2016年8月23日 (火)

譲位という伝統

8月15日に会社から帰ってくるとちょうど9時だったのでニュースを見るためにテレビを点けたのだが、天下の国営放送ともあろうものがトップニュースで終戦記念日ではなくウサイン・ボルトを取り上げていたのはいかがなものかと思った。
そのちょうど一週間前に天皇陛下の勅語が放送された。三十一はこの日も会社に行っていたので、放送を録画して帰宅後に最初から最後まで拝聴した。譲位のご意向を示されたものと受け取られている。それから一週間後に戦没者祈念式典に出席された陛下がこれまでどれほど重い責任感をもってこれらの行事に臨んでおられたのかを拝察するに感慨を禁じ得ない。ウサイン某の勝ち負けや去就なんか知ったことか。

さて譲位についてだが、もともと近代以前には譲位による皇位継承が常態だった。それも在位の天皇が高齢になったからというのではなく、成年に達した後継者があればすみやかに位を譲るのが、本来あるべき姿と考えられていたようだ。幕末以来200年あまり譲位は行われていなかったのは事実だが、幕末の仁孝天皇および孝明天皇が譲位しなかったのは、後継者に譲位するタイミングを逸して崩御してしまったからで、もう少し(数年)長命だったら譲位していた可能性は高い。
仁孝天皇の場合、皇太子統仁親王(のちの孝明天皇)は天保15年(1844年)に数え14歳で元服している。これ以降、いつ譲位があってもおかしくなかったのだがその2年後に仁孝天皇が47歳で崩御してしまって譲位のタイミングを逸してしまった。ちなみに仁孝天皇自身は数え12歳で元服し18歳で父光格天皇の譲位をうけて践祚している。
孝明天皇の場合、数え36歳で崩御した慶応2年(1866年)当時、儲君である睦仁親王(のち明治天皇)は数え15歳でいまだ元服していなかった。践祚後の慶応4年(1868年)に数え17歳で元服している。
さてではどうしてこういう慣習ができあがったのだろう。祭祀王として清浄を求められる在位の天皇(ミカド)と、権門の最たるものである皇室の家長としての「治天の君」が機能分離し、それぞれの機能を別々の人物が保有することが不自然でなくなったということがあるだろう。「ミカド」はむしろ若年で政治的に無色であることが求められ、「治天の君」は国政と家政の総覧者としてある程度の老練さが必要になってくる。したがって、若年のうちに「ミカド」に即位し、壮年にいたって祭祀王の役割を後継者に譲るとともにかつての「ミカド」としての権威を背景に「治天の君」として実際の政界に対峙するという「キャリア・パス」ができあがった。こうした慣習が確立した院政期が、摂政関白の地位がいわゆる5摂家の家職と化していった時期と合致するのは偶然ではあるまい。
近代以降、譲位という習慣が否定されたのは、祭祀王である「ミカド」と最高権力者である「治天の君」を無理やりに一体化させようとした試みであったと考えられる。そう考えるとき、もはや「治天の君」という権能を求められない現代において、日本国民統合の象徴である「天皇」が果たすべき役割はかつての「ミカド」に近い。近代以前の、天皇が「ミカド」であった長い時代において譲位そのものが政治問題化した例は実はそれほど多くない。この時期には天皇にほとんど実権がなかったということが大きな要因だが、それもむしろ現代の状況に近いと言えるだろう。皇統が一本化された室町中期以降、譲位が政治問題化したのは江戸時代初期に後水尾天皇が幕府に相談なく娘の明正天皇(徳川秀忠の外孫)に譲位した事件くらいだろう。これには「禁中並公家諸法度」の発布や「紫衣事件」などが背景にあり、幕府確立期における幕府と朝廷の駆け引きの一環であって、朝幕関係が安定してくるとこうしたいざこざは後を絶った。

要するに「伝統」や「政治問題化の懸念」を理由に譲位という手段を否定するのは根拠がない、ということだ。

続く、かも。

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2016年6月 9日 (木)

「史記」修訂本

先日、調べ物をしていたら中華書局刊の「史記」点校本の修訂本が出ていることを知り、早速週末に神保町の内山書店で入手。配送も可能とのことだったが、そのまま持ち帰る。全10冊でそこそこの重さではあったが、店から駅まで、駅から自宅までのそれぞれ10分程度ならそれほど苦ではない程度の重さ。ただし、全部をまとめて紙袋で下げるのではなく一部をわけて背負ったリュックに分散させればもうちょっと楽だったかな、とも思った。結局「苦」だったんじゃん。

修訂前の版はずっと前、もういつごろだったのかもよく覚えていない頃に入手している。確か東方書店だったと思う。ちなみに東方書店と内山書店は神保町でほんの数10メートルしか離れておらず、今回も値段で内山書店を選んだけれど別にどっちでもよかった。それはさておき、旧版の「史記」はそれ以降、何年かに一度くらいの間隔で思い立っては参照するということが続いている。実は現在、その周期がたまたまやって来てその関係で調べ物をしていて修訂本にたどり着いたのだ。

下のリンクは東方書店通販サイトの商品紹介。
https://www.toho-shoten.co.jp/toho-web/search/detail?id=390373&bookType=ch

今回の修訂本の底本は旧版と同じく金陵書局本だが、異本を参照して修訂しているので多少の文字の異同があるのは当然である。この作業は旧版でも行われたはずだが、今回は校勘記が追記されている。旧版では校勘記は省略されていたが、同じく中華書局からこれ以降刊行された「史記」以降の二十四史(例えば「漢書」など)では省略されていないので、おそらくこの間に批評をうけて方針が変わったのだろう。中華書局本はいわば中国政府公認の「正本」であるから、校勘記が省略されていたことは長年の懸念であったに違いない。そうした事情のせいか、21世紀に入ってから二十四史の修訂作業が始められ、その成果の第一弾がこの「史記」ということらしい。実はもう2、3年前に出ていたのだが、三十一の周期とかみ合わなくて見逃していた。「史記」以外の史書に対する修訂作業は現在も継続中で、いまのところ「新五代史」「旧五代史」「遼史」が刊行されているがいずれも精装本(日本でいうところの豪華愛蔵版)のみでまだ平装本(普及版)は出ていない。いずれ出るはずだから待っている状態だ。

自宅でパラパラとめくって見たが、校勘記のせいか多少厚くなっている印象はあるけれども一字一句を比較したわけではないので今のところ違いはわからない。単に読むだけなら旧版でもそれほど困らないだろうけど、読むだけで満足できない自分がいるから困る。とりあえず今すぐ困るのは置き場所だ。本棚を整理しなければ。

なお中華書局刊の点校本で三十一が所持しているのは「史記」のほか「資治通鑑」、「漢書」、「後漢書」、「三国志」、「晋書」、「南史」、「北史」あたりだ。三十一の興味がどのあたりの時代にあるか、わかる人にはよくわかるラインナップになっている。

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2016年3月17日 (木)

「関東公方足利氏四代」


最近、14世紀から15世紀(鎌倉時代末期から戦国時代初め)という、日本史上ではかなりマイナーな時代に興味を持っていろんな本を読み漁っている。少し前に紹介した「日本中世の歴史」シリーズもそのひとつだ。この本もそうした流れの中で読み始めることになった。けっこう前から書店の書棚で見かけて気にはなっていたのだが、最近読んだ本の多くで参考文献として挙げられていたので、やはり読んでおくべきだろうと考えるに至ったのだ。こういう形で次々読むべき本が増えていく。

鎌倉、室町、江戸と日本史上に幕府は3つあるが、そのうち鎌倉と江戸はその名の通り本拠を東国に置き、京都には出先機関をおいて朝廷や西国を監視させていた(六波羅探題・京都所司代)。ところが室町の場合は幕府を京都において将軍が直接朝廷と相対し、東国にいわゆる「鎌倉府」をおいて関東を管轄させた。この点は武家政権としての室町幕府の大きな特徴と言えるだろう。足利氏の出身も東国であったから、本来は自らの勢力圏である東国に幕府を置くのが望ましい形態であったろう。しかし鎌倉末から南北朝期にかけての政情は、将軍が京都から距離を置くことを許さなかった。将軍そのものが京都にあってにらみを効かせていないと、たちまちに京都と何より朝廷(つまり「玉」だ)の支配権を奪われかねない。それは足利将軍家にとっては悪夢である。この情勢は実は南北朝が合体して南朝支持勢力の活動が沈静化してもそれほど変わらなかった。有力守護大名の連合政権の体をなしていた室町幕府にとって、必ずしも信頼しきれない大身の守護大名が京都近傍にあったからだ。山陰地方に勢力を張った山名氏などはその典型である。

さて室町幕府の鎌倉府が、鎌倉幕府の六波羅探題や江戸幕府の京都所司代と大きく異なる点がもうひとつある。それは、鎌倉府の長である関東公方(鎌倉殿)が世襲であるということだ。六波羅探題や京都所司代は、幕府から任命される役職に過ぎない。北条一門であるとか、老中格の譜代大名であるとか、おのずと家柄は決まってくるけど、その都度将軍から任命されるものだ。しかし室町幕府の鎌倉殿は、初代将軍である足利尊氏の次男基氏が初代の関東公方に任じられてから代々直系の子孫で世襲されてきた。本書のタイトルにもなっている「足利氏四代」(基氏、氏満、満兼、持氏)は直系相続である。形式の上では関東公方の就任も中央の将軍家の承認が必要になる。しかし幕府にとって事実上ほかの選択肢が無い以上、承認するしかない。それは幕府の将軍が形式の上では朝廷の任命によるものでありながら、現実には世襲を追認するものでしかなかったのと同じ構造である。
こうした事実上の世襲が代を重ねると、本来は将軍の直臣であったはずの関東地方の有力御家人(いわゆる関東八屋形など)が、あたかも関東公方との間に主従関係が結ばれたかのような様相を呈してくる。東国の中央からの独立だ。将軍家の末裔という由緒正しさと、累代の家臣たちによる支持を背にして関東公方家の自尊心は肥大化していく。本家将軍家の相続にからむごたごたもあり、将軍家と対等の立場にあるという発想が生まれ、さらには将軍家の相続に名乗りを上げ、そしてそれが受け入れられないと見ると将軍家にとって替わることを望むようになる。足利将軍家に対してもっとも安心できるはずの身内がやがて最も危険な敵に成長していく。

室町将軍家に管領という補佐役がついていたように、鎌倉公方家にも関東管領という補佐役がつく。この役職は上杉氏の山内家当主が独占することになるが、世襲ではない。その点は将軍家の管領と同じだ。この関東管領が、仕えるべき主君である関東公方と一体になって中央の将軍家に対抗するようなら大変だが、実際にはそうはならなかった。鎌倉府内部での主導権争いをめぐって、関東管領はむしろ将軍家の意を体して関東公方を抑えにかかるようになる。かくして将軍家と関東公方の対立は、鎌倉府内部での公方と管領の対立に結びつく。あたかも米ソ冷戦下での代理戦争のようだ。1416年の上杉禅秀の乱ではなぜか将軍家は公方方について上杉禅秀を敗死に追い込むが、これは将軍家内部の不穏分子である足利義嗣が禅秀方に荷担していたためのやむを得ない選択だったのだろう。この時点では将軍(足利義持)にとって身近(実弟)な足利義嗣の排除のほうが緊急性が高かった。しかしそれから20年後、ふたたび関東で管領上杉憲実と公方足利持氏の抗争が勃発(1438年永享の乱)したとき、将軍(足利義教)は関東管領を援助して公方の持氏を自殺させた。乱の勃発以前から上杉憲実は京都の幕府の支持をとりつけてあったという。かくして関東公方家はいったん断絶した。ところがその後継として将軍の実子を就任させることを画策しているうちに、当の将軍が家臣に暗殺されるという事件(1441年嘉吉の変)が起こる。将軍家の権威は地に落ち、将軍家そのものの跡目が問題とされる時期にあって、関東の正常化は後回しにされた。結局、1447年に至って持氏の遺児が鎌倉に入って関東公方を継ぐことになる。幕府が関東に手を割けない状況にあって、関東を治めるためには関東公方家の血筋が必要と判断されたのだ。将軍家による関東直接支配という目論見は崩れ去り、父を将軍家に殺された足利成氏が代々の関東公方家の由緒を背負って鎌倉に入った。結局、プレイヤーが世代交代しただけで構造は変わらず、鎌倉府内部での管領と公方の対立はほどなく火を噴く。1454年末、公方成氏は当時の関東管領上杉憲忠を謀殺し、享徳の乱が始まる。成氏は鎌倉を脱出し、上杉に反感を抱く関東有力御家人の支持を得て古河に本拠を移す。世にいう「古河公方」である。関東地方は公方方と上杉方に分かれてこれから30年近くにわたって争い続ける。関東地方は、応仁の乱(1467年)より10年以上も早く、1454年から戦国時代に突入したといわれる所以だ。

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2016年1月29日 (金)

吉川弘文館「日本中世の歴史」全7巻


2009年頃に出たシリーズなのだが、三十一は昨年の11月頃から読み始めてつい先日読み終えた。いちおう一般向けというカテゴリではあるようなのだが、だからと言ってお気楽に読めるというような本でもない。ある程度はこの種の本を読み慣れていて、かつ最低限の基礎知識は持っている必要がある。少なくとも今はやりの「歴女」が喜んで読むような本ではなかろう。

古典的な時代区分では、日本史において「中世」とは鎌倉幕府の成立から戦国時代の終わりまたは江戸幕府の成立までとするのが一般的なようだ。しかし本シリーズではカバーする範囲を院政の始まりから鎖国の完成までとやや広くとっている。終期はともかくとして、日本史において「中世」の始まりを院政期におくのは学界でかなり広く支持されている見方だと言えるだろう。なぜならば、中世をもっともよく特徴づける要素として挙げられるのがいわゆる「荘園公領制」であり、「荘園公領制」が院政期に急速に成立してきたことは明らかだからだ。中世期に存在していた荘園の成立時期を検証したところ、圧倒的多数が院政期に成立したことがわかっている。日本史上では古代とされている摂関期に、摂関家の財政を支えた機能としてしばしばいわゆる「寄進系荘園」の集積が挙げられるがこれは実際には誤りで、当時の権門貴族の財政を支えたのは請負国司制、つまり「受領制」だ。受領の収奪対象であった国衙領が荒廃して収益が求められなくなるという事態に際して、自らの収益だけでも確保しておきたいという動機から受領の収奪に遭わない私領として成立したのが荘園であり、「本所」と呼ばれた荘園領主となったのが院(天皇家)や貴族、寺社などの諸権門であり、こうした荘園公領制に支えられた諸権門(のちには武家も権門に数えられるようになる)の並立が日本史における中世の本質的な構造だと考えられている。摂関期と院政期では、社会上層の登場人物の顔ぶれにはそれほど大きな違いはないが、彼らの生活を支える社会の基礎構造が大きく変わっているのである。

そして中世を象徴する言葉が「自力救済」だ。中世は「自力救済の時代」とも言われ、いわば剥き出しの個(「私」と言ってもいいだろう)がそれぞれの権益をめぐって直接ぶつかり合う時代である。「公」と「私」の力関係で言えば、古代は「私」が未発達で相対的に「公」が有利な立場にあり「公」が「私」を従属させていたのに対し、中世にはいると「私」の発達に「公」が追いつかず、立場としては対等な「私」がぶつかり合うバランス・オブ・パワーにしたがって社会が動いていた。この「私」を編成しなおして上位構造である「公」という概念を設立し、その統制(あるいは管理)下で「私」が活動する時代が近世と言えるだろうか。
中世中期から後期にかけて、各地で「一揆」が盛んに結成された。現代の目からでは「一揆」というとまず「農民一揆」を思い浮かべるかもしれないが、「一揆」とはもともと対等な構成員が集まってある目的のために同盟する(揆を一にする)ことで、構成員は農民に限らないし目的は領主への反抗に限らない。初期の「国人一揆」は、在地の小領主である「国人」が停戦協定を結んだり、外部勢力への対抗のために同盟したりしたものだ。こうした「一揆」はいわば下から「私」を再編成しようとする動きといえるだろう。
一方で中世も後期に入ると「公儀」という言葉が使われるようになる。文字通り「公の儀」ということだが、誰しもがひとしく従うべき共通の義務、とでも言い換えられるだろうか。これまで誰からの制約もうけず独立して活動してきた「私」にとって大きな傘がかけられたようなものだ。一定の保護を受けられるようになった代償として義務も負うようになる。近世に入ると「公儀」という言葉は徳川将軍家や各藩の藩主とその権力を示すことになる。「公儀」概念の進展にしたがって「故戦防戦令」がしばしば出されるようになる。「故戦」とは私闘を仕掛けること、「防戦」とは仕掛けられた私闘に応戦することで、「故戦」側に罰を科し、「防戦」側にも事情によって罰を与えることを定めた。これは私闘を制限することで「自力救済」を否定しようとする試みとも言えるだろう。やがてこれが事情の如何にかかわらず私闘を禁止する「喧嘩両成敗」に発展していく。「喧嘩両成敗」とはきわめて近世的な発想に基づくものなのだ。こうした動きは上から「私」を再編成しようとしたものと評価できよう。

さてシリーズを読み終えて改めて今自分が生きている時代を振り返ってみると、「公」「私」の力関係はむしろ中世に近いものがあるような気がする。もちろんあからさまな私闘が許されるわけではないが、「自力救済」のために中世から何か学ぶことができただろうか。

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2015年8月25日 (火)

「歴史認識とは何か」


まずは恒例の指摘から。

1945年7月、ポツダム会議に関する記述だが、

・・・17日の正午に、スターリンがモスクワから電車で到着して、・・・・

(p.254 より)

モスクワからベルリン近郊のポツダムまで線路を復旧するだけでも大変だったろうに、電化までしてたなんて知らなかったよ(棒読み)。

ま、そんなツッコミは置いておこう。
三十一は歴史学の本をわりと読んでいる。いわゆる「歴史の本」ではなくちゃんとした学者が書いた、論文とまではいかなくても真面目な本をだ。こうした本を読んでいて思うのは、教科書や一般に流布している歴史雑誌の見方と、最近の歴史学の見方のあいだに大きな違いがあることだ。具体的にはこの本のはじめのほうに解説があるが、教科書的な(あるいは19世紀の歴史学者ランケ的な)、「史料をたんねんに読み解いていけばひとつに定まった歴史事実に行き当たる」というナイーブな見方はとっくに過去のものになった。膨大な史料が利用可能になった現在、史料の取捨選択によって歴史はどうにでも解釈できるようになる。すべての史料を平等に評価して客観的な歴史を再現する、というのは現実にはとてもできない。極端な話、「歴史事実」は人の数だけ存在するのだ。A国とB国で歴史認識が異なることを問題にする人がいるが、そもそも「国の」歴史認識があることが問題だろう。統一した歴史観を強制しようとするのは、歴史学の観点からは不健全だ。

日本人の歴史観は古くは中国から移入したものだ。そこに明治以降になって欧米流の歴史学が加わった。当時はレンケ流の歴史観が主流をなしていただろう。そのころにできあがった日本の教科書的歴史観、歴史の見方はほとんど変わっていない。アカデミックな領域では議論の的になり事実上過去のものになってしまった歴史観が、ポピュリズムの世界ではいまだに幅を効かしている。
同じようなことが国際情勢の認識についても言える。20年前に妥当だった情勢認識が、現在では不適切になってしまっていることに気づかない。「イギリスやフランスの植民地支配は非難されないのに、なんで日本は非難されるんだ」という主張をよく見かけるが、「時代が違っちゃった」のですよ。それがわからない限りは同じ誤りを繰り返すことになる。

密林の書評で低い点数をつけてる人がいて、「理念と力、最終的にどちらを優先するつもりなのだろうか」と疑問を呈しているが、そうした設問自体がすでにしてこの本の内容を読み取れていないことを示している。また「他国の指導者の判断ミス」があったことを指摘して日本の指導者にばかり責任を負わせてはいけないと言ってる人もいるが、日本人のひとりとして日本の指導者に求めるのはそうした「他国の指導者の判断ミス」も織り込んだ適切な判断であるべきだろう。さもなくば、ひとつの小さなミスも許されないというようなあまりにも硬直した政策立案になってしまう。戦争において誤りをまったく犯さないということはあり得ず、誤りの少なかったほうが勝利する、というのはそれなりに人口に膾炙した言い回しだと思うのだが、外交にも同じことが言える。他国の指導者が犯した比較的小さなミスをもって、日本の指導者が犯したより大きなミスが免罪されると考えるのはあまりにもご都合主義が過ぎる。

著者の歴史観をそのまま受け入れる必要はないが、日本が外国からどう見られてきたか、また現在どう見られているか、さらには今後どう見られるようになるかを考えていくための一助になるだろう。
現在、三十一が一番おそれているのはかつて日本が国外から「表裏の多い不信の国」と見られていた、そうした見方が再燃するのではないかということ。杞憂であるならいいんだけどね。

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2014年1月25日 (土)

「皇帝フリードリッヒ二世の生涯」

書店で見かけた瞬間に上下巻ともあわせて購入。年末の一週間で上巻を、年始の一週間で下巻を読み終える。

歴史上、著名な「フリードリヒ2世」は二人いる。ひとりは18世紀プロイセンのいわゆる「フリードリヒ大王」で、ミリタリーな人々にはもっぱらこちらのほ うが有名だろう。そしてもうひとりが、本書の主人公である13世紀の神聖ローマ皇帝だ。 フリードリヒ2世が属するシュタウフェン朝は中世ドイツ帝国における帝権のひとつの頂点をなした時代で、特に祖父にあたるフリードリヒ1世(バルバロッ サ)は有名だ。かのヒトラーは「偉大なドイツ」の象徴として「フリードリヒ大王」と「バルバロッサ」の両フリードリヒを崇拝していたと伝えられる。 だが「中世騎士の模範」とされたバルバロッサに対して、その孫である本書の主人公フリードリヒ2世は「最初のルネサンス人」と呼ばれる現代性を持ち合わせ る一方で同時代人からは謎めいた存在としておそられられた。

そうした矛盾を秘めた人格が著者の興味をひいたんだろう。
この著者の本を読むたびに思うのだが、人物に対する好悪がはっきりしていてわかりやすいけれど、あくまでそれは著者の評価でしかない。影響力のある著者だけに読んだ人が鵜呑みにするのが怖いなあ。
それから、著者が主人公のことを高く評価しているのはものすごく伝わってくるが、主人公自身の肉声がほとんど聞こえてこない。800年前の人間に向かって無茶ゆーなと言われそうだが、どうしても主人公に感情移入できない。フリードリッヒに対して以前からわりと興味があった三十一であってもそうなんだから、この本で初めてフリードリッヒを知った読者はどう思うかな。

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2013年11月25日 (月)

「兵器と戦術の世界史」


もともとは自衛隊の部内誌に連載していた記事をまとめたということらしいが、元本はけっこう古い。

この手の戦史ものを読むたびに思うことだけど、やっぱり戦闘の勝敗を決めるのは火力、特に砲兵火力の強弱だなあ。
日本の陸軍といえば火力軽視、白兵偏重で有名だけれども、その日本の参謀本部が編纂した「日露戦争」の戦史をかつて読んだことがあるが、それを読んだときにも同じような感想をもった。


もともと日本陸軍が白兵偏重になったのは、国が貧乏で火力を重視したくても現実に無理だったから、次善の方法としてやむなく白兵を採用したのだが、いつのまにか目的と前提がすり替わって「火力よりも白兵のほうが強い」という神話が誕生した。

日本人の(という言い方は本来嫌いなのだが)時代を超えた悪癖と言えるだろうが、こうであってほしいという願望にあわせて状況を評価してしまい、結果として思った通りにならずに痛い目を見るということを繰り返す。「白兵でも火力を圧倒できる」としたのは、そうでも言わないと兵士を白兵戦に駆り立てることができないための方便であったはずだが、言い続けているうちに信じてしまったんだろうなあ。現在の日本人もあまり昔の人間のことを笑えない。

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2013年6月24日 (月)

「アレクサンドロス大王」


けっこう前に読み終えた本だけど、著者が女性だというのを今知りました。

アレクサンドロス大王は世界史上の大有名人で、ギリシャとマケドニアがともに「自分たちの祖先だ」と争っている。現代から2300年前の人物に対する関係性をまじめに争うのも不毛だし、そもそもその間にはビザンチンやトルコによる支配という断絶をはさんでいるから、ギリシャにしてもマケドニアにしても直接の関係はもう無いと言っていいだろう。

この中で著者は最近のアレクサンドロス大王研究の傾向として「ミニマリズム」を指摘する。
「ミニマリズム」とは、歴史上の人物の行動の動機をあまり大きくとらず、必要最小限にかぎって考えるもので、実はこれは単にアレクサンドロス大王研究だけではなく、近年の歴史研究の一般的傾向と言ってもいいだろう。
たとえばアレクサンドロス大王やナポレオン、ジンギスカンや織田信長のような大きな業績(征服)を成し遂げた人物が、あたかも最初からこうした結果を求めて事業に着手した、と考えるのが古典的な歴史認識だった。しかし近年では、そのときどきの状況に応じて都度選択してきた結果の積み重ねが、最終的に大きな成果を生んだと考え、都度の選択の過程を研究・評価する手法がアカデミックな歴史研究では一般的になっている。
言い換えれば、最終的な結果と当初の動機を切り離して考えるということになり、よく考えれば当然のことでしかないのだが、かつてはこういった把握の仕方ができていなかった。アカデミズムの要請から自由なポピュリズムの世界においては、まだこのような「織田信長は天下統一をめざして桶狭間に出陣した」的な捉え方が幅を利かしているけど、それは結果から動機を求めるもので本末転倒だよ。

しかしこの「本末転倒」は歴史認識だけでなくいろんなところにはびこっている。

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2013年1月10日 (木)

「覇王と革命」


この本が対象としているのは 1915年から1928年までの中国。

と言って、いったいどういう時代だったかイメージできる人は多くないだろう。1912年に清朝が滅んで帝政が廃止され、中華民国が成立してから3年。当時中国の実権を握っていた袁世凱は自ら皇帝になろうとした。ところがこれに反発する西南地方を中心とする軍閥は独立を宣言、中央政府との武力紛争が起こる。これをきっかけに中国は三国志を地でいく様な群雄割拠の時代に入る。
各軍閥は首領の出身地から安徽系、直隷系、奉天系などと呼ばれ「安直戦争」(安徽vs直隷)、「第一次・第二次奉直戦争」(奉天vs直隷)と戦乱が続いた。安徽系、直隷系、奉天系は主に北京中央政府の覇権をめぐって争った軍閥だが、その他に地方で割拠する軍閥も多い。西北王と呼ばれた馮玉祥、江南をおさえた孫伝芳、山西地方を固守する閻錫山、広西を統一した陸栄廷、さらに広東で自治をめざす陳炯明といった面々がそれである。

さて広東で「中華合衆国」の「広東州」をめざす陳炯明のところに寄寓する人物がいた。辛亥革命で北京の朝廷に対抗する中華民国の設立を宣言し、臨時大総統に就任した孫文である。孫文は帝政廃止とひきかえに臨時大総統の職を袁世凱に譲ったが、やがて袁政権打倒を目指して蜂起したものの鎮圧され一時日本に亡命していた。北京から最も遠く半ば独立していた広東の陳炯明のところに身を寄せた孫文は、広東の安定を目指す陳炯明はそっちのけで政権奪取のための革命運動に狂奔した。やがて陳炯明は庇を貸して母屋をとられる羽目に陥って広東を孫文率いる国民党に奪われ、広東から出撃した国民党軍は馮玉祥などと同盟して北京の奉天軍閥政府を打倒、中国を統一した。この北伐行で国民党の実権を握ったのが蒋介石だ。

奉天軍閥の首領・張作霖は北京を放棄して本拠地の奉天に帰る途中で関東軍の河本大佐によって爆殺された。もともと日本が張作霖を支援していたのは日本が特殊権益をもつ満州の安定を望んでいたからで、奉天軍閥が中央政局に介入することを好ましく思っていなかった。中央政局に手を出した結果、ごたごたが満州にまで波及することを怖れていたのである。案の定、張作霖は中央での勢力争いに敗れて満州に撤退しようとしたところを日本に見捨てられたのである。しかしこの挙は逆に張作霖の長男で奉天軍閥の後継者である張学良を国民党側に追いやることになった。張学良が国民党政府の支配下に入ったところで著者は筆を擱いている。

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2012年12月10日 (月)

「政友会と民政党」



よかった、選挙までに読み終えることができて。

戦前、第二次護憲運動から五・一五事件までの間、政友会(立憲政友会)と民政党(立憲民政党)という二大政党が交互に政権を担当した時期があった。某一郎さんがめざした二大政党制は80年前の日本で実現していたのだがわずか10年にも足らずに機能しなくなった。なぜだろう。一般には、軍部の台頭によって政党政治が圧殺されたと言われているが、軍部の台頭を許した(少なくとも抑えることができなかった)のには、当時政権を担当していた政党にも責任がある。
この本の中で清瀬一郎の二大政党制を評した言葉:

「ただ政権争奪のための甲、乙両組にすぎない。それで争いをしようとするのだから腕力に訴えるか、相手の非をあばくかの他にすることがなくなるのは当然である」(意訳)

が引用されているが、そのまま現在にも通用すると感じたのは三十一だけではあるまい。
与党から政権を奪取するために、軍部の一部と手を組んで「ロンドン軍縮条約」や「天皇機関説」を政治問題化したのは政党だ。目先の勝ち負けのために自分で自分の首を絞めるような行動をとり、結果として政党に政権がまわってこなくなってしまったのは自業自得だが、本来国民の声を議会に吸い上げるパイプの役割をするはずの政党が機能しなくなり、ついには戦争にいたってしまった責任は重い。斎藤隆夫は終戦直後の日記に「乗ずべき機来れり」と書いたそうで、「反軍演説」で名高い代議士ではあるが政党人として戦争・敗戦をとめられなかったその責任をどう考えていたのかと思う。

さて民主党政権の3年間のみならず、自民党政権の末期も含めた近年の二大政党制運用を経た結果、国民は「いまの形の二大政党制では機能しない」ということを学習したのではないか。格差社会とは言われながらも欧米のような明確な階級が存在しない今の日本では、二大政党間にはっきりした路線の違いは生まれない。特に、所帯が大きくなればなるほど、政策は最大公約数的になって特色が出しづらくなる。むしろはっきりした政策(反原発でも原発推進でもいいが)を持った比較的所帯の小さな政党の連立によって政策を形成していくほうが国民の意見を反映できるのではなかろうか。
そもそも政党は政見を同じくするものの集合であって、政権獲得はその政見を政策にするための手段であり政権獲得そのものが目的ではないはずなのだが、手段と目的が倒置しているようにしか見えない。

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