2009年12月 7日 (月)

「日本の歴史15 織豊政権と江戸幕府」


"織豊政権"とひとくくりにされがちだが、実はその性格はだいぶ違う。
織田信長はその末期に信濃から播磨までひろがった領国に最高権力者として君臨した。柴田勝家も羽柴秀吉も前田利家も、信長にとっては単なる爪牙に過ぎなかった。本能寺の変のあと、織田政権の実権を握った秀吉ははじめ信長の路線を継承しようとしたが、小牧長久手戦役で徳川家康を服属させることに失敗したことをひとつの契機として、構造の異なる政権を構築することを余儀なくされた。

信長は官位にそれほど重きを置いていなかったようで、右大臣に昇進してまもなく辞官して家督を嫡子信忠に譲った。散位前右府として無官というわけではないが、朝廷から「太政大臣か関白か(征夷大)将軍」を勧められても黙殺した信長は、天下統一後に改めて適当な官職につくつもりだったのではなどと言われるがもはや推測するしかない。
いっぽうの秀吉は、小牧長久手戦役後に官位の昇進を重ねついに臣下として最高の地位である関白につく。天皇の代理たる関白の資格で秀吉が発したのが武力闘争を禁じた"惣無事令"である。天皇の権威をタテに武力闘争を停止させて現状を維持し、各地の大名の連合政権を樹立した上で秀吉がその第一人者として統制する、というのが秀吉政権である。もちろんそこには秀吉の武力が背景にあるにしても、信長のように相手をたたきつぶして直接支配下に置く、という方法とはまったく行き方が違う。秀吉政権末期の五大老のうち、毛利輝元、上杉景勝はもともと秀吉政権外部の大名で外様。宇喜多秀家は信長秀吉交替期に毛利から離反して秀吉についた。前田利家はもと織田政権下での同僚。そして徳川家康は信長の同盟者であって、もと信長の家臣であった秀吉からみれば格上である。この顔ぶれからも、秀吉政権が有力大名の寄り合い所帯であったことが見てとれる。

実は江戸幕府もこの構造(有力大名の寄り合い所帯)を引き継いだ。しかし徳川氏は何代かをかけてこの構造を維持したまま内容を換骨奪胎することに成功し、将軍独裁を確立する。

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2009年11月11日 (水)

「世界の歴史19 中華帝国の危機」


先月の旅行から戻って以来、普通のテレビ番組はほとんど見ずにアメフトばかり見ているせいであまりネタがない。そういうときは書評でお茶を濁す。

この巻で取り上げるのは1840年のアヘン戦争から1911年の辛亥革命まで。東洋的朝貢関係に基づく世界秩序に安住していた中国が西洋的な"近代"外交に振り回されて転落していく過程を記述している。

これ以前の中国は、英国使節マカートニーに対する乾隆帝の答えのように「地大物博、足らざるなし」(領土は広く物産は豊かで外国に頼らなければならない理由はない)と悠然と構えて中国に朝貢に来る"夷狄"を寛容に受け入れる立場だった。そういう意味では、(主観的には)選択権は中国の側にあって相手側にはなく、受け入れるも拒むも自由だった。

ところがアヘン戦争以後、この様相は一変する。周辺の朝貢国は次々に諸外国に奪われ、不平等条約に苦しむことになる。もっとも、中国のほうでは「外国人の事件は外国人にまかせて中国人の手を煩わせないほうがいい」という具合に領事裁判権をむしろ好都合に考えていたという。それはともかく、アヘン戦争から第二次大戦までのほぼ一世紀間はこれまで数千年にわたって中国人の発想の根幹にあった中華思想が踏みつけられ泥にまみれていく過程でもあった。

現代の中国人が2世紀前の乾隆帝の寛容をあとかたもなく消し去って、内政干渉についてヒステリックにまで拒絶するようになったのはこの一世紀間にうけた痛みの産物だろう。ただそれが"羮に懲りて膾を吹く"ようなことになっていないことを祈る。

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2009年11月 8日 (日)

「日本の歴史14 周縁から見た中世日本」


蝦夷、琉球、そして東シナ海という日本の「周縁」部から日本を見直そうという試みは近年のものだ。これまでの日本中枢部を中心にして展開してきた歴史研究とはまったく異なる視点であるゆえに、まだまだ検討の余地が多い分野であると同時に定説にまったく拘束されずに自論を展開することができるという意味で、やりがいのある、言い方を変えれば好き放題やれるのが魅力なのだろう。

「周縁」という呼び方は当時の日本の政権が置かれていた京都中心の視点であって、実際にはこれらの地域は「境界」である。中国や東南アジアとの中継貿易で栄えた琉球はもちろんのこと、東シナ海は朝鮮中国日本琉球の間の交易路であったし、北方の辺境と見られがちな蝦夷も近年では日本海北部や樺太・沿海州を経て中国東北の遊牧民と交易があったことが確認されている。

文献史料が乏しいためにこれらの地域でどのような王権の展開があったのかはなかなか再現が難しいのだが、これらの交易を触媒としてそれぞれの地域で独自の社会構造が形成されていったことは間違いない。「地方の時代」という政治臭のする言葉と歴史研究を絡ませるのは望ましいことではないが、分権的な傾向の強い中世ではこうした"すきま"権力が成立する余地があった。こうした権力を中央の統制に組み入れようという動きが近世を生むひとつの動機となったかもしれない。

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2009年11月 5日 (木)

「日本の歴史13 一揆と戦国大名」


第一章(p.10)より

一揆と聞くと、権力者に対する農民の反乱をイメージしがちだが、実はそれは近世になってから一揆のひとつの側面が強調された結果であって、中世における一揆はもっと広い概念であった。一揆とはある目的をもって組織や集団をつくること、そしてつくられた集団自体をいうのである。

一揆のひとつの特徴としては、その構成員たちが基本的にはみな対等な立場で集まった組織だということがある。近世(江戸時代)のいわゆる農民一揆・百姓一揆とは違って中世の一揆はあらゆる階層で形成された。神職・僧侶・商人・農民・国人・領主などがそれぞれに一揆を構成しても不思議ではないし、実際構成された。一揆はもちろん、外部に対抗するという目的をもって組織されたのだが、組織内部では階層的な構造は基本的にはなかった。

この時代、日本の農村は中世の「荘園」から近世の「惣村」への移行期にあった。「惣村」化とは言い換えれば「農村の自治化」である。ムラの構成員たる村人は固定し、村人は先祖代々村人であり、余所者とは明確に区別される。領主に対して納めるべき年貢は「村請け」が主となり、年貢を出せない者がいた場合はその分を村全体で負担して領主に対する未進は出さない。その分は村人同士の負債となる。いわば村がひとつの完結した法人となったと言えるだろう。

戦国時代は、各地の戦国大名によって農村の直接支配が進んだと言われるが、実はこうした農村の「惣村」化に乗ってピラミッド型に組織し直したものだ。これ以前の「荘園」制では各種の権利義務が領主や地頭の間に網の目のように張り巡らされていて一元的な支配はできなかった。戦国大名による農村の一元支配は農村の「惣村」化があって初めて可能になった。「惣村」化は戦国大名の誕生以前から進行していたものだから、戦国時代"だから"「惣村」化が進んだのではない。

環境の変化が「戦国時代」を呼んだのか、戦国時代が環境の変化をもたらしたのか、その評価は難しい。お互いに影響し合ったのだ、というのがつまらないが無難な回答だろう。

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2009年10月31日 (土)

「鄧小平 政治的伝記」


北海道旅行の前半というかはじめの3分の1くらいで読み終えた。

三十一がこれまでもっていた印象では、鄧小平は文化大革命で混乱した毛沢東死後の中国を立て直し、改革開放政策で世界市場をひっぱる現在の中国を方向づけたというものだ。まあそれ自体はけして間違いではないのだが、しかし結果論であって鄧小平が最初からそのつもりで中国を指導してきたかというと、実はそうでもないかもしれない。

鄧小平はもちろん毛沢東の薫陶をうけて長征後の中国共産党で地歩を気づいてきたわけだけど、理論家で理想家で思いこみの強い毛沢東と比べて、鄧小平はあくまで実務本位であまり理論に詳しくないらしい。改革開放政策花盛りのころ、まるでかつての"毛沢東語録"のように"鄧小平文選"が争って読まれた時期があったが、"文選"には"語録"のような理想論や理論分析はほとんど含まれていないそうだ。マルクス・レーニン主義をどれほど理解しているかすら疑問視されている。鄧小平は周恩来とほぼ同時期にフランスに留学しているけど、実際にはほとんど勉強しなかったようだ。

ただ、そういう理論を知らないからこそ、文化大革命後の困難な時期に不毛な神学論争に陥ることなく改革開放に突き進めたのだろう。そういう意味では鄧小平こそは現代中国で有数の「政治家」だったのだろう。

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2009年10月 5日 (月)

「足利尊氏と直義」

少し前、小規模な書籍流の後かたづけをしていて発掘された本。化石化するほど埋もれさせていたわけではないけど、結果としていいタイミングで姿を現したことになる。

この本と直接関係ないのだが、巻末参考文献を見ると「南北朝の動乱」と題する文献が3冊も挙げられているのが目につく。本文中で引用されている中にも同名異本がしばしば見られて紛らわしい。シリーズものでこの時代をカバーした巻にこの題がつけられていることが多いようだ。参考文献として挙げられているのは、集英社版「日本の歴史」8巻(伊藤喜良、1992)、中央公論社版「日本の歴史」9(佐藤進一、1965)、吉川弘文館「日本の時代史」10(村井章介、2003)だが、この他に吉川弘文館「戦争の日本史」8(森茂暁、2007)も同じタイトルだ。同類に「南北朝内乱」(小学館版「日本の歴史」11、佐藤和彦、1974)というのもある。ちなみに三十一は「南北朝の動乱」4冊のうち3冊を持っている。なお、ここでいう「持っている」と「読んでいる」は必ずしもイコールではない。

さて、足利尊氏とその同母弟にあたる直義(ただよし)はほぼ同格の「両将軍」として南北朝時代初期の幕府を牽引した。兄尊氏は御恩奉公による封建的主従関係と軍事をもっぱら担当し、弟直義は幕府という統治機構の運営と政務を担当した、というのが上掲書での佐藤進一による分析であり、この本の著者も基本的にはその認識を継承する。兄弟のうち、年長の尊氏が主従関係を基礎とする軍事を担当したのは自然な成り行きだが、開けっぴろげで寛大だったと言われる尊氏と、几帳面で筋を通す質の直義はそれぞれ適材適所だったろう。これが反対だったら室町幕府はどうなっていたかわからない。もっとも、尊氏は躁鬱気味だったらしく、楽観的な時と悲観的な時の感情の波が激しく、特に悲観的な時には周囲がなだめるのに苦労したようだ。

この仲のよい兄弟が幕府開設から10年あまりで血みどろの闘争を繰り広げることになる。いわゆる「観応の擾乱」だが、これは兄弟の争いというよりは、軍事と政務をそれぞれ分担していた二頭体制のなかで、それぞれの側近勢力が主導権を争って戦ったという要素が大きい。現実には、尊氏と直義というよりは尊氏側近で武断派の中心の高師直らと、直義配下の上杉重能らの間の対立こそが「観応の擾乱」の本当の原因だろう。
教科書で知られている通り、「観応の擾乱」は最終的に尊氏の勝利に終わり、直義は失脚、まもなく没した(当時毒殺の噂が流れたという)。「擾乱」の展開を見ると、直義のほうが有利な時期もあり、どちらが勝っても不思議ではなかったように見える。それが最終的に尊氏勝利で決着したのは、直義から見ても尊氏の代わりになる人物はいなかったのに対し、尊氏にとって直義の代わりがいたことが大きいだろう。尊氏にとって、直義の代わりに政務を任せられる存在として幕府開設から「擾乱」までのあいだ東国のおさえとして鎌倉にあった実子義詮(よしあきら)があった。次代の将軍である。尊氏は「擾乱」のあと義詮を上洛させて政務を担当させ、代わって義詮の弟である基氏を鎌倉に下した。しかし直義は、兄であり軍事の総帥であり征夷大将軍である尊氏にとってかわる人物を見出すことができなかった。それが尊氏に対する措置に徹底を欠くことになり、最終的な敗退に結びついたのではなかろうか。

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2009年9月26日 (土)

「日本の歴史12・室町人の精神」

ネタがないときは書評に逃げる。

この巻で取り上げる時代は、南北朝の末期から応仁の乱までの、いわば"純粋な"室町時代。室町幕府240年の歴史のうちはじめの60年は南北朝時代、最後の100年余りは戦国時代とも呼ばれるので、それを除いた80年弱が対象となる。
こうして見ると、前後が戦乱の時代だっただけにこの間は比較的平穏だったように思えるが、それは前後と比べるからであって、普通の感覚でいけば充分動乱の時代と言ってよい。内部抗争に明け暮れた鎌倉時代にひけをとらないくらい、武力衝突は枚挙にいとまがない。この時代、大きなイベントには元号を冠するのが一般的だったのだが、主なものを挙げても「明徳の乱」「応永の乱」「上杉禅秀の乱」「永享の乱」「結城合戦」「嘉吉の変」「享徳の乱」と続く。この他にも、より小規模な衝突はしばしば起きている。ことに顕著なのは、東国鎌倉に拠点を置く関東公方に絡んだ紛争がほぼ間断なく起きていることで、「上杉禅秀の乱」(1416)以降、足利氏庶流関東公方と、関東管領上杉氏と、京都の幕府が三つどもえになって断続的に戦闘が続いており、「享徳の乱」(1454~1482)は実に30年近くも続いて、東国はこれにより実質的に戦国時代に入ったと考えてよい。
室町幕府は、足利将軍家を頭首に戴いてはいたものの、現実には有力守護大名の連合政権とみなされている。観念上、守護は将軍から任命されるものとされているものの、実際には有力大名によって世襲されており、領国化していた。ある守護個人が罪によって守護職を剥奪されたとしても、その守護職は同族の別人に与えられるのが慣習化しており、よほどのことがないかぎり他氏にわたることがない。ときにそのようなことがあると、それは大きな恨みとなって禍根を残す。結局、ある特定個人を守護から追い落とすことはできても、一族としての守護家の勢力は温存されることになる。こういう状態では、守護同士の紛争よりもむしろ守護家内部の家督争いのほうが起こりやすい。ライバルを抑えて家督の座を手に入れれば、ほぼ自動的に守護職が与えられる。しかしこうした家督争いがあちこちの守護家で起こると、それぞれの陣営が他家のある陣営と手を結ぶことになるのは必然だ。「応仁の乱」前夜、畠山政長と斯波義敏が手を組み、畠山義就・斯波義廉勢と合戦に及んだのはその一例である。

「由緒正しい」守護家の多くは、こうした内部抗争の末に力を失い没落していく。代わって表舞台に出てくるのは、よりコンパクトな「守護代」や「国衆」を出自とする戦国大名だが、それは次の巻の話となる。

To be continued ...

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2009年9月17日 (木)

「軍艦武藏(上/下)」


最初に本屋で見かけたときにまず思い浮かべたのが吉村昭の古典ともいうべき「戦艦武蔵」だった。


もちろん三十一はこの本も読んだことがある。単行本と文庫と両方持っていたような気がする。「戦艦武蔵」のほうは意外に薄い本だが、「軍艦武藏」のほうは上下巻でかなり厚い。

筆者は、戦闘記録や既存の回顧録などを適宜引用するいっぽう、元乗員をはじめとする関係者に丹念に取材している。一水兵から下士官、あるいは初級士官といったこれまであまり日のあたらなかった人物の証言を多く収録した。これは戦後50年余りという取材時期による制約もあったに違いないが、しかし軍艦というものが多くの(武蔵の場合二千人以上)人々の想いや事情を飲み込んで動いていることを改めて思い知る。近年希に見る良質の戦記だと思う。

なお、「軍艦武蔵」ではなく「軍艦武藏」と題し、本文中でも一貫して「武藏」と正字で表記している。頻繁に出てくる「浜風」も「濱風」だ。批判しているわけではなく、誉めているのですよ。

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2009年9月 7日 (月)

「日本の歴史11・太平記の時代」

タイトルに「南北朝」という言葉を用いず、「太平記の時代」と題したのは意図があってのことらしい。「太平記」といえば「平家物語」と並び称される代表的な軍記物だが、現時点ではもっぱら「平家物語」が知られていて、「太平記」はそれほど知られていないように思う。しかし個人的には、「太平記」の時代の複雑ぶりはむしろ「三国志」に通じるところがあって現代人にも理解可能な内容だと思うのだけどなあ。

14世紀というこの時代、未熟だった鎌倉の武家政権はようやく成熟しつつあった。鎌倉時代、幕府はいわば「武家の武家による武家のための政府」だったが、南北朝の政権争奪を経て幕府は「武家による日本政府」へと脱皮した。荘園の国衙領分から兵糧を調達する半済が公認され、京都市中への課税である土倉役が室町幕府により賦課された。公武が互いにそれぞれの領分を尊重していた鎌倉時代から、武家が配下の御家人とあわせて公家をも支配下におく室町時代以降への転換点である。

公卿の頂点である太政大臣までのぼりつめ、准三后の礼遇をうけ、皇位まで狙ったと言われる足利義満は確かに室町幕府の絶頂期ではあるが、しかし室町幕府全体を概観してみると異常な状態であると言わざるを得ない。むしろ義満の次代にあたる足利義持が父義満への反感から公家と距離をおくようになり、それが以後の公武関係を規定したように思われる。

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2009年8月23日 (日)

「日本の歴史10・蒙古襲来と徳政令」


前の巻を読み終わるまでに、実質半分以上読み終えてしまっていたので、別にペースが早いわけではない。三十一としては、であるが。

明治維新以前の日本の王権は、権威の天皇、権力の将軍に分裂していたと言われる。鎌倉幕府のときは、それに加えて幕府自体が権威の将軍と権力の執権に分裂していた。さらに後期に入ってからは、執権と得宗が必ずしも一致していなかった。形式が完成すると形式と実態が乖離していくというのはこれに限ったことではなく、朝廷においても見られた現象だ。

もともと鎌倉幕府は、いわゆる御家人にしか支配が及ばなかった。統治の源泉が将軍と各御家人の個人的な主従関係にあったから当然だ。非御家人への統治の責任は依然として朝廷にある、というのが建前だったし、少なくとも鎌倉時代前半期までは実態でもそうであったという。全国の荘園に地頭が配置され、各国に守護が置かれてもなお国衙領はその実体を失っていなかったし、在京貴族を本所とあおぐ荘園は少なくない。というより、各荘園が地頭と本所に両属していたのだ。こういう複雑怪奇な所領支配関係は解釈の違いを起こしやすく、しかも「一所懸命」という言葉に象徴される通り武士も貴族も所領こそが自らの財政基盤であったから、所領に関する訴訟は非常に多かった。幕府の(そして朝廷の)仕事の大半はこの訴訟の処理であったと言える。

しかし幕府も末期になると、非御家人にも幕府の支配が及ぶようになる。それは「蒙古襲来」という国難にあたって、挙国防衛体制が必要になりその主体になったのが幕府であったからである。こうして幕府の支配構造は変化を余儀なくされる。次の時代への脱皮への陣痛であっただろう。しかしこの脱皮は鎌倉幕府の滅亡と後醍醐天皇の復古の試みを経て初めて可能になった。

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