2017年4月 2日 (日)

「この世界の片隅に」

今さらながら観てきました。

公式HP

戦前から戦中(戦後すぐ)の呉の光景がふんだんに登場する。
「ああ、これと同じ構図の写真があるわ」という場面もしばしば。

戦時中の普通の生活の様子が淡々と描写されているが、その中でもやはり戦争の厳しさがところどころにちりばめられる。

いい映画だということは間違いない。
ただし、終盤の展開はもう少し違った形でもよかったと思う。

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2017年3月30日 (木)

2017年3月の桜

3月27日付で年度末の人事異動が発令された。
将以上にかぎってみると小規模で、陸で昇任と勇退がそれぞれ3だけ。

深津孔(防大26)陸自幹部学校長>退職
西浩徳(防大28)第1師団長>陸自幹部学校長
柴田昭市(防大29)第14旅団長>第1師団長(昇任)

江口直也(防大26)補給統制本部長>退職
金丸章彦(防大27)関東補給処長>補給統制本部長
山内大輔(防大29)中方幕僚長>関東補給処長(昇任)

川瀬昌俊(防大26)装備庁装備官>退職
手塚信一(防大27)陸自幹部学校副校長>装備庁装備官(昇任)

現職の統幕長である河野海将の定年延長期限は5月27日までなので、この年度末に統幕長の交代とそれにともなう人事異動があるものと予想していた。
ところが例の日報問題で当の河野統幕長と、その有力な後任候補である岡部陸幕長が特別防衛監察をうける身となり、身動きがとれなくなってしまった。この問題にある程度の見通しがつくまでは大きな人事は行ないにくい。それがいつごろになるかは今の段階では見通しが難しいが、もし長引いたときには河野統幕長の定年を再延長するということもあり得る。

そもそも、すでに実情と合わないPKO5原則を振りかざしての「戦闘」という単語に対する言葉狩りの攻防が、今回の日報問題の発端だと三十一は認識している。すでにPKO5原則がナンセンスなのに、それに基づく日報問題がナンセンスでないわけがない。この問題の無意味さに早く気がついて、それをきっかけにPKO5原則の見直しまたは撤廃に進んでくれればいいと思うのだが、望み薄だなあ。

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2017年3月18日 (土)

棚倉城に行ってみよう

非電化単線鉄道愛好会会長たる三十一としては、こうした路線を残すためにもできるだけ多くの非電化単線鉄道に乗車することを自らに課してきた。精進の甲斐あってか、連続して100キロを越えるような未乗車区間はだいぶ少なくなってきた。該当するのは3区間。山陰本線の益田以西、紀勢本線の非電化区間、そして水郡線だ。
関東在住の三十一にとって、非電化単線鉄道愛好会会長でありながら137キロという長大な水郡線が未乗車のまま残っているという状態は早期の対応が求められた(誰に?)。

この3連休は珍しく完全にフリーになったので、せっかくなのでこの機会に東日本エリアの非電化区間をいくつか踏破しようと考えたのだ。
もちろん今日の主眼は水郡線である。問題は上菅谷-常陸太田間の支線だが、今日は時間がないので後まわしにした。次に機会もあるだろうし。だが本当は朝の支度に手間取って時間がなくなってしまったのだ。

常磐快速電車で柏に出て特急に乗り継ぐ。偕楽園の行楽シーズンだからどうかなあと思っていたけど、どうにか席はとれて特急「ときわ」で水戸へ。途中、偕楽園駅で乗客がごっそり下りていく。さらに一駅(半駅)で水戸着。
水戸には梅の時期を外して来たことがあり、そのときに偕楽園にも行ったので改札は出ない。駅売店で軽食を調達する。

駅の北端に水郡線ホームはある。水郡線の列車はすべてキハE132に置き換わっている。これから乗る列車も当然そうで、2両編成だ。休日の昼間だがそこそこ混んでいる。水戸はそれなりに大きな街なので覚悟はしていた。とりあえず窓際に座れたことでよしとしよう。進行方向には背中を向けることになってしまったが。発車時間が迫るとさらに乗客が乗り込み、かなりの立ち客が出るような状態で発車。常磐線からわかれ、那珂川を渡って北に向かう。
面白いと思ったのは、那珂川をわたるとてきめんに田園風景になってしまうことだ。そして那珂川の向こう側と思しきあたりにはビルが立ち並ぶ水戸の市街地が広がっている。このあたりがやはり地方都市ということなのだろうか。そして三十一の目についたのは田んぼの中にぽつんと置かれていた小型飛行機。飛行可能な状態には見えなかったが何かのオブジェだろうか。

上菅谷まで来たらだいぶ空くだろうかと思ったが、まとまった人数が降りて行ったものの立ち客が解消するほどでもなかった。立ち客がなくなったのはようやく常陸大宮あたりで、観光地の袋田まできてようやく空いたとい言える状態になった。好き勝手に席を選べるようになったのは常陸大子である。ちなみにこの列車は普段は常陸大子どまりだが今日は郡山まで行く。
常陸大子で30分ほど時間ができたので、その間に軽食を食べてそのゴミを駅のごみ箱に捨てにいったり、写真を撮ってみたりする。
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駅前にC12が保存されていて、状態は悪くなかったんだけど柵のない側から側面の写真を撮ろうと思ったら駐車場の料金所の建物が邪魔をしていたので断念。ちょっと柵がうるさいかもしれないが文句は大子町役場のほうにお願いします。
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常陸大子を出ると短いトンネルを抜けたがこれが分水嶺というわけではなさそうだ。水郡線は地図をみると山中を越えているように見えるが実際にはそれほど起伏は激しくない。
さてこの先の予定を考える。今日の宿は郡山。本当は仙台あたりに宿をとりたかったのだが、適当な宿がみつからなかった。やむを得ず福島や郡山を探してみたところ、福島に宿泊できないわけではなかったが郡山のほうが選択肢が多かったので郡山とした。結果として時間が少し余ってしまうことになる。このまま郡山まで乗り通すと3時過ぎに郡山に着いてしまう。途中のどこかで面白そうなところがあれば一旦下車してみるのだが、と考えて思いついたのは棚倉(磐城棚倉)だった。
「棚倉」という地名を三十一が初めて知ったのは、戦前まであった国鉄白棚線の終点としてであった。その後、江戸時代に代々有力な譜代大名が封じられた南奥の要地であったことを知る。地図を見てみると棚倉の駅からそれほど遠くないところに、はっきりと堀が残った城跡が見て取れる。いまでは公園となっていて当時の遺構は何も残っていないようだが、磐城棚倉で下車して行ってみることにしよう。そこでどれくらい時間が潰せるかは行ってみないとわからない。

結果はと言えば、けっこう時間が潰せた。略長方形の本丸を取り囲む土塁がはっきりと残っており、2個所の門以外は堀に取り巻かれている。
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堀には鴨や鯉が棲みついていた。
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そして城の片隅には忠魂碑とそのかたわらに「元帥畑俊六終焉之地」なる碑が。畑元帥が戦後忠魂碑の除幕式に出席していて心臓麻痺で急死したというのは知っていたが、それがここだとは初めて知りました。
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結局2時間あまり棚倉にいて、再び水郡線に乗り込んで郡山に向かう。途中、福島空港のすぐ横を通ったはずだが空港連絡道路が立派なこと以外は空港を思わせるものは何も見えなかった。右手前方に市街地がみえてきた。郡山だ。安積永盛で水郡線は東北本線と合流する。駅を出ると東北本線の上り線を横切って下り線に入り、一駅走って終点の郡山に到着。

今日の旅程:
柏 (0954) → 水戸 (1046) 2055M
水戸 (1115) → 磐城棚倉 (1357) 825D
磐城棚倉 (1621) →郡山 (1726) 335D

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2017年1月14日 (土)

わたしマツワ、いつまでも松輪。

千島列島の中部に位置するマトゥア島(日本名・松輪島)にロシア軍が拠点構築のための現地調査を行なったとか。

昔、戦史叢書の該当する巻(北東方面陸軍作戦2)を読んだことがあるので多少の予備知識はある。もっとも、いまその本はすぐに取り出せないので以下の記述はもっぱら記憶に頼ってしまうことになるのだが。

もともと、松輪島(以下この表記で通す)には日本軍が大戦後期に滑走路を建設して守備隊を置いていた。ロシア軍は日本軍が建設した滑走路跡を再生できないかと考えたようだ。
千島列島は全島が比較的若い火山島からなり、平地がほとんどない。特に中部千島は火山がそのまま海中から突き出しているような様相で、滑走路適地となるような平地はおろか上陸も困難な地形が支配している。そのなかで松輪島にはかろうじて滑走路を建設できそうな地積が存在した。松輪島はおおむね楕円形を成しており、北西側は火山が占めているが南東側には比較的緩やかな裾野がのびている。この緩斜面上におよそ1200メートルの滑走路が建設された。
しかし滑走路は建設されたものの、支援設備を建設するような後背地に乏しく、中継地あるいは不時着場、せいぜい少数の哨戒機基地程度にしか利用されなかったようだ。またこの付近の天候は航空機の活動に不向きで、夏季は濃霧が覆い、冬季は海流の影響で緯度のわりには温暖だが季節風が激しく仮設の建築物がしばしば破壊されるほどだったという。
それから、松輪島には輸送船が接岸あるいは停泊できるような湾入がほとんどなく、沖合いの雷公計(らいこけ)島との間に「大和湾」と呼ばれる泊地があったが「湾」とは名ばかりで風波が多少しのげる島影でしかない。本格的な補給のためには防波堤と桟橋を備えた港湾施設をまったく新規に建設する必要があるが、もちろん当時の日本にそんな余裕はなかった。

ロシア軍がオホーツク海を聖域化しようとするならば千島列島中部に監視拠点が必要になるが、実際のところ候補となり得るのは松輪島しかない。だからソ連時代にはこの島に守備隊が配置されていたのだが、ソ連崩壊後に撤退して長らく無人となっていたようだ。ロシア軍にどこまで投資するつもりがあるのか、つまりどの程度の規模の滑走路を建設するのか、また港湾設備を整備するのか、しばらく注視する必要があるが、三十一の個人的な予測では中継・監視拠点としての整備にとどまるのではないか。2000メートルにも満たない滑走路を建設するのがせいぜいの、さほど大きくもない島を大々的に開発するのはコストパフォーマンスが悪すぎる。どうしてもそうせざるを得ない理由があるならコストを度外視して(中国が南シナ海でやっているように)大工事に踏み切るだろうが、千島列島線の両端にあたるカムチャツカと南千島(択捉)に拠点はすでに建設済み、あるいは整備中であるから、これをつなぐ、あるいはギャップをふさぐ程度の機能があれば足りる。
そもそも松輪島の火山は最近もしばしば噴火を起こす活火山で、大規模な投資をするにはリスクが高すぎる。

大戦末期、日本軍は松輪島に7000人から9000人程度の守備隊を置いていたが、上陸してきたソ連軍に無抵抗で降伏した。縦深陣地を構築できる地積がなく、遅滞戦闘が可能な後背地もない孤立した小島では、優勢な敵に対してなすすべがなかっただろう。

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2016年12月27日 (火)

空飛ぶガスステーション

近頃話題の空中給油だが、ここで主なふたつの空中給油方式について説明しておく。そのなんたるかも理解していない言説があまりに目にあまり、まず基礎知識を得てから議論してほしいと思うからである。

ここではともに固定翼機である「給油機」と「受油機」がともに飛行しながら燃料を補給するケースについて考え、回転翼機(ヘリコプター)がホバリングしながらホースを吊り下げて艦船などから燃料を補給する方法は扱わない。

さてこうした空中給油には二つの方式がある。
・フライングブーム式
・プローブ・アンド・ドローグ式

フライングブーム式は主に米空軍が採用している方式で、航空自衛隊もこれに該当する。給油機から「フライングブーム」と呼ばれる給油パイプを伸ばし、これを受油機側の受油口(たいてい機体背部にある)に差し込んで給油するものである。
いっぽうのプローブ・アンド・ドローグ式は米海軍などで採用されている方式で、オスプレイの事故時の空中給油はこちらになる。給油機は、給油ホースを後方に流す。ホースの先端には「ドローグ」と呼ばれる漏斗状の受油口受けがついており、受油機は「プローブ」と呼ばれる受油口をドローグに突っ込んで給油を受ける。プローブは機首から長く突き出すか、あるいは引き込み式になっていて使用しないときは機首部に格納するようになっている。

フライングブーム式の特徴をまとめると、
・時間あたりの給油量が大きい
・受油機側は速度を合わせるくらいで特別な操作は不要
・給油機側に専用の機体と装備が必要
・給油機側にオペレーターが必要
・いちどに1機だけしか給油できない

プローブ・アンド・ドローグ式の場合は、この逆となる。特に受油機側は自らの操縦で自機のプローブをドローグに差し込まなければいけない。給油を受ける可能性があるすべての機体のパイロットがこの訓練を積む必要がある。
それでも米海軍がフライングブームではなくプローブ・アンド・ドローグ式を使い続けているのは、空母からの運用を想定しているからだ。原子力空母といえども搭載可能な機体数は限られるし、大きさにも限界がある。給油機のために専用機を用意しておく余裕はない。それに対してプローブ・アンド・ドローグ式なら増加タンクに巻き取り式ホースを取り付けた空中給油ポッドを懸吊すればどんな機体でも給油機になり得るのだ。今回のオスプレイの事故でも給油機は専用の空中給油機ではなく汎用輸送機 MC-130 に空中給油キットを搭載していたらしい。

なお、フライングブーム式の専用給油機でもプローブ・アンド・ドローグ式を併せ持つ、あるいは臨時搭載可能にしている機体は多い。米空軍のように専用の空中給油機をふんだんに用意できるならともかく、そうもいかない普通の国々にとってはプローブ・アンド・ドローグ方式のほうが汎用性が高いといえるだろう。このふたつの方式の間には互換性がないため、例えばもともと米海軍向けに開発された F-4 ファントム戦闘機を米空軍でも採用することになった場合は、フライングブーム式の受油口を追加するといった設計変更が必要になった。

空中給油の利点は飛行時間あるいは航続距離を伸ばすこと、とだけ考えるのは誤りで、それは現代では副次的な理由になっている。
たいていの機体で、最大離陸重量と最大重量の間には差がある。たとえば、一度浮いてしまえば50トンでも飛べる機体であっても、離陸時には40トン以下でないと飛び上がることができないということは普通のことだ。この場合、空中給油ができないとすると40トンでおさまる装備でしか作戦できない。つまり、武装か燃料のいずれか(あるいは両方)を削って40トン以下に収める必要がある。しかし給油ができるのであれば離陸時に燃料を全量搭載しておく必要はない。途中で補充できない武装はフル装備しておいて、そこそこの燃料で離陸した上で足りない分は空中給油すればよい。空中給油は作戦機の能力をフルに発揮させるためには非常に有効な手法と考えられている。「専守防衛だから空中給油は必要ない」というのは理由になっていないのだ。

# 「空飛ぶガスステーション」というのは空中給油機の愛称だが、実際にはいまどきガソリンを燃料とする軍用機はほとんど無い。ヘリコプターやプロペラ機も含めてタービンエンジンとするのが現在の趨勢で、軽油に近いジェット燃料が使用される。

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2016年12月26日 (月)

2016年12月の桜

12月22日付で今年最後の将の異動が発令された。
今回の異動は海3、空2。陸は無し。

(海)
武居智久 (B23) 海幕長>退職
村川豊 (B25) 海幕副長>海幕長
山川浩 (B28) 護衛艦隊司令官>海幕副長
糟井裕之 (B29) 海幕人教部長(将補)>護衛艦隊司令官

重岡康弘 (B25) 自衛艦隊司令官>退職
山下万喜 (B27) 佐世保総監>自衛艦隊司令官
佐藤誠 (B26) 補給本部長>佐世保総監
佐藤直人 (B28) 防衛装備庁プロジェクト管理総括官(将補)>補給本部長

堂下哲郎 (B26) 横須賀総監>退職
道満誠一 (B26) 潜水艦隊司令官>横須賀総監
佐藤精司 (東京大) 海幕装備計画部長(将補)>潜水艦隊司令官

(空)
福江広明 (B25) 航空総隊司令官>退職
前原弘昭 (B27) 航空総隊副司令官>航空総隊司令官
小野賀三 (B26) 幹部学校長>航空総隊副司令官
長島純 (B29) 航空教育集団幕僚長(将補)>幹部学校長

森本哲生 (B25) 航空教育集団司令官>退職
荒木淳一 (B27) 南西航空混成団司令>航空教育集団司令官
武藤茂樹 (B28) 統幕運用部長>南西航空混成団司令
増子豊 (B29) 航空支援集団副司令官(将補)>統幕運用部長

規模としてはそれほど大きくないが、海幕長を筆頭にトップクラスの役職が入れ替わった。特に海では、海幕長、自衛艦隊司令官、横須賀総監というトップ3がまるごと入れ替わった。空でも、航空総隊司令官、航空教育集団司令官という空幕長に次ぐ役職が交代している。

さて海幕長には、三十一が早々に外した村川海将が昇進し、重岡自衛艦隊司令官は武居海幕長とともに勇退した。ずいぶん先の話になるが、次は27期の山下(自衛艦隊司令官)または池(呉地方総監)海将あたりだろうか。
最近気になるのは、これまでのキャリアパスとはずいぶん様相の違った異動のしかたが見られるようになったこと。例えば今回、道満海将が潜水艦隊司令官から横須賀総監に移っているが、この異動は三十一が知る限り前例がない。それから佐藤(誠)海将の海自補給本部長から佐世保総監というのも初めてだ。海自補給本部長と言えば、このたび海幕長になった村川海将が、海将昇進後に最初についた役職が補給本部長だった。実は村川海将を海幕長候補からはずすときには、こうした履歴が念頭にあった。これまで補給本部長は海幕長を狙える出世コースには見えなかったのだが、それがここのところ変わってきているのかもしれない。これが今後も続く傾向なのか、一時的なものなのかは引き続き観察が必要だろう。

この異動とは別に、11月末に河野統幕長(21期)の定年が半年延長された。延長期間は来年5月末までだが、実際には3月末まで、つまり今年度いっぱいになるだろう。このタイミングで統幕長の交代が想定される。
今回交代した村川海幕長は候補になり得ない。陸か空かということだが、陸海空の順番を重視するなら岡部陸幕長(25期)、期別を重視するなら杉山空幕長(24期)となるだろう。
陸なら杉山空幕長は勇退、空なら岡部陸幕長は留任すると考えられるが、いずれにせよ空幕長は交代となる。その場合の後任は小城航空支援集団司令官(26期)だろうか。
陸幕長が交代する場合、鈴木中部、森山東部、小川西部各方面総監(いずれも26期)が横並びで誰になっても不思議ではない。

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2016年6月28日 (火)

2016年7月の桜

7月1日付の異動が公表されている。将の勇退・昇任は陸5、海2、空2。そこそこ規模の大きな異動だと言っていいだろう。

今回の異動では、三十一の予想がいかにあてにならないかを思い知らされた。
まず、三十一が次期統幕長と予想した岩田陸幕長が勇退した。
次に、三十一が次期海幕長と予想した池田呉総監が勇退した。

次期海幕長については、もともと当てずっぽうだという自覚があるのでハズレを受け入れるのはそれほど難しくなかった。
しかし次期統幕長は間違いないと信じ込んでいただけに、いまちょっと混乱している状態だ。

何はともあれ、まずは今回の異動をまとめておこう。

陸将
岩田 清文  (防23)退職 < 陸幕長
岡部 俊哉  (防25)陸幕長 < 北方総監
山崎 幸二  (防27)北方総監 < 統幕副長
住田 和明  (防28)統幕副長 < 第2師団長
髙田 克樹  (防29)第2師団長 < 陸幕防衛部長(将補)

松村 五郎  (東大)退職 < 東北方総監
山之上 哲郎(防27)東北方総監 < 陸幕副長
湯浅 悟郎  (防28)陸幕副長 < 第9師団長
納冨 中    (防29)第9師団長 < 東北方幕長(将補)

赤松 雅文  (防26)退職 < 第4師団長
岩谷 要    (防28)第4師団長 < 陸幕人事部長(将補)

掛川 壽一  (防26)退職 < 第6師団長
上尾 秀樹  (防29)第6師団長 < 第15旅団長(将補)

川又 弘道  (防25)退職 < 中即団司令官
小林 茂    (防27)中即団司令官 < 防大幹事
岸川 公彦  (防28)防大幹事 < 第8師団長
本松 敬史  (防29)第8師団長 < 陸幕教訓部長(将補)

海将
池田 徳宏  (防25)退職 < 呉総監
池 太郎    (防27)呉総監 < 教空団司令官
渡邊 剛次郎(防29)教空団司令官 < 海幕防衛部長(将補)

平田 文彦  (防医4)退職 < 中央病院副長
柳田 茂樹  (防医5)中央病院副長 < 横院長(将補)

空将
吉田 浩介  (防25)退職 < 空自補本長
尾上 定正  (防26)空自補本長 < 北空方司令官
城殿 保    (防29)北空方司令官 < 空幕人教部長(将補)

平本 正法  (防25)退職 < 中空方司令官
三谷 直人  (防29)中空方司令官 < 空幕防衛部長(将補)


岩田陸幕長の勇退は予想外だったが、後任陸幕長の岡部北方総監は的中。
その下の26期生3名(鈴木中方、森山東方、小川西方)は横一線だが、むしろそのさらに下になる27期の山崎(北方)、28期の湯浅(陸幕副長)両陸将が今回も順当にポストを上げて来ており今後注目。

海では27期の池海将が呉総監にまで上がってきてトップをうかがう。

空ではトップに手が届くようなポストでの異動はなかった。

さてさて、岩田陸幕長の勇退で次期統幕長の行方は混沌としてきた。
三十一が次は岩田陸幕長と予想していたのは、河野現統幕長が海、岩崎前統幕長が空の出身で当然次は陸からという先入観があったからだ。しかしこの慣習はこれまでよほどのことがないかぎり守られてきたので、今回この慣習から外れるだろうという予測はさすがにできない。
しかし今回、岩田陸幕長の勇退で陸の現役から23期生がいなくなってしまった。24期生はすでに勇退済みなので、最先任が25期生の岡部(新)陸幕長ということになる。三自の順序を墨守するなら今回陸幕長に就任した岡部陸将が、現職の河野統幕長のあとを襲って次代の統幕長に就任ということになるのだが、河野統幕長は21期生なので4期あいだがあくことになる。統合幕僚会議議長の時代から数えても、初代の林統幕議長が10年勤めたのを例外として、3年以上勤めた例はない。もっとも、河野統幕長は2014年10月の就任で、仮に岡部陸幕長が1年つとめて統幕長に移ったとしても在職は2年9ヶ月となり、かなり長い部類には入るが例外的というほどではない。それでも、河野統幕長の在職は現時点ですでに1年半以上になるので、在職3年に届こうかという岩田陸幕長に譲るのが順当だと考えたんだけどなあ。省内上層部で三十一には伺い知ることのできない力学が働いたのかもしれない。

ちなみに期別に見ると、現在21期生は統幕長の河野海将、22期生の現役はすでになく、23期生は海幕長の武居海将、24期生は空幕長の杉山空将が残っているという状態だ。25期になると、陸では陸幕長の岡部陸将のみになっているが海では重岡自艦隊司令官と村川海幕副長の2名、空では福江総隊司令官と森本空教団司令官の2名が残っている。もし岡部陸将が1年で統幕長に移るとなると、残る25期生の幕僚長は難しくなってくる。池田(前)呉総監が次期海幕長レースから脱落したので、以前の予測の流れでいくと重岡自艦隊司令官に確定ということになるはずだが、それも怪しくなってきた。

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2016年4月26日 (火)

蒼雲白剣瑞黒神赤

オーストラリアの次期潜水艦選定に関して、フランスのスコルペヌ級改良型が選定されたと発表された。日本は受注を逃した。

France wins A$50bn Australia submarine contract (BBC News)
France has won a A$50bn (€34bn; £27bn) contract to build 12 submarines for the Australian Navy, beating bids from Japan and Germany.

今回のことに限った話ではないが、日本人が陥りがちな誤解もしくは幻想がふたつある。

まずひとつは、高い技術力で良い製品を作れば必ず売れるという幻想。自分が何かモノを買うときのことを考えても、必ずしも「いいものだから買う」というわけでもない。製品のよしあしとは別に、価格だとか入手しやすさだとか大きさだとか頑丈さだとか、あるいはオマケの有無など、さまざまな要素が絡み合って購入行動は決まる。しかしなぜか自分が売る側の立場になったときにはそういうことはきれいさっぱり忘れてしまうのだな。日本が誇る新幹線がどうしてこれまで輸出に成功してこなかったのかを考えてみよう。日本の新幹線の技術力の高さを否定する人はいない。しかし実際に輸出できたのは台湾だけで、それも一度はヨーロッパ勢に負けていながら地震のおかげで逆転できた。

そしてもうひとつは、そもそも日本の技術力が高いという幻想。近頃テレビやほかのメディアで「日本の技術はこんなにすごいんだぞ」と自分で自慢する記事や番組をよくみかける。中には外国人を日本に呼んで彼ら彼女らが驚くところを見て喜ぶという悪趣味な番組もあるが、では日本に来た外国人が帰って日本のやり方を真似するかといえば多分しないだろう。自分達にはできないと思っているのか、それとも「そこまでやる必要はない」と思っているのか。あさっての方向に対して費やされた努力は努力のうちには数えられない。日本の消費者が求める方向とは合致しているのかもしれないが、海外から見たときにはあさっての方向に進んでいるようにしか見えないことがある。これがガラパゴス化だ。縮小しつつある一億二千万人の市場のために70億人の市場は捨てるのだ、という経営判断をするというならそれはそれぞれの企業の自由だが。
例えば日本が誇る新幹線だが、輸出市場で負け続けているのはすでに述べたとおりだ。先頭車両の微妙な形状を打ち出し板金で加工していて、これは日本でないとできない技術だと誇っているが、広々とした土地にゆったりと線路を敷き、上下線の間隔もたっぷり取られ、ほとんどトンネルはなくあったとしても断面積に充分な余裕があれば、先頭形状はそれほど気にすることはない。日本のように狭い土地で上下線の間隔は必要最低限とし、トンネルが多くしかも断面積がぎりぎりの大きさという条件だから、高速でトンネルに入ったときの微気圧波が問題になるのだ。そのために車両メーカーや鉄道総研では時間と費用をかけて最適な先頭形状を追い求めているが、前提となる制約がないところでは要らない努力だ。
日本の技術力の象徴である戦艦大和と零戦だが、実は海外では日本で言われているほど評価は高くない。アメリカ人にとって第二次世界大戦で最強の戦艦は大和ではなく自国のアイオワ級であることは疑いの余地はなく、イギリス人はそれを横目で見て否定も肯定もしない、というのが良く見られる図式だ。いまとなっては確かめようもないことだが、特にアメリカでは大和級での主砲の初速が低いことを問題にして、長砲身の16インチ砲を搭載するアイオワ級は砲戦力では大和級にひけをとらない、というのが大方の評価らしい。砲戦力が互角となるとそのほかの性能、特に速力の違いが優劣に影響する。結論としてアイオワ級のほうが強い、という論法だ。この理論をはっきりと否定するのは難しい。また零戦にしても、開戦当初は神秘的な格闘戦性能で連合軍の空軍をパニックに陥れたが、やがて実機を捕獲するなどして研究が進むとF4Fワイルドキャットでも戦術によって充分対抗できることがわかり、パニックも収まった。当時としては優秀な戦闘機ではあったが、無敵ではなかったというのが(日本以外での)最大公約数的な評価だろう。

さて潜水艦に話を戻して、今回日本とコンペになったのはドイツとフランス。どちらも潜水艦の輸出大国だ。この顔ぶれに日本が伍していけるのは、ドイツとフランスの輸出向け潜水艦のサイズが2000トン程度と中小型で、オーストラリアが求めている4000トン級の潜水艦についてはこれまでほとんど実績がなかったからだ。日本が現に建造しつつある潜水艦が、オーストラリアが求めるサイズに(西側通常動力潜水艦として)唯一合致する。どうしてこれまでドイツやフランスの輸出潜水艦のラインナップにこのサイズが無かったかといえば、単純に市場で需要が無かったのだ。現在の潜水艦市場での売れ筋は1000トンから2000トン程度。4000トンの潜水艦を求める国はほとんどない。売れ筋商品に対してラインナップが厚くなるのは当然だ。ドイツとフランスがそれでもオーストラリアへの商戦に参入したのは、これまで充分な実績のある2000トン型を拡大した新型商品でも、輸出実績のない日本には渡り合えると踏んだのだろう。
ところで最近、雑誌などで主要潜水艦の雑音放射レベルを図示したものとされるグラフを見ることがある。ロシア海軍から流出したものという触れ込みで、もっぱら中国の潜水艦の雑音放射レベルがロシアのものに比べてまだまだ相当大きいということを示すために使われているようだが、そのグラフを見て三十一が気になったのは、日本の潜水艦の雑音放射レベルが比較的高いところにプロットされていること。根拠は確かめようがないのだが、日本国内では「世界一静粛」とされる日本の潜水艦は実は言われるほど静粛ではないのかもしれない(日本人が日本製品に対して「世界一」というのはあてにならない、というのは経験則だ)。これが事実かどうかに関わらず、どこかの営業担当者が自社の(または自国の)製品の優秀さをアピールするのに使われたかもしれない。
売り込みにかかった日本の担当が企業なのか商社なのか、外務省なのか経済産業省なのか防衛省なのか防衛装備庁なのか知らないが、「日本の潜水艦は優秀でだから絶対売れるはずだ」という思い込みは一度捨てて虚心坦懐に自分の強みと弱みと相手の希望を見つめ直してみるべきだったろう。次があるなら教訓にしてほしい。


これまで日本が生み出してきた製品の中で、これだけは間違いなく自慢していいと言えるものが無いか、と考えてひとつだけ思いついたものがある。

「ウォークマン」だ。

音楽を持ち歩く、という発想はまったく新しいものだ。これが拡張されて現在の携帯電話やスマホにつながる「モバイル」「ウェアラブル」という文化が生まれた。ちまたに溢れる「歩きスマホ」を見ると辟易させられることもあるが、世界を変える出発点になったことは間違いない。
逆にいうとこれ以外に思いつかなかった。

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2016年3月27日 (日)

2016年春の桜

そろそろ春の異動がある頃だと思っていたら23日付で発令された。
しかし昨年の秋に割と大きな異動があったせいで比較的小規模だった。これもある程度予想通り。将について言うと昇進と退職が3人ずつ。

高橋勝夫(防25)・統幕校長>退職
坂田竜三(防26)・大湊総監>統幕校長
中西正人(防27)・横須賀総監部幕僚長(将補)>大湊総監

飯塚稔(防25)・装備庁陸上担当装備官>退職
川瀬昌俊(防26)・陸自研本幹事(将補)>装備庁陸上担当装備官

永井昌弘(防25)・1師団長>退職
西浩徳(防28)・13旅団長(将補)>1師団長

特に重要なポストで交代があったわけでもないので、コメントすることも別に無い。
かと言うとそういうわけでもない。
昇進も退職も3名ずつだが、分類してみると退職は陸3名。しかし昇進は陸2海1である。つまり統幕校長が陸から海に移っているのだ。もともと統幕の3ポスト(統幕長・統幕副長・統幕校長)は陸海空から1名ずつ出るようになっていた。昨今は統幕運用部長が将ポストに加わって4ポストを分け合うようになっている。この一角である統幕校長が陸から海に移ったということは、近い将来にいずれかのポストが海から陸に移ることが想定される。

具体的に言うと、統幕長が現職の河野海将から現陸幕長の岩田陸将に交代するということだ。河野海幕長は2014年10月の着任。この春に交代がなかったということは、夏から秋までには交代があるだろうと予想される。

当たらなくても責任持ちません。

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2016年1月15日 (金)

トップの殉職

検索キーワードとかアクセスランキングが妙な動きを示していたので調べてみたところ、君塚元陸将が昨年末に亡くなっていたことが影響していたようだ。
君塚栄治元陸将は先代の陸上幕僚長で、2011年3月の東日本大震災当時は東北方面総監の職にあり、統合任務部隊の指揮官として災害派遣にあたる陸海空自衛隊の部隊を指揮した。2011年8月に陸上自衛隊制服組トップの陸上幕僚長に就任し、2013年8月に勇退したがそれからわずか二年あまりの昨年12月28日に亡くなった。63歳。

突然の訃報と、死因が公表されていないことから一部では「放射線障害によるものではないか」との憶測が飛び交っており、中には断定的に伝える人もいる。
ピーク時で10万人規模にもなった統合任務部隊の指揮官である君塚陸将(当時)は、ときに現場に視察にでることはもちろんあるだろうが、基本的には司令部である東北方面総監部に位置して指揮をとっていたことは間違いない。東北方面総監部は仙台駐屯地に所在する。「放射線障害云々」を取り沙汰するような人々は「指揮官」というものにどんなイメージを持っているのやら。
さらに言うならば、「原子力災害」については大臣直属の中央即応集団が担当しており、君塚陸将率いる統合任務部隊とは指揮系統が異なる。通常の災害派遣と原子力災害対処とではまったく異なる対応が必要となり、それまで統合任務部隊に背負わせるのは負担が大きすぎると判断したのだろう。それぞれに緊急性の高い、しかし違う仕事を同時にこなすために、それぞれのアタマ(司令部)と手足(部隊)を別個に用意することとなった。君塚陸将はその一方のアタマであったのだよ。
当時の激務が寿命を縮めたという面はあるかもしれない。しかしだからと言って「放射線」と短絡的に結びつけるのは早計にすぎる。

ちなみに当時の中央即応集団司令官は宮島俊信陸将。この職を最後に2011年8月に勇退したが、まだ健在のはずだ。

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