2012年11月 5日 (月)

安全を科学的に判定する

先日のこと、何のニュースだかはっきり覚えていないのだがテレビで「安全かどうか科学者にはっきり判定してほしい」とコメンテーターがのたまっていた。

三十一は反射的に「無茶ゆーな」とツッコミを入れてしまった。

リスクの大きさや確率を算出することは科学者にできるだろう。だが、そのリスクが許容できる(安全)かそれとも許容できない(危険)かを決めるのは人間の心理だ。つきつめれば「安全」は主観的なものであり、客観的な「安全」などはあり得ない。あるとするなら、多くの人間が同意する最大公約数的な「安全」くらいだろう。多数の合意を形成していくのは科学じゃなくて政治の仕事だよ。科学に押しつけるな。

こういうふうに判断を丸投げする輩にかぎって、あとで文句言うんだよなあ、三十一の経験では。

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2011年7月15日 (金)

言い訳 may "B"

部下が誰もついて来ない状況であっても、それでもやはり人間というのは出世したいものなのだろうか。権勢欲が希薄な三十一にはどうにも理解できない、われらが日本の現職首相の最近の言動である。

だから松本龍復興担当大臣が被災地の県知事に暴言を吐いて辞任に至ったのは実は総理を追い込むための一種の罠なんではないかと思わず勘ぐってしまう。

さてその辞任について日本国外でももちろん報じられているが、欧米のメディアでは松本大臣が辞任にあたって「自分は B 型で短絡的なところがあり」と述べたことに関心を引かれたようだ。

Japan Reconstruction Minister Ryu Matsumoto quits (BBC)

As for Mr Matsumoto he has blamed his behaviour on his blood group, B. That is not as outlandish as it may seem, many people in Japan believe blood type influences personality.

Type Bs have a reputation for abrasiveness. In Mr Matsumoto's case at least it has turned out to be well-deserved.

松本大臣の言動は「日本で信じられているようなB型の振る舞い」に合致していることは確かだ、ということだろうか。もちろんこのアナリストが述べているように "many people in Japan believe" なので裏を返せば「日本以外では信じられていない」ということだ。少なくとも BBC の本拠地であるイギリスではほとんど知られていないことは間違いない。そうでなければわざわざこんな説明をいれるわけがない。

性格や能力の長短を血液型のような先天的な属性に求めるのは、畢竟日本で「健全な個人主義」が充分発達していない証拠であろう。目の前の人物を評価するのに際してその人そのものを虚心に見るのではなく、何らかの属性に依存して判断しようとする。それは結局自分にしっかりした判断基準がなく自分以外の権威に依存していることにほかならない。また相手を一個の独立した人格として見るのではなくその「属性」を持つ集団(例えばB型)の中のひとりとしか考えない。「A型の人間を集めてプロジェクトチームを結成しました」などと堂々と(救いがたいことにしばしば誇らしげに)語る経営者が後を絶たないのは実に憂慮すべきことだと思うんだけど。
杞憂で終わればいいと思いつつも、「そんなの杞憂だよ」と言われると危機感がないようにみえてますます不安になる。

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2011年4月14日 (木)

キリンの首は高い木の葉を食べるために伸びた

メモ「目的論の例文」(忘却からの帰還)

「目的論」という言葉はそれほどなじみがないだろう。実は三十一もよく知らない。けれど例文をながめればなんとなくどういうことかわかるような気がする。この記事のタイトルもよく言われることだが同じく科学的には間違いだ。

もはや3年ちかくも前になるが、三十一も似たようなことを書いている (進化論と創造論とIDとNHK)。ある変化の結果得られた利益が、そもそもその変化の目的であったとは必ずしも言えないのだが、これを混同している人は少なくない。

これがただ単なる無理解から来たものであるなら「世の中には意外に馬鹿が多いなあ」で済んでしまう話なのだが、こういう論調があまりにも多く見られる現状からは、戦前の日本を破滅的な戦争に追い込んだ要因のひとつである「精神力への過度の信奉」が再度台頭してきたように思えてしまう。つまり、「すべての変化の原因にはなんらかの意志があったはずだ」というものだ。これは比較的簡単に「意志さえあればどんな変化でも起こせる」に転化してしまう危険をはらんでいる。
論理学的にはもちろんこれらの命題はすべて「偽」であるが、深く考えずに聞くとなんとなく「そうなんだ」と思ってしまうかもしれない。怪しいツボを買ってしまうのと似ている。

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2009年11月12日 (木)

血液型差別と人種差別は構造が同じ

かなり今さらなんだけど、最近また kukulog に ABO FAN 氏が出没し始めて、そこについたコメントで参照していた blog での議論を読んで思ったのがタイトルのようなこと。

本当は怖い血液型性格判断 (404 Blog Not Found)

「人種によって肉体的特性に差があること」と「人種によって待遇に差をもうけること」は区別しなければいけない。同じように「血液型によって性格に差があること」と「血液型によって待遇に差をもうけること」は区別されるべきだから、「血液型によって性格に差があること」は事実であっても「待遇に差をもうけること」は否定できる、という意見が気になった。

一見もっともらしいのだが、集団の問題と集団に属する個人の問題が「区別」されていないように思える。わざとぼかしているのかもしれないが。

三十一は血液型と性格に関連はないと思っているが、ここではそれは前提として必要ではない。仮に(百歩譲って、仮に)関係があったとしても同じである。
人種で例えると、人種甲と人種乙を比較したときに、人種甲のほうが有意に身体能力が高い(例えば足が速い)という結果が出たとしよう。これは「集団」間の比較である。この(仮定の)事実を知った上で、オリンピックの陸上代表に人種甲に属する甲1なる人間と、人種乙に属する乙1なる人間がともに応募してきたときに、あなたは「人種甲のほうが速いから」という理由で実際走らせて見もしないで甲1を選ぶか?
そんなことはないだろう。甲1は人種甲の中でも足が遅く、乙1は人種乙の中でも飛び抜けて足が速いかもしれない。実際に走らせてみたら乙1のほうが甲1よりも足が速かったということは充分あり得るのである。

血液型性格判断は、実際に走らせても見ないでオリンピック代表選手を選ぶのに似ている。血液型を元にして配置を決めている、などという会社は従業員各々の特性や長所短所を把握する能力が無いということを自ら宣伝しているようなものだ。

もしどうしても血液型を基準に判断したいのであれば、例えば血液型がA型である人間のうちどんなひとりを選んでも(ANY)、A型以外の血液型の人間の誰よりも(EVERY)几帳面である、という命題が成立する必要があるのだけど、どんな頑固な血液型信奉者でもそこまでの強い主張をするとは思えない。

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2009年7月18日 (土)

どうせこれも捏造って言うんだろうなあ

Historic Apollo landing sites imaged by new lunar orbiter (spaceflightnow.com)
月面着陸「捏造」論争に終止符? アポロ足跡を撮影 (asahi.com)

もともと「論争」と言えるほどの論争でもなかったんだが、どっちにしろ「捏造」論者は厳密な証拠調べをして判断しているわけでもないし、この写真をも「捏造」と言い出す人がいるんじゃないかな。どうせそういう人はどんな動かぬ証拠を持ってきても信じないのだ。

たしか「かぐや」でも月着陸船が離陸するときの噴射ガスの痕跡らしいものを見つけた、という発表があったと思うけど、今度は明らかにNASAが狙って動かぬ証拠をとりにいったものだろう。よほど「"捏造"論」に辟易しているものと思われる。

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2009年6月28日 (日)

ゲルマン民族とはあまり関係がない

たまたま発見したのがドイツ人で、だからゲルマニウム (Germanium) と命名されたのが元素番号32である。半導体として知られているけど、むしろ有名なのは「健康」器具の材料としてだろう。

ゲルマニウムは効かないよ (kikulog)
ブレスレットは効かないだけだが、食べると実害のあるゲルマニウム (忘却からの帰還)

金属ゲルマニウムを身に付けていたからといって、何か効果があるかもしれないと思えるところがすでに三十一にはよくわからないのだがなあ。ゲルマニウムは安定元素だから何か出てくるわけでもないし、経皮吸収されるなんて話も聞いたことがない。電子が放出されるなんて与太ごとを書いている業者もあるらしいが、電子が出てるってβ崩壊してるってこと? そんなもん一瞬だって身に付けたくないですわ。

なお、ゲルマニウムを口にするのは「やめたほうがいいこと」に分類される行為で、ゲルマニウムを含む「健康食品」を摂取していた人の中には死者も出ているとか。身に付けても効果がなく、食べるとキケンな代物がなんで「健康によい」と思われるようになったのか、その「都市伝説」の形成過程にはちょっと興味があるけどね。

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2009年6月 4日 (木)

科学は人類を不幸にしたか

ちょっと前までなら「仮にも新聞記者が」と思ったかもしれないが、今となっては「新聞記者の言いそうなことだ」と思うような記事。

発信箱:むなしい科学 (毎日.jp)

三十一が知ったのはこの blog から。

"天然"かもしれない (忘却からの帰還)

化学物質と無縁の生活が不可能なように、科学の成果とまったく無縁の生活は難しい。結論を言ってしまうと、科学によって人類は恩恵を受け、かつ問題を抱え込んだ。それでも総体として利点のほうが大きいからこそ、科学の進歩は続いたのだろう。

かなり前、科学の功罪について議論をしたことがあった。
そのとき「医学の発達で死亡率が下がり、農業の発達で飢えることがほとんどなくなったのは科学の功績だ」と言うと、相手は「『科学』と言われて医学や農業は思い浮かばなかった」と答えた。

そうかもしれない。
科学というと最先端の電子機器や遺伝子操作や原子力をまず思い浮かべるのだろう。だが科学の恩恵はもっと広く深い。だからこそその影響も広く深いのだ。

はてぶのコメントにもあったけれど、もし科学と完全に無縁の生活を送っていたならどうなっただろう。毎年風邪をひいていた三十一は、現代の目から見れば何でもないような風邪できっと大人にもなれずに死んでいた可能性が高い。そうでなくても、身体の丈夫でない三十一は食料を確保できずに野垂れ死んでいただろう。三十一が今ここにこうしていることこそが科学の恩恵だ。中にはそれを「科学の罪だ」と思う存在もいるかもしれないが。

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2009年5月20日 (水)

健康のためなら死んでもいい

いまどきはインフルエンザが流行の先端だが、天然痘が「根絶」されたのは三十一が中学生のころだったかな。数ある感染症のなかでまず天然痘が標的に選ばれたのは、その影響が深刻だったことの裏返しである。

死への恐れの前に敗北する神 (忘却からの帰還)

かつてのキリスト教社会では天然痘は「人類に神が下した鉄槌」と見なされていた。この教義に厳密に従うと、天然痘を予防するための接種を受けることはすなわち神の意志に逆らうことになる。1885年のこと、カナダはモントリオールで天然痘が流行した。プロテスタントの教会は接種を受け入れたが、カトリックは拒否した。その結果は推して知るべし。

この記事を読んで三十一は、アフリカから無辜の民を拉致して奴隷として酷使した「文明社会」の論理を思い出した。彼らによると、奴隷となった人々は肉体の自由は失ったかもしれないが、これまで知らなかったキリスト教の「真理」を知り、精神の解放を得た。これは失った肉体の自由を補って余りあるものであり、結局は奴隷自身のためである、というのである。現代の目から見るとまったく噴飯物の議論なのだが、「キリスト教」のところを「将軍様」に置き換えると現代でも(ごく一部で)通用していそうだなあ。

もうひとつの連想としては(こちらのほうが記事の筆者の意図するものだろうけど)、インフルエンザワクチンにリスクがあることは事実であるとしても、それを理由にしてワクチン接種を拒否するのは本末転倒である、ということだ。確かにリスクはゼロではない。だが必要なのは、それぞれの発生確率も含めたリスクとベネフィットを正確に比較判断することだ。目前に見えるリスクだけを評価して、その先にあるベネフィットに目を向けないのは公正な評価とは言えない。それは「神の怒り」を恐れて天然痘に無防備な身をさらすような行ないである。

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2009年5月 9日 (土)

化学物質と無縁の生活は可能か否か

駅前のファストフードでひとり寂しく(実際には別に「寂しい」などと思ったりしないのだが)晩飯を食っていたときのこと。最初は隣席のカップルの会話がうざったいなあと思っていたのだが、そのうちその向こうの窓際の二人連れの会話が耳につくようになってきた。正確にいうと、学生とおぼしき女子に向かって得々とまくし立てている、それより少し年嵩の男の話の内容が気になったのである。

それは「環境ホルモンがどうのこうの」とか、「性同一障害」がどうしたとか言う、あからさまに怪しげなセールストークだ。ずいぶん前に同じようなセールストークをア○ウェイのセールスマンから聞いたことを思い出した。
ところで環境ホルモンは実はそれほど問題にするような影響はないことがわかっている。マスコミは「問題がありそう」というときは騒ぐけど「問題なかった」というときは放置を決め込むのであまり知られてないけどね。

そうこうしているうちに問題の彼が聞き捨てならない一言を口にした。

カガクブッシツってのは、人間が作った物質のことなんだよ。

ハイそれ間違い。
人工的に合成された物質は確かに化学物質だけど、化学物質のすべてが人間が作ったとは限らない。ある命題が真であったとしてもその逆が真とは限らない、というのは基礎の論理学ですな。そもそも、身の回りの物質はすべて化学物質である。水でさえ H2O という立派な化学物質だ。

例えば「自然」の代名詞ともいうべき無農薬栽培でさえ、微視的には土中の水や窒素化合物やリン酸といった化学物質と、空気中から取り込んだ二酸化炭素という化学物質を反応させて、有機物という化学物質を生成する、化学合成作用だと言える。

彼はさらに畳みかける。「現実的には、化学物質とまったく無縁な生活は無理なの」

そりゃあ、そうですなあ。
「化学物質」の歴史は人類はおろか地球よりも太陽系よりも古いのである。「化学物質と無縁な生活」なんてこれまで一瞬だって実現したことはない。

いや、言いたいことはわかるんだけどね。言葉の選択がおかしいのですよ。細かいことを言うようだけど、用語を不適切に使う人間には理屈が通じないというのは、かなり確度の高い経験則なのでね。

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2009年4月 9日 (木)

知っているからと言って理解しているとは限らない

先日も紹介した blog で、7回におよぶ連載記事が掲載されている。まだ連載中なので、初回にリンクをはっておこう。

自然選択を理解していない米国人 (1/7) (忘却からの帰還)

日本人の多くは進化論を信じていると思う。しかし進化論の神髄である「突然変異」と「自然選択」の仕組みをどれだけ理解しているか。「自分は進化論を理解している」と思う人は是非この記事で紹介されている設問に挑戦してほしい。

実は三十一はこの記事を読んで、少なからず自信喪失したのだ。真の「科学の子」への道のりはまだまだけわしいなあ。

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