2016年6月 9日 (木)

「史記」修訂本

先日、調べ物をしていたら中華書局刊の「史記」点校本の修訂本が出ていることを知り、早速週末に神保町の内山書店で入手。配送も可能とのことだったが、そのまま持ち帰る。全10冊でそこそこの重さではあったが、店から駅まで、駅から自宅までのそれぞれ10分程度ならそれほど苦ではない程度の重さ。ただし、全部をまとめて紙袋で下げるのではなく一部をわけて背負ったリュックに分散させればもうちょっと楽だったかな、とも思った。結局「苦」だったんじゃん。

修訂前の版はずっと前、もういつごろだったのかもよく覚えていない頃に入手している。確か東方書店だったと思う。ちなみに東方書店と内山書店は神保町でほんの数10メートルしか離れておらず、今回も値段で内山書店を選んだけれど別にどっちでもよかった。それはさておき、旧版の「史記」はそれ以降、何年かに一度くらいの間隔で思い立っては参照するということが続いている。実は現在、その周期がたまたまやって来てその関係で調べ物をしていて修訂本にたどり着いたのだ。

下のリンクは東方書店通販サイトの商品紹介。
https://www.toho-shoten.co.jp/toho-web/search/detail?id=390373&bookType=ch

今回の修訂本の底本は旧版と同じく金陵書局本だが、異本を参照して修訂しているので多少の文字の異同があるのは当然である。この作業は旧版でも行われたはずだが、今回は校勘記が追記されている。旧版では校勘記は省略されていたが、同じく中華書局からこれ以降刊行された「史記」以降の二十四史(例えば「漢書」など)では省略されていないので、おそらくこの間に批評をうけて方針が変わったのだろう。中華書局本はいわば中国政府公認の「正本」であるから、校勘記が省略されていたことは長年の懸念であったに違いない。そうした事情のせいか、21世紀に入ってから二十四史の修訂作業が始められ、その成果の第一弾がこの「史記」ということらしい。実はもう2、3年前に出ていたのだが、三十一の周期とかみ合わなくて見逃していた。「史記」以外の史書に対する修訂作業は現在も継続中で、いまのところ「新五代史」「旧五代史」「遼史」が刊行されているがいずれも精装本(日本でいうところの豪華愛蔵版)のみでまだ平装本(普及版)は出ていない。いずれ出るはずだから待っている状態だ。

自宅でパラパラとめくって見たが、校勘記のせいか多少厚くなっている印象はあるけれども一字一句を比較したわけではないので今のところ違いはわからない。単に読むだけなら旧版でもそれほど困らないだろうけど、読むだけで満足できない自分がいるから困る。とりあえず今すぐ困るのは置き場所だ。本棚を整理しなければ。

なお中華書局刊の点校本で三十一が所持しているのは「史記」のほか「資治通鑑」、「漢書」、「後漢書」、「三国志」、「晋書」、「南史」、「北史」あたりだ。三十一の興味がどのあたりの時代にあるか、わかる人にはよくわかるラインナップになっている。

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2016年3月17日 (木)

「関東公方足利氏四代」


最近、14世紀から15世紀(鎌倉時代末期から戦国時代初め)という、日本史上ではかなりマイナーな時代に興味を持っていろんな本を読み漁っている。少し前に紹介した「日本中世の歴史」シリーズもそのひとつだ。この本もそうした流れの中で読み始めることになった。けっこう前から書店の書棚で見かけて気にはなっていたのだが、最近読んだ本の多くで参考文献として挙げられていたので、やはり読んでおくべきだろうと考えるに至ったのだ。こういう形で次々読むべき本が増えていく。

鎌倉、室町、江戸と日本史上に幕府は3つあるが、そのうち鎌倉と江戸はその名の通り本拠を東国に置き、京都には出先機関をおいて朝廷や西国を監視させていた(六波羅探題・京都所司代)。ところが室町の場合は幕府を京都において将軍が直接朝廷と相対し、東国にいわゆる「鎌倉府」をおいて関東を管轄させた。この点は武家政権としての室町幕府の大きな特徴と言えるだろう。足利氏の出身も東国であったから、本来は自らの勢力圏である東国に幕府を置くのが望ましい形態であったろう。しかし鎌倉末から南北朝期にかけての政情は、将軍が京都から距離を置くことを許さなかった。将軍そのものが京都にあってにらみを効かせていないと、たちまちに京都と何より朝廷(つまり「玉」だ)の支配権を奪われかねない。それは足利将軍家にとっては悪夢である。この情勢は実は南北朝が合体して南朝支持勢力の活動が沈静化してもそれほど変わらなかった。有力守護大名の連合政権の体をなしていた室町幕府にとって、必ずしも信頼しきれない大身の守護大名が京都近傍にあったからだ。山陰地方に勢力を張った山名氏などはその典型である。

さて室町幕府の鎌倉府が、鎌倉幕府の六波羅探題や江戸幕府の京都所司代と大きく異なる点がもうひとつある。それは、鎌倉府の長である関東公方(鎌倉殿)が世襲であるということだ。六波羅探題や京都所司代は、幕府から任命される役職に過ぎない。北条一門であるとか、老中格の譜代大名であるとか、おのずと家柄は決まってくるけど、その都度将軍から任命されるものだ。しかし室町幕府の鎌倉殿は、初代将軍である足利尊氏の次男基氏が初代の関東公方に任じられてから代々直系の子孫で世襲されてきた。本書のタイトルにもなっている「足利氏四代」(基氏、氏満、満兼、持氏)は直系相続である。形式の上では関東公方の就任も中央の将軍家の承認が必要になる。しかし幕府にとって事実上ほかの選択肢が無い以上、承認するしかない。それは幕府の将軍が形式の上では朝廷の任命によるものでありながら、現実には世襲を追認するものでしかなかったのと同じ構造である。
こうした事実上の世襲が代を重ねると、本来は将軍の直臣であったはずの関東地方の有力御家人(いわゆる関東八屋形など)が、あたかも関東公方との間に主従関係が結ばれたかのような様相を呈してくる。東国の中央からの独立だ。将軍家の末裔という由緒正しさと、累代の家臣たちによる支持を背にして関東公方家の自尊心は肥大化していく。本家将軍家の相続にからむごたごたもあり、将軍家と対等の立場にあるという発想が生まれ、さらには将軍家の相続に名乗りを上げ、そしてそれが受け入れられないと見ると将軍家にとって替わることを望むようになる。足利将軍家に対してもっとも安心できるはずの身内がやがて最も危険な敵に成長していく。

室町将軍家に管領という補佐役がついていたように、鎌倉公方家にも関東管領という補佐役がつく。この役職は上杉氏の山内家当主が独占することになるが、世襲ではない。その点は将軍家の管領と同じだ。この関東管領が、仕えるべき主君である関東公方と一体になって中央の将軍家に対抗するようなら大変だが、実際にはそうはならなかった。鎌倉府内部での主導権争いをめぐって、関東管領はむしろ将軍家の意を体して関東公方を抑えにかかるようになる。かくして将軍家と関東公方の対立は、鎌倉府内部での公方と管領の対立に結びつく。あたかも米ソ冷戦下での代理戦争のようだ。1416年の上杉禅秀の乱ではなぜか将軍家は公方方について上杉禅秀を敗死に追い込むが、これは将軍家内部の不穏分子である足利義嗣が禅秀方に荷担していたためのやむを得ない選択だったのだろう。この時点では将軍(足利義持)にとって身近(実弟)な足利義嗣の排除のほうが緊急性が高かった。しかしそれから20年後、ふたたび関東で管領上杉憲実と公方足利持氏の抗争が勃発(1438年永享の乱)したとき、将軍(足利義教)は関東管領を援助して公方の持氏を自殺させた。乱の勃発以前から上杉憲実は京都の幕府の支持をとりつけてあったという。かくして関東公方家はいったん断絶した。ところがその後継として将軍の実子を就任させることを画策しているうちに、当の将軍が家臣に暗殺されるという事件(1441年嘉吉の変)が起こる。将軍家の権威は地に落ち、将軍家そのものの跡目が問題とされる時期にあって、関東の正常化は後回しにされた。結局、1447年に至って持氏の遺児が鎌倉に入って関東公方を継ぐことになる。幕府が関東に手を割けない状況にあって、関東を治めるためには関東公方家の血筋が必要と判断されたのだ。将軍家による関東直接支配という目論見は崩れ去り、父を将軍家に殺された足利成氏が代々の関東公方家の由緒を背負って鎌倉に入った。結局、プレイヤーが世代交代しただけで構造は変わらず、鎌倉府内部での管領と公方の対立はほどなく火を噴く。1454年末、公方成氏は当時の関東管領上杉憲忠を謀殺し、享徳の乱が始まる。成氏は鎌倉を脱出し、上杉に反感を抱く関東有力御家人の支持を得て古河に本拠を移す。世にいう「古河公方」である。関東地方は公方方と上杉方に分かれてこれから30年近くにわたって争い続ける。関東地方は、応仁の乱(1467年)より10年以上も早く、1454年から戦国時代に突入したといわれる所以だ。

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2016年2月14日 (日)

「火星の人」/「オデッセイ」

この週末に映画を見に行こうと思っていたのだが、春の嵐が吹き荒れて出かけるのに躊躇してしまった。まだ風は強いようだが雨はやんだので思い切って出撃。

原作はハヤカワ文庫から出たときにすぐ買って、わりと早いうちに楽しく読み終えた。その後、原語版を Kindle で読み続けていて、そちらも読み終えたら感想を書こうと思っていたのだが、読み終える前に映画が公開されてしまった。
原作のあとがきで「映画化進行中」という情報を得たときには、正直言って不安しかなかった。この内容を映画の長さに収めるのは無理だろうと思ったのだ。もし無理やり詰め込もうとすると、似ても似つかない内容になってしまうだろう。この小説の真髄であるハードさが影を潜め、エンターテインメントが前面に出てしまっては台無しだ。

結論として、映画ではいくつかキーになるエピソードが省略されていたがストーリーのアウトラインは原作をほぼ踏襲していたようである。中国のロケットが救援用に使用されるようになった経緯と、火星と地球の連絡手段になっていたパスファインダーを壊してしまうくだりが省略されていた。それでも全体的に駆け足になってしまっている印象はぬぐえない。上映館を調べているときに目に入った感想に「わざわざ中国の力を借りなくてもいいのに」というのがあったが、そもそも現代の宇宙開発における中国の存在感の大きさを認識していない(ちなみに原作にも日本はまったく出てこない)のだろうけど、重力カタパルトのために地球近傍をフライバイする宇宙船エルメスに補給品を届けるためには並みのロケットではその速度に追いつけないということが映画の中でちゃんと説明されていないのが大きな原因のひとつだろう。とにかくこうした説明がされずに派手なエピソードをつぎはぎにした感が否めない。そういう意味では不安は的中したわけだ。三十一は原作を読んでいるから主人公やその他の登場人物のそれぞれの行動の理由づけがわかるが、予備知識なしに映画だけ見た人には消化不良だったのではなかろうか。

個人的には、テレビシリーズなどで十分時間を使ってドラマ化してほしい。特撮は多少チャチでもいいからさ。

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2016年1月29日 (金)

吉川弘文館「日本中世の歴史」全7巻


2009年頃に出たシリーズなのだが、三十一は昨年の11月頃から読み始めてつい先日読み終えた。いちおう一般向けというカテゴリではあるようなのだが、だからと言ってお気楽に読めるというような本でもない。ある程度はこの種の本を読み慣れていて、かつ最低限の基礎知識は持っている必要がある。少なくとも今はやりの「歴女」が喜んで読むような本ではなかろう。

古典的な時代区分では、日本史において「中世」とは鎌倉幕府の成立から戦国時代の終わりまたは江戸幕府の成立までとするのが一般的なようだ。しかし本シリーズではカバーする範囲を院政の始まりから鎖国の完成までとやや広くとっている。終期はともかくとして、日本史において「中世」の始まりを院政期におくのは学界でかなり広く支持されている見方だと言えるだろう。なぜならば、中世をもっともよく特徴づける要素として挙げられるのがいわゆる「荘園公領制」であり、「荘園公領制」が院政期に急速に成立してきたことは明らかだからだ。中世期に存在していた荘園の成立時期を検証したところ、圧倒的多数が院政期に成立したことがわかっている。日本史上では古代とされている摂関期に、摂関家の財政を支えた機能としてしばしばいわゆる「寄進系荘園」の集積が挙げられるがこれは実際には誤りで、当時の権門貴族の財政を支えたのは請負国司制、つまり「受領制」だ。受領の収奪対象であった国衙領が荒廃して収益が求められなくなるという事態に際して、自らの収益だけでも確保しておきたいという動機から受領の収奪に遭わない私領として成立したのが荘園であり、「本所」と呼ばれた荘園領主となったのが院(天皇家)や貴族、寺社などの諸権門であり、こうした荘園公領制に支えられた諸権門(のちには武家も権門に数えられるようになる)の並立が日本史における中世の本質的な構造だと考えられている。摂関期と院政期では、社会上層の登場人物の顔ぶれにはそれほど大きな違いはないが、彼らの生活を支える社会の基礎構造が大きく変わっているのである。

そして中世を象徴する言葉が「自力救済」だ。中世は「自力救済の時代」とも言われ、いわば剥き出しの個(「私」と言ってもいいだろう)がそれぞれの権益をめぐって直接ぶつかり合う時代である。「公」と「私」の力関係で言えば、古代は「私」が未発達で相対的に「公」が有利な立場にあり「公」が「私」を従属させていたのに対し、中世にはいると「私」の発達に「公」が追いつかず、立場としては対等な「私」がぶつかり合うバランス・オブ・パワーにしたがって社会が動いていた。この「私」を編成しなおして上位構造である「公」という概念を設立し、その統制(あるいは管理)下で「私」が活動する時代が近世と言えるだろうか。
中世中期から後期にかけて、各地で「一揆」が盛んに結成された。現代の目からでは「一揆」というとまず「農民一揆」を思い浮かべるかもしれないが、「一揆」とはもともと対等な構成員が集まってある目的のために同盟する(揆を一にする)ことで、構成員は農民に限らないし目的は領主への反抗に限らない。初期の「国人一揆」は、在地の小領主である「国人」が停戦協定を結んだり、外部勢力への対抗のために同盟したりしたものだ。こうした「一揆」はいわば下から「私」を再編成しようとする動きといえるだろう。
一方で中世も後期に入ると「公儀」という言葉が使われるようになる。文字通り「公の儀」ということだが、誰しもがひとしく従うべき共通の義務、とでも言い換えられるだろうか。これまで誰からの制約もうけず独立して活動してきた「私」にとって大きな傘がかけられたようなものだ。一定の保護を受けられるようになった代償として義務も負うようになる。近世に入ると「公儀」という言葉は徳川将軍家や各藩の藩主とその権力を示すことになる。「公儀」概念の進展にしたがって「故戦防戦令」がしばしば出されるようになる。「故戦」とは私闘を仕掛けること、「防戦」とは仕掛けられた私闘に応戦することで、「故戦」側に罰を科し、「防戦」側にも事情によって罰を与えることを定めた。これは私闘を制限することで「自力救済」を否定しようとする試みとも言えるだろう。やがてこれが事情の如何にかかわらず私闘を禁止する「喧嘩両成敗」に発展していく。「喧嘩両成敗」とはきわめて近世的な発想に基づくものなのだ。こうした動きは上から「私」を再編成しようとしたものと評価できよう。

さてシリーズを読み終えて改めて今自分が生きている時代を振り返ってみると、「公」「私」の力関係はむしろ中世に近いものがあるような気がする。もちろんあからさまな私闘が許されるわけではないが、「自力救済」のために中世から何か学ぶことができただろうか。

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2015年9月17日 (木)

「特攻-戦争と日本人」


読み終えて思ったのは、「入門書だなこりゃ」。

正直新しい情報がほとんどない。一部、著者が独自にインタビューした様子などが記述されているけど、そこから何か新しい発見があるかと言えばそれもない。
通説を寄せ集めてまとめた、という印象が残った。この厚さ(薄さ)によくまとめた、というところだけは評価する。なので「入門書」なのだよ。

しかし、「入門書」のわりには基本的なミスが目についた。
特にごく初めのほうで、真珠湾攻撃に参加した甲標的の乗員のうち、岩佐直治大尉を「佐直治大尉」と「岩」が欠けた形になっていたのは単純なミスあるいは誤植として許容もできるが、「捕虜第一号」として知られる酒巻少尉をずっと「坂巻少尉」と表記しているのは許容できない。これが6ページ目なのである。しょっぱなに出鼻をくじかれた感があった。

そのまた少し先、
『米軍と違い、日本に「空軍」はなかった。陸海軍がそれぞれ航空隊を持っていた。』
とあるけれども、米軍で「空軍」が独立したのは戦後の1947年である。それまでは
『米軍に「空軍」はなかった。陸海軍がそれぞれ航空隊を持っていた。』
三十一にはどこが「米軍と違う」のかわからない。

それから違和感を憶えたのは次の記述。

・・・昭和天皇は「昨日のレイテ湾における陸軍特別攻撃隊万朶隊による戦果等を御嘉賞になる」と述べた。天皇はやはり特攻を「御嘉賞」、ほめ讃えていたのだ。(略)・・・天皇は喜んだ。

まず著者は天皇の「御嘉賞」を文字通り「喜んだ」と解釈しているがそれはナイーブにすぎる。天皇や皇族に対する当時のこうした表現はかなり割り引いて考える必要がある。普通にしていれば「ご機嫌殊の外麗しく」と報じられる。宮中で「ご不満」というのは実際には「激怒」にあたる言葉だそうである。「御嘉賞」というのは実際には「戦果があったのはよかった」くらいでしかなかった可能性が高い。
また、身を捨てて戦果を挙げた前線の兵士に対して天皇がとれる態度として「御嘉賞」以外の何があり得ただろう。

全体に思わせぶりな記述が多く、「何が言いたいんだ」と首をかしげることがしばしばだった。まあ、「何が言いたい」のかはなんとなくわかるのだが、それをそうと書かないところがもどかしい。

この感想を書くために改めて著者プロフィールを見てみて納得。
本職は新聞記者だ。しかも毎日新聞。

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2015年8月25日 (火)

「歴史認識とは何か」


まずは恒例の指摘から。

1945年7月、ポツダム会議に関する記述だが、

・・・17日の正午に、スターリンがモスクワから電車で到着して、・・・・

(p.254 より)

モスクワからベルリン近郊のポツダムまで線路を復旧するだけでも大変だったろうに、電化までしてたなんて知らなかったよ(棒読み)。

ま、そんなツッコミは置いておこう。
三十一は歴史学の本をわりと読んでいる。いわゆる「歴史の本」ではなくちゃんとした学者が書いた、論文とまではいかなくても真面目な本をだ。こうした本を読んでいて思うのは、教科書や一般に流布している歴史雑誌の見方と、最近の歴史学の見方のあいだに大きな違いがあることだ。具体的にはこの本のはじめのほうに解説があるが、教科書的な(あるいは19世紀の歴史学者ランケ的な)、「史料をたんねんに読み解いていけばひとつに定まった歴史事実に行き当たる」というナイーブな見方はとっくに過去のものになった。膨大な史料が利用可能になった現在、史料の取捨選択によって歴史はどうにでも解釈できるようになる。すべての史料を平等に評価して客観的な歴史を再現する、というのは現実にはとてもできない。極端な話、「歴史事実」は人の数だけ存在するのだ。A国とB国で歴史認識が異なることを問題にする人がいるが、そもそも「国の」歴史認識があることが問題だろう。統一した歴史観を強制しようとするのは、歴史学の観点からは不健全だ。

日本人の歴史観は古くは中国から移入したものだ。そこに明治以降になって欧米流の歴史学が加わった。当時はレンケ流の歴史観が主流をなしていただろう。そのころにできあがった日本の教科書的歴史観、歴史の見方はほとんど変わっていない。アカデミックな領域では議論の的になり事実上過去のものになってしまった歴史観が、ポピュリズムの世界ではいまだに幅を効かしている。
同じようなことが国際情勢の認識についても言える。20年前に妥当だった情勢認識が、現在では不適切になってしまっていることに気づかない。「イギリスやフランスの植民地支配は非難されないのに、なんで日本は非難されるんだ」という主張をよく見かけるが、「時代が違っちゃった」のですよ。それがわからない限りは同じ誤りを繰り返すことになる。

密林の書評で低い点数をつけてる人がいて、「理念と力、最終的にどちらを優先するつもりなのだろうか」と疑問を呈しているが、そうした設問自体がすでにしてこの本の内容を読み取れていないことを示している。また「他国の指導者の判断ミス」があったことを指摘して日本の指導者にばかり責任を負わせてはいけないと言ってる人もいるが、日本人のひとりとして日本の指導者に求めるのはそうした「他国の指導者の判断ミス」も織り込んだ適切な判断であるべきだろう。さもなくば、ひとつの小さなミスも許されないというようなあまりにも硬直した政策立案になってしまう。戦争において誤りをまったく犯さないということはあり得ず、誤りの少なかったほうが勝利する、というのはそれなりに人口に膾炙した言い回しだと思うのだが、外交にも同じことが言える。他国の指導者が犯した比較的小さなミスをもって、日本の指導者が犯したより大きなミスが免罪されると考えるのはあまりにもご都合主義が過ぎる。

著者の歴史観をそのまま受け入れる必要はないが、日本が外国からどう見られてきたか、また現在どう見られているか、さらには今後どう見られるようになるかを考えていくための一助になるだろう。
現在、三十一が一番おそれているのはかつて日本が国外から「表裏の多い不信の国」と見られていた、そうした見方が再燃するのではないかということ。杞憂であるならいいんだけどね。

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2015年7月15日 (水)

「海軍戦略家キングと太平洋戦争」


三十一にとってキングと言えばスティーブン・キングでもマーチン・ルーサー・キングでもなくまずこのアーネスト・キングである。

「出て来いニミッツ、マッカーサー」という歌があったらしいが、日本人にとって当時も今も太平洋戦争を指揮したアメリカ海軍軍人といえばまずニミッツであり、次いでハルゼー、スプルーアンスといったところか。しかしキングを挙げる人はほとんどいない。

キングは開戦時に合衆国艦隊司令長官でまもなく海軍作戦部長を兼ね、戦争中ずっとこの職にとどまった。陸軍参謀総長のマーシャルと並んでアメリカの戦争計画を指導した。極論してしまえば日本はキングに負けたのだ。

アメリカでは陸軍参謀総長(マーシャル)、海軍作戦部長(キング)、陸軍航空隊総司令官(アーノルド)と大統領幕僚長(リーヒ)からなる統合参謀本部が合議してルーズベルト大統領に助言し、大統領が決定するという仕組みが確立していた。責任は明確である。
しかし日本ではこうした最終責任者はいない。天皇は統治権の総覧者であるが責任は輔弼者が負うことになっている。陸軍の作戦については参謀総長が、海軍の作戦については軍令部総長が、陸軍の兵力整備に関しては陸軍大臣が、海軍の兵力整備については海軍大臣が、そして政務全般については内閣総理大臣が輔弼にあたった。しかし内閣総理大臣も閣内各大臣への指揮権はなく、各大臣はそれぞれの職務に関して天皇を補弼した。

責任者が何人いることやら。

こうした体制で何か決めようとしても合議がまとまるはずもなく、玉虫色の結論になるか結論を先送りにするのが関の山だ。
しかしこれは体制の問題だろうか。かつてに比べるとだいぶ責任が明確になった現在の体制でも同じような結果になっていることが多いように思う。結局のところ、日本人が自分たちの肌に合う体制を選んだのだろう。現在の体制はアメリカの影響が大きい。それも占領期が済んでからだいぶ骨抜きにされたが。

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2015年5月30日 (土)

「昭和戦後史『再軍備』の軌跡」/「国際秩序」

1980年から翌年にかけて読売新聞に連載されたものをまとめたもの。
を、さらに再刊したもの。

取材のタイミングではまだ当時の関係者の多くが存命で、しかもそれなりに時間が経っており当時の事情をわりと率直に語ってくれていたようだ。例えば朝鮮戦争に日本の掃海艇部隊が参加していたことが公になったのは1978年のことである。これより早くても遅くても、取材は難しかっただろう。

ここで日本再軍備について詳しく触れるつもりはない。ただ読んで思ったことは、こうした重大な政策転換が行われるに際して、ほとんど国内の政治的なかけひきと、米軍からの外圧しか語られていないという事実で、実際の国際情勢については(連載当時冷戦は周知の事実だったせいもあるだろうが)、ほとんど触れられることがない。これは取材にあたった政治部記者の発想法によるものだろうか。それとも実際に再軍備は国内政治だけの事情で決まったんだろうか。こうした傾向はいまも変わっていない。

いずれにせよ、再軍備がどう進められたかをこの時期に振り返るのは意味がないことではないだろう。

続けて読んだのは実は偶然なのだが、結果としてよかったと思う。軍備と国際関係というものについて関連付けて考えることができたからだ。実はこの本も少し古くて、まだ民主党政権時代に出ていた本なのだが読みかけになっていたものを改めて読み始めた。はじめのうち少し読みづらかったのだが、読み進めるうちに慣れてきて気がついたら読み終えていた。

著者は国際秩序を保つシステムを3つの体系からなっていると分析している。
ひとつは「均衡の体系」で、古典的なバランスのモデルである。このモデルの利点は「価値観」や「規範」を共有していない勢力の間でも機能するということだ(「力」の価値だけが共有されているとも言える)。しかしこのモデルが依拠している「バランス」はそれぞれの主観でしかない、ということは意外に忘れられがちだ。どちらかにとって適正なバランスは、相手にとっては明白な劣勢と受け取られるかもしれない。そうすると劣勢と考える側はバランスを戻そうとする。その結果相手側はバランスが崩れたと考え、ついには軍拡競争に陥るというシナリオが想定される。行き着くところはバランスを実際にに検証する、つまりは戦争となる。第一次世界大戦はこうして始まった。
ふたつ目は「協調の体系」で、ある程度の均衡の上で交渉(外交)によって互いの利害を調整し、破綻を防止しようとするものである。そのためには、「相手の利益は自分の不利益、相手の不利益は自分の利益」というゼロサムゲームから脱しなければいけない。しかし互いの力関係があまりにアンバランスだと、協調は生まれにくい。均衡のない協調は脆弱であり、協調のない均衡は危険だ。
そしてみっつ目が「共同体の体系」で、各国が共通の規範や目的のためにより大きな枠組みを構築しようとする試みである。国際連合とか欧州連合はそうしたものの実例だ。ただしそこにはすべての参加国がひとしく尊重できる価値観や規範が必要になる。国際連合はもともと第二次世界大戦における連合国を戦後組織化したものだが、連合国はその戦争目的を「全体主義から民主主義を防衛する」としていたから、その基本理念として民主主義を掲げている。もっとも現時点では必ずしも民主主義とはいえない国も加盟しているが。

著者はおそらく「共同体」に期待しているのだろう。もちろん、こうした取り組みで安全保障上のリスクを下げて行く試みは続けていかなくてはいけない。しかし著者も指摘しているが、こうした考え方はいわゆる「ソリダリズム」を前提としている。
「ソリダリズム」とは、現在はさまざまな価値観を持っている人々(国々)も、時間をかければ最終的にはひとつの至高の、共通の価値観に帰結するというある種理想主義的な考え方だ。つまり現在の世界には民主主義国ばかりではなく独裁国家や非民主主義国家もあるが、時間さえかければこれらの国々も遅かれ早かれリベラルな民主主義国家に行き着く、と考えるのである。
しかし実際には、特に同時多発テロ以降、こうした楽観的な考え方に信憑性が薄れてくる。結局どこまでいってもすべての国が同じ価値観をもつようになることはない(かもしれない)という一種の悲観論だが、現状を受け入れる現実主義でもある。これを「プルラリズム」と呼ぶ。気をつけなくてはいけないのは、いわゆる「多元主義」は「多様な価値観を尊重しなければいけない」という考え方をみんなが持つべきだという点で「ソリダリズム」的な要素を含んでいるということだ。

日本(に限らずどんな国でも)が自国の軍備を考える際には、現在の国際社会の安定と秩序をどういうシステムで維持し、その中で自国をどう位置づけるかというグランドデザインが必要になるはずだが、知るかぎり日本の政治家から出てきたことはない。

もう先週になるがNHKで集団的自衛権について議論していた番組を、録画しておいたものをさっき改めて見直したのだが、いわゆる批判側の参加者が元官僚と学者で、法理論と具体的なケースを明示することにこだわり、想定外の事態に対応できるためのお墨付き作りを目指す政治側と議論がかみ合ってないなあと思った。

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2015年2月24日 (火)

「大陸・南方膨張の拠点: 九州・沖縄」


このシリーズを読んでいて感じるのは、章によってそれぞれの執筆者の特定の主張が強く押し出されるケースがあること。例えばこの巻ではないが「所沢」をとりあげたときに所沢で編成訓練された陸軍の航空部隊が出征先の中国でどんな被害をもたらしたかをこと細かく記述していたが、正直それが所沢という特定の地域と軍隊のかかわりとしてどんな意味をもつのか疑問に思った。主題を見失っていないか。この章ではいろんな単語にやたらとカギカッコをつけているのも気になった。
最近の流行のようで「アジア・太平洋戦争」という呼び方が多くの章でされているが、三十一はこの単語を好まない。この単語に限らず、歴史上の固有名詞を読み替えることで何らかの意味を持たせようという試みには反対だ。当時実態としてはあったが特定の名称がなかった事象に、後世の歴史家が便宜上の呼び方を定義するのは避けて通れないが、当時すでにあった固有名詞は固有名詞としてフラットに取り扱うべきで、そこにバイアスを持ち込むような違った名前を与えるべきではない。少なくとも歴史学者を名乗るのなら、ね。太平洋地域だけでなくアジア地域にも戦火が広がったことを示すために「アジア・太平洋戦争」と呼ぶべきだという主張らしいが、だったらほぼ同じ意味の「大東亜戦争」ではなぜいけないのか、という疑問にはどう答えるのだろう。当時の人間が言うことはダメで、現代の歴史学者が言うことは正しいということかな。過去の(歴史上の)人物の所業を全否定するかのような態度は歴史学者としていかがなものか。

それはともかく「九州・沖縄」であるがこの巻ではやはり沖縄の置かれた立場というのが印象に残る。どうしても軍隊の側に批判的に記述される傾向があるが、それを差し引いてもやはり沖縄の置かれた状況は厳しいものといわざるを得ない。特に沖縄戦後の米軍占領下での過酷な状況は、普段マスコミなどでもあまり報じられないだけに興味深かった。

沖縄と軍隊のかかわりの歴史を概観してみて思ったのは、沖縄という地域(あるいは住民)と軍隊の間の関係がずっといびつなまま長い年月を経てしまっていること。
ときどき「沖縄のひとは元来平和で」みたいなことを言う人がいるけれど、時代をさかのぼってみると必ずしも正しくない。琉球王国の統一前、あるいは統一後も各地方の有力者同士が武力で争う時代が長く続いた。これ自体はそれほど珍しいことではなく、地域や時代を超えて世界中で時期を問わず見られる状況であり、沖縄が特に平和を好んだわけではない。もちろん、平和を嫌ったというわけでもない。人並み、ということだ。
その状況を変えたのは17世紀初めの島津家による琉球制圧だ。これ以降、現在にいたるまで沖縄の人々は沖縄防衛という仕事から切り離され、外来の軍隊が沖縄に駐留するという状況が続いた。明治維新までは島津藩、その後は明治政府軍(日本軍)、そして米軍。400年もの間、沖縄の人々は沖縄における軍事政策立案に携わることができずに外部から押し付けられるまま従うことを余儀なくされてきた。こうした事実が沖縄人の軍隊というものに対する態度に影響を与えなかったはずがない。沖縄人と軍隊が常に対立していたというわけではない。ときには利害関係が一致することもあるだろう。しかし、沖縄人が「あっち側」に立つことはなかった。

そう考えると、沖縄の自衛隊には単に沖縄を防衛するだけでなく、こうした状況を是正する役割を果たすことが期待される。沖縄のために沖縄を防衛するという立場に立って日々行動することによって、国民(県民)の軍隊というものに対する見方を少しずつでも変えていき、沖縄と軍隊のかかわり方をあるべき姿に近づけていくことができるかもしれない。例えば第101不発弾処理隊(101不処隊)や第15飛行隊(現・第15ヘリコプター隊、旧・第101飛行隊)は不発弾処理や急患輸送といった直接県民の助けになる活動を続けてきた。今後は災害派遣の機会も増えるだろう。先日、与那国島で自衛隊配備の是非を問う住民投票が行なわれたが、その際に賛成派の論拠のひとつとなったのが災害時に自衛隊の部隊が島内にあることの利点である。米軍と自衛隊の一体化が懸念されて(あるいは望まれて)いるけれど、表面上の運用はともかくとして究極の目的としては米軍とは異なり国土(もちろん沖縄を含む)と国民(もちろん沖縄県民を含む)の平和と安全を目指すという立場は堅持すべきである。こうなると米軍と自衛隊で「同床異夢」になってしまうという批判もあるだろうが、人が違えば違う夢を見るのはあたりまえ、国が違えば目指すものが違うのはあたりまえで、それぞれの目的のために協力するほうが利益になると踏めば協力関係は成り立つのである。国際関係とはそうしたものだろう。人間関係となんら変わりはない。ともかく、自衛隊は旧軍とも違うし、米軍とも違うということを実績でもって示すことが重要だ。旧軍の「菊」と「龍」の部隊号を引き継いでいる、などと瑣末なことをあげつらうのは建設的ではない。沖縄出身の自衛官が沖縄に駐屯する部隊の指揮官になるようなことが普通になれば状況は変わるかもしれない。

さてこうした沖縄の事情を知った上でなお、三十一は米軍が沖縄にあることは必要だと思う。米軍が沖縄に部隊を残しておきたいか、それとも撤退したいのかは米軍の事情である。しかし日本としては米軍が日本にいてもらわないと困る。それは最前線である沖縄がなんらかの攻撃をうけたときに「米軍を巻き込む」ためだ。日本がアメリカの戦争に「巻き込まれる」という主張は冷戦時から数限りなく唱えられてきたが、冷戦も終わりアメリカの国内世論が内向きになりつつある昨今、日本にとってもっとも避けるべきシナリオはアメリカから見捨てられることである。実際、アメリカ国内では日本と同じように「極東の情勢にアメリカが巻き込まれる」ことを恐れる意見が根強くある。こうした意見が万一にも力を得て実行に移された場合、日本の状況は劇的に変わる。甘んじて他国の支配をうけるか、あるいは強迫に屈するか、さもなくばこれまでの数倍は下らないであろう防衛費の負担を費やして独力での防衛をはかるか。いずれにせよこれまでのような平和で安定した生活は望めない。日本としてはアメリカが日本防衛にコミットし続けるために、米軍を沖縄にいわば人質として置いておく必要がある。
「いざというときに米軍が命をかけて日本を守ってくれるわけがない」と言う人がいるが、そんなことはあらためて指摘するまでもない当然のことだ。無条件で自国のために命をかけてくれるのは自国の軍隊以外にない。もちろん、米軍はアメリカのために命をかける。最終的な目的はアメリカを守ることであって、「日本を守る」のは手段でしかない。言い換えれば、「日本を守る」ことがアメリカの国益になるから「日本を守る」のだ。日本の立場としては、アメリカに「日本を守ったほうが国益になる」と信じ込ませる必要がある。必ずしも事実である必要はない。相手がそう思ってくれさえすればいいのだ。あるいは「米軍が沖縄にいれば抑止力になるから、万一攻められたときに本国から部隊を送ってくるよりも結局安上がり」という話でもいい。まるでどこかの営業マンのセールストークのようだが、売りつける商品が違うだけで実際にやってることは大して違わないのだ。

自衛隊が沖縄に配備されるようになって40年余りが経つが、400年にわたる長年月と、沖縄戦という強烈な経験ですり込まれた感情を払拭するにはまだまだ足りない。しかしこうした沖縄と軍隊の不自然な関係性が是正されれば、沖縄のみならず日本全体にとっても大きな意味があるだろう。焦らずしかし着実に、日々の勤務を通じて少しずつでも前進してもらいたい。

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2014年12月12日 (金)

「地域のなかの軍隊3・中部:列島中央の軍事拠点」

三陸鉄道北リアス線の列車のことを「電車」と呼ぶのは、さすがに諦めとともに受け入れた三十一だが、これだけは指摘せざるを得ない。

(p.153)
敦賀に到着した部隊は、(略)敦賀駅から電車でそれぞれの衛戍地に帰還した。

昭和9年の出来事の記述である。

昭和9年に!

敦賀駅から!

電車で?

ちなみに敦賀駅を通る北陸本線が敦賀まで電化されたのは戦後の昭和32年、敦賀以遠は昭和37年に北陸トンネルの開通にともなって。敦賀から分岐する小浜線が電化されたのは平成15年で10年ちょっと前だ。

いや、わかってるんだよ。
普段使っている言葉を不用意にそのまま使ってしまったケアレスミスでしかないということはね。専門家でもない歴史学者のちょっとした用語の間違いをあげつらうのは大人気ないというのも一理ある。
しかし、仮にも学問で食っている人間がたとえ一般向けの著作とはいえ、用語を不正確に使用するのはいかがなものか。特に、「大東亜戦争」や「太平洋戦争」といった呼び方を否定して「『アジア・太平洋戦争』と呼ぶべきだ」と主張するような御仁であれば、他の言葉についてももっと敏感であるべきだろう。

このままで終わるのもどうかと思うので、いちおう全体の感想も記しておこう。

分量の問題もあるだろうが、全体に食い足りない印象はいなめない。また一部の章では著者のほうにある種のバイアスがかかっているように感じた。もっとも、食い足りない部分についてはこれから配本される予定の「基礎知識編」でカバーされるのかもしれない。

# 今回の記事は言葉の使い方にいつもよりずっと気をつかいました。

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