「いまもう進化しきっちゃってるじゃないですか」などと言っていたけど、いまの状態が進化の途中であると(途中でないと)誰に言えるというんだろう。これも「目的が先にあって」それに合わせるために進化がすすんでいくという誤解に基づいているに違いない。
もっとも、これからもヒトという種が進化をつづけていくかというとちょっと疑問があって、つまり多少の不適な変異であっても生存にあまり影響しないようになっているように思える。よほどのことがないかぎり適者生存が機能しなくなっているわけで、そうなると進化も停まっちゃうのかなあ。

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2008年6月14日 (土)

うまい話には気をつけろ

触媒を使って水と空気だけから水素をとりだすことに実用化したと称する企業があらわれ、マスコミなどで取り上げられている。

水から電流を取り出すことを可能にした新しい発電システム「ウォーターエネルギーシステム」を見に行ってきました (Gigazine)

取り出した水素は酸素と反応させて電流を生み出すという。この個所は要するに燃料電池であって目新しい技術ではない。やはりキモは水から水素を取り出すところだろう。

さて高校レベルの物理化学の知識があればわかることだが、企業側の説明が正しいとするとこれは永久機関だ。燃料電池の生成物は水である。水から水素を経て水を作る過程で電流エネルギーを得ているとしているが、原料である水と、生成物である水とエネルギーを差し引くと残るのはエネルギーだけになる。なにもないところからエネルギーが湧いて出てきたわけだ。これはエネルギー保存則に反する。

すでにいろんなところでツッコミが入っていてとてもいちいち挙げていられないので、上記 Gigazine の後続記事にだけリンクを張っておこう。

真偽判断に役立つ「ウォーターエネルギーシステム」に対する各報道陣からの質疑応答いろいろ、そして現時点での結論 (Gigazine)

いろいろな情報を総合すると「触媒」と称する金属と反応して水素を生成しているらしい。だったら、その金属は「触媒」じゃなくて「燃料」じゃないか。この金属が反応しきったら水素生成はとまる、と企業側も認めたようだ。だとしたら「水と空気だけ」というのは看板に偽りありと言わざるを得ない。

この騒動を見て思ったんだが、いわゆる「一般の人たち」は、「エネルギー保存則」をちょっと甘く見てないかい。「『無から有は産まれない』という理屈はわかるが、いずれ科学が発達すればどうにかできるんじゃないか」とか考えていないかい。冗談じゃない。
ふつう時間や空間は不変のものであるように思われているが、それをぶちこわしたのがアインシュタインである。ではなぜアインシュタインが時間や空間を不変の地位から引きずり下ろしたかと言えば「エネルギー保存則と辻褄をあわせるため」という見方もできるだろう。科学者にとって「エネルギー保存則」の大原則を守るためなら時間や空間を曲げることも厭わない。それは過去から現代まで、われわれの物理法則理解がすべて「エネルギー保存則」の上に成り立っているからであって、それをひっくり返すくらいだったらまだ時間空間を再解釈したほうがはるかに影響が少ないと考えているのだろう。

誰かが言っていたけど、もしこの会社の「発明」が本当だとしたらクリーンエネルギーどころの話ではなく、ノーベル賞どころの話ではなく、これまでの科学の歴史を全部チャラにするような大事件だ。マスコミ向けにデモなんかしてる場合じゃないですよ。

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2008年1月16日 (水)

恵方巻

昼飯を買うためにコンビニでレジに並んでいたら、「恵方巻」の広告が目に入った。予約受付中とのことである。クリスマスケーキとかお節料理ならともかく、恵方巻をわざわざ予約するヤツがいるのかなあ。
考えてみれば、ひと昔前にはこんな慣習はなかった。一部そんな慣習の地域がある、というのはいわばトリヴィアだったのだ。しかし最近ではコンビニばかりではなくスーパーでも節分近くになると太巻きを大量に並べ出す。ずいぶんと定着したものだ。

だがちょっと待てよ。
どう贔屓目に見ても、これは迷信だよね。科学的に根拠があると考えてる人はまさかいるまい。とすると、10年前にはなかった迷信が定着したということだ。これはよくよく考えてみると由々しきことじゃなかろうか。「売れれば迷信でもなんでもいい」と考える供給側と、それをあまり考えずに受け入れている消費者側という構図は空寒いものを感じる。

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2007年10月 1日 (月)

「科学は不確かだ!」

ずいぶん前に買って以来未読のままだったのだが、ナノイーイオンとか血液型性格診断だとかWTC制御解体説とか、そういった話題で菊池教授のblogがお祭り状態のようになっているのを見て引っ張り出してきた本。
説明するまでもないが、著者はノーベル賞も受賞した物理学者。世間一般でいう「科学者」の代表格と言ってもいいだろう。しかし、その著作を読むと「科学者」らしく見えない。「科学者」の代表格の言動が「科学者」の典型的なイメージと合致しないということは、要するにイメージのほうが実際と合致していないと考えるのが妥当だろう。そういや、菊池教授のblogでもかつて「科学者以外が考える科学者のイメージ募集」というトピックがあったっけ。

著者本人がつけたとしたら、このタイトルはずいぶん刺激的だが、実際には日本語版訳者がつけたもの。これは著作というより、講演を文章にしたものだから、そもそもきちんとしたタイトルがあったわけではなかろう。しかし、このタイトルは本の内容のうちもっとも重要で意外と思われがちな個所を抜き出したものといえる。

一般の人が「科学者」に抱くイメージと、実際の「科学者」の間の最大のギャップは、この点にあるかもしれない。実際のところ、「科学者」は「不確実だ」ということに慣れている。世の中には「不確実なこと」がいっぱいある。科学者の仕事は、まずその「不確かだ」ということを受け入れることから始まる。もちろん、科学者の目的は「不確か」な事柄を「確か」にすることだが、「確か」であることが確かめられるまでは「不確か」のままにしておくのである。当たり前のことを言っているようだが、実はこれが意外に難しい。「不確か」なままでいることに耐えられず、証明されていない説明に寄りかかって「確かだ」と事実を曲げた認識をするという例は珍しくない。しかしそれは「科学」ではないのである。

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2007年9月25日 (火)

"と"陰謀論

大阪大学の菊池教授のblogで一年近くも燃えさかっていた「ナノイーイオン」がようやく収束に向かったかと思ったら、今度は「WTC陰謀論」で盛り上がっている。世にビリーバーの種は尽きまじ。

古くからの読者はご存じと思うが、三十一は陰謀論というものを非常に嫌っている。もちろん、陰謀をたくらむような悪者はこの世に存在しないというほど善人なわけではない。陰謀はいつだってたくらまれているのだ。しかし、なんでもかんでも「アメリカ政府の陰謀だ」とか「ユダヤ人の陰謀だ」とか「フリーメーソンの陰謀だ」とか、そういった陰謀論で片づけようとする風潮、あるいはそういう趣向の人物は大嫌いである。こういう「トンデモ陰謀論」はニセ科学と似ており、究極的には単なる思考停止である。

特に三十一が「トンデモ陰謀論」を嫌うのは、結局のところそれが「逃避」にほかならないからだ。例えば「WTCの崩壊はアメリカ政府の陰謀だ」という人がいる。もし三十一がアメリカ政府の立場だったとして、あんな手の込んだ陰謀はリスクが高すぎて実際には実行できないだろうと考えるのだが、そういった技術面の評価はひとまず置こう。あのテロがアメリカの陰謀だとすると、その責任をアメリカの一部高官になすりつけることができる。つまり、イスラム過激派にテロを起こさせるほどの憎悪をアメリカ政府はその長年の政策によって買ってしまっており、そして日本もその政策を支持することでその責任の一端を負っていて、その政府を支持した日本国民にも責任がある、という事実から目をそらすことができるのだ。ねんのために言っておくが、責任があるから良いとか悪いとか言っているわけではない。単に責任があるということである。逆に「オレは自民党に投票しなかったから責任がない」というのも通用しない。このまま現状を維持して彼らの反感を買いつづけるというリスクを負うか、あるいは政策を転換して彼らの憎悪を軽減するための対策をうつか、あるいはより強硬策に出て彼らを絶滅させるか。選択と、その結果に対する責任はみんなが持っているものだ。

しかし「アメリカ政府の陰謀」にすれば、そういった責任を回避できるのだ。「悪いのはアメリカ政府だもん」というわけだ。自分以外の誰かに責任をおしつけるために、ちょっとでも疑わしい(と見える)証拠にとびつくのが「トンデモ陰謀論者」である。

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2006年12月30日 (土)

「トンデモ本の逆襲」

改訂新版。ある意味「ニセ科学」批判の古典でもあるけれど、上段にふりかぶって正面から批判するのではなく、トンデモぶりを笑って楽しもうという趣旨だから楽しんで読めばよろしい。

これまで読んでなかったのは不思議なくらいだけど、唐沢なをき(と唐沢俊一)の漫画でずいぶん前に知っていたので、すっかり読んだ気になっていた。
トンデモさんの言説を本で読んだりネットで見たりして笑っているうちはいいのだが、仕事上で相手をしなきゃいけないとなるとそうそう笑っても・・・げふんげふん。

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2006年12月23日 (土)

「まん延するニセ科学」

kikulog  を読んでいたら、この blog の主である大阪大学の菊池誠教授が NHK の「視点論点」に出演して「まん延するニセ科学」について語ったことを知った。
残念ながら三十一は見ていなかったので、再放送があったら是非見ようと思っていたのだが、翌日だったか同じ blog で「早朝に再放送があった」ことを知った。また見逃したわけである。

正直あきらめてかけていたが、YouTube に動画があっぷされていることがわかり、無事教授のご尊顔を拝することができた。しゃべっているうちにだんだん熱が入ってくるのが丸わかりで微笑ましかった(失礼)が、正直言って普段 blog で議論されている内容のほんの一部、さわりの部分を触れているに過ぎなかった。しかし、10分間という限られた時間の中で不特定多数の視聴者の注意を喚起し、問題の本質を説明するという目的には十分な内容であり、より大きな議論のきっかけを作るという役割は十分に果たしたと思う。

実際、YouTube へのブックマーク数はかなり増えており、NHK という日本中ほとんどの家庭にアクセスできるコンテントプロバイダーで放送されたことは大きい。先日、学習院大学の田崎教授がネットに出したアピール「水からの伝言」を信じないでください もかなりの反響を産んだが、まだまだテレビの力は大きいということか。ネットやコンピューターと普段あまり接触のない層にもアピールしたかもしれない。

注意しておきたいのは、菊池教授や田崎教授は単に「ニセ科学」そのものを問題視しているというよりは、「ニセ科学の蔓延を許してしまう土壌」にむしろ危機感を抱いているように思う。「土壌汚染」を食い止めるための手段として「ニセ科学」批判を行っているのだろう、と三十一は考えている。だから「そんなことをいくら言っても『信者』は考えを変えない」という批判は、菊池さんや田崎さんの懸念を読み違えているのだ。菊池さんたちのターゲットは「ボーダーライン上の人々」である。今回はその「ボーダーライン上の人々」に直接アクセスできた。それも NHK というまだまだ一般的には信頼度の高い(最近だいぶ評判を落としたが)メディアで流されたことは意義がある。

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2006年11月22日 (水)

「『水からの伝言』を信じないでください」を読んで考えよう

激しく今さらな気がするが、やはりリンクしておこう。

「水からの伝言」を信じないでください

三十一はこの趣旨に全面的に賛同する。

はじめ、この記事のタイトルを
  「『水からの伝言』を信じないでください」を信じよう
とするつもりだったのだが、やめた。

三十一が思うに、「水伝」が正しいか正しくないかは本質的な問題ではない。
もちろん、「水伝」が正しくないことは自明であろうと思う。
学校教育に使用することにも反対する。

しかしそれ以上に、そして「水伝」以前からしばしば三十一が苛立ちを覚えたのが、自分で考えることなく「誰々が言ってるから」「テレビでやってたから」「大企業が売ってるから」というだけの理由で簡単に信じ込んでしまう「思考停止」が蔓延していることだ。

このアピールを出しているのは学習院大学の物理の先生だが、「専門の学者が言ってるんだから信じちゃいけないんだ」というのも同様の思考停止である。

このアピールをきっかけに巻き起こった「反証実験」騒動も結局は問題の本質をどこにおくか、単に「水伝が正しいか正しくないか」を問題にするのか、それとも「水伝のようなニセ科学が一定の支持を得てしまうその背景」を問題にしているのかのズレが引き起こしたように思える。
「やって見せれば済むこと」という主張は知らず知らずのうちにその「思考停止」の陥穽に陥っているのだ。

だからタイトルを「信じよう」ではなく「読んで考えよう」とした。読んで判断するのは自分であり、その責任も自分にある。他者に判断を委ね、責任まで委ねようとするのは虫が良すぎる。

「水伝」に関するリンクはいくらもあるが、少なくともここは読んでおこう。
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1163435860

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