2008年4月21日 (月)

「Soviet and Russian Lunar Exploration」

この本を Amazon で予約注文したのは2005年1月のことだった。はじめは「Race to the Moon」というタイトルで、その年の5月頃に発売が予定されていたと思う。ところが発売は延びに延びて、タイトルまで変わってようやく刊行されたのは2007年の1月だった。来たときにちょっとだけ読んだけど、待ちくたびれたせいか、ようやく手に入って安心したせいか、それとも当初とタイトルが変わってちょっとアテが外れた気がしたのか、本格的に読み始めたのはそれから1年以上経った先月半ば。きっかけは、たまたま発掘発見したこの本が圧力に負けて歪んでいたのに気づき、このままだと読まないうちに本が壊れてしまうという危機感を抱いたことだ。そんなことないと言い切れないところが辛い。

Soyuz」「The Rocket Men」と合わせたソビエト/ロシア宇宙開発3部作(と三十一が勝手に称しているだけ)。ソ連の月探査については、「Soyuz」の中で、現用ソユーズ有人宇宙船の開発過程に絡むエピソードとして少し触れられていたが、一冊まるまる読み終えてみると実に面白かった。
ふりかえってみれば、三十一が宇宙に興味を抱き始めたころはちょうどアポロ計画が終了し、スカイラブとかアポロ・ソユーズ・テスト・プロジェクトなどが細々と行われていたがスペースシャトルの飛行まではまだしばらく時間があるというような端境期で、むしろパイオニアなどのような無人外惑星探査が世をにぎわせていたころだった。鉄のカーテンの向こうのソ連宇宙開発についてはわずかな公式発表しか日本には伝わって来ず、サリュート宇宙ステーションもまだ開発途上で後のサリュート7号、ミール、国際宇宙ステーションのような常時滞在など夢のような話だった。実はあの頃、まだ密かに月探査計画が進行中であったと考えると感慨深い。当時はまったくそんなふうには見えなかったのだが。

人工衛星の打ち上げ、有人衛星の打ち上げ、月裏面の写真撮影、宇宙遊泳などでアメリカをリードしていたソ連が、なぜ月探査ではアメリカに負けたのか。このテーマは非常に興味深く、簡単に答えの出るものではない。だが、以前のように「N-1ロケットの失敗が致命的だった。しょせんソ連にはアメリカと競争できるような技術力はなかったのだ」という単純な見方はもはやできない。N-1ロケットは確かにまともに打ち上げが成功したことは一度もなかったが、打ち上げ実験のたびに問題は着実に修正されていった。数年のうちには安定した性能を得られただろうというのが、著者が紹介する現在の評価である。アポロの司令船/機械船にあたるLOKはソユーズ宇宙船と同様の構造で信頼性は高いし、月着陸船にあたるLKも数度の軌道上の試験を含めて実用性は確立されていた。そこまで準備を進めてきた月探査がなぜ最終的に打ち切られることになったのか。著者はそれをソ連の宇宙開発に対する構造的な欠陥にあると推測する。初期の開発では有効に作用した、各設計局が独自の計画を立案し、政府と党に提案して実行するという方法は、国の総力をあげて取り組まなければいけない月有人探査においてはマイナスに働いた。ただでさえライバルであるアメリカより国力で劣っているのに、月有人周回帰還と月着陸をまったく別のシステム(ロケット/宇宙船)を使って別々の設計局が実行していた。また政府/党にも月探査を主体的に行う意志がなかった。各設計局からの提案を審査し、許可(あるいは拒否)していただけだ。すでにコロリョフ亡き当時、各設計局がバラバラに実行していたこのような計画をまとめることのできる人間はいなかった。コロリョフの後継者ミーシンには前任者ほどの意志の強さはなかったし、ミーシンにとって代わったグルシュコはむしろ、コロリョフ路線の否定に走った。こうしてソ連の月探査計画は完全に死んだ。

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2008年4月16日 (水)

「うぃきぺでぃあ」を信じていいですか

こんな記事を見つけてしまいました。

呂一一型潜水艦

参考文献と脚注に見慣れた文字列が。まさかと思って Wikipedia の中で検索してみたら出てくる出てくる。どうも最近大量に更新した人がいるらしい。
そんなに信用してもらうとかえって空恐ろしくなる。ま、出典さえ明確にしてくれればいいのだが。

話がわからない人はプロフィールを見てみましょう。

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2008年4月 6日 (日)

お散歩日和

今日は久しぶりに(ぎりぎり)午前中から出かける。かねてから行きたいと思っていた国立博物館の「蘭亭序」展を観に行くためだ。上野公園はちょうど花見日和で人出が多くて邪魔そうだったけど、いつまでも引っ張っていてもなあ。上野駅公園口は予想通りの人出。この中に突入する気になれなかったので、線路沿い公園の外周をまわって国立博物館に向かう。ああ、左手に見えるのは国立科学博物館の裏手だ。これはひょっとしてL4Sロケットですか。日本で初めての人工衛星おおすみを打ち上げたロケットだ。こんなところにこんなものがあるとは不覚にも初めて知った。
目的地の国立博物館ではちょうど薬師寺展をやっているが、目的の蘭亭序展のためには通常料金で充分なのでそちらを買って入場。もちろん真筆などないのはわかっているのだが、模作や関連の書を集めて展示されている。実は一番面白かったのは、書そのものよりも蘭亭序が書かれるきっかけとなった流水の宴の情景を(想像して)描いた画だったりするのだが。ちょっと残念だったのはミュージアムショップにパンフレットか何かないかと思っていたが、期待外れだったこと。
その後は公園を出て上野駅を経て御徒町へ。スポーツ用品店を何軒かまわる。さすがにそろそろ運動をはじめないといろいろと肩身が狭い思いがする。メタボは人に非ずというような風潮はどうにかしてほしい。しかし御徒町ではあまりしっくり来なかった。さてどうしよう。この他にスポーツ用品店っていうと、神田神保町しか思いつかないなあ。しょうがない、天気もいいことだし神保町に行くか。
さて御徒町から神保町までどう行けばいいのかなあ。御徒町から秋葉原、秋葉原から神保町というルートはお馴染みなのでそれが一番簡単なのだが、必ずしも最短経路じゃないよね。結局、春日通りから中央通りをつっきって不忍通りに出、南下して靖国通りに出ることにした。結構時間がかかったけど、30分もかからなかったと思う。途中、ちょうど上野広小路亭の前を通ったのでついでに番組表をもらってきたり。
せっかく神保町まで来たことだし、ちょうど土曜日だったりするのでまずは古書店を巡回。ラヴェルのピアノ協奏曲のポケットスコアは見つからなかったけど、戦史叢書のうち未入手のもの2冊を発見、購入。用事がすべて済んだところで、改めてスポーツ用品店をめぐる。思ったより品揃えが少ないなあ。やっぱりスキーが多い。もうそんな時期じゃないと思うんだけど。結局、ヴィクトリアでだいたいのあたりをつけて品物はほぼ確定。ただ色がなかったので週明けに在庫を確認してもらうことになりました。
http://www.goldwin.co.jp/scott/bike/08bike-18sub30.html

その後、また秋葉原まで戻ってまた本を手に入れてから帰宅。結局7時間くらい歩いていたと思う。もう充分運動した気分。

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2008年3月15日 (土)

蘭亭序

上野の国立博物館で「蘭亭序」の展示が行われる、というのを朝の通勤途中に見かけたポスターで知る。
もちろん「蘭亭序」の真筆が残っていないことは知れているから模作に違いないのだけれど、模作であったとしても書聖・王羲之の筆跡を現在に伝える名作であることは確かだ。
平成館を占有するような大仰な特別展じゃなく、東洋館の片隅に一室用意して展示するだけのつつましやかな企画だけど、本館だけの料金で入れるし、近いうちに見に行こう。

そうそう。博物館といえば、鉄道博物館にも行かなくては。

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2008年2月28日 (木)

「お雇い外国人」

古典だったらしい。
講談社学術文庫シリーズは、現在では常識となっている見方を最初に示した文献を改めて再刊するというパターンがけっこう多い。気づかずに読むと無意識下の前提と異なっていてとまどうことがある。
この本もそのパターンで、「お雇い外国人」というのは現在ではかなり知られた存在になっているが、発表当時はほとんど知られていなかったらしい。だから現在の目から見れば言わずもがなの説明が散見されるし、そんな説明をするぐらいだったら実例をもっと取り上げてほしかったなどと無いものねだりの欲求が生じてくる。そんなもんだと思って読んでいればいいのだが。
三十一がまず注目するのはもちろん海軍で、ダグラスが取り上げられていたのはまったく予想通り。いっぽうの陸軍では、時代がちょっと違うせいだと思うが、ドイツのメッケルについてあまり詳しく触れられていなかった。

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2008年2月19日 (火)

「陸游詩選」

たぶん2ヶ月くらいかけてちまちまと読み続けてようやく読了。長かった。
陸游というのは、中国の南宋最大の詩人なのだが、一般的な日本人の漢詩理解は唐で終わっているのであまり知られていないようだ。しかしその80年余りの生涯の間に一万首を超す詩を創作しており、しかもその中に駄作はほとんどない、と言われる大詩人だ。
さて困ったことに宋の時代というのは、唐代に律詩絶句という詩の形式が定まってからすでに数百年を経ている。その間、李杜をはじめとして無数の詩人が詩作を行なってきたわけだ。それらは宋代の詩にとってすべて典拠になり得る。ということはつまり、この時期に直接着地したところで、それまでの数百年に詠まれた詩を知らないと意味がとれないということがしばしば起こる。まあそのための「解説」なのだけど。

解説でも触れているし、読み通してみればわかることでもあるけれど、陸游の詩は大きくふたつの系統に分類される。宋詩の主流のごとく身近な題材を叙事的に詠んだ詩と、唐詩のごとく天下国家を憂えて悲憤慷慨を叙情的に詠った詩。一見両極端のようではあるが、実際これらを読み通していくと、別に矛盾とは思えない。人間ってそういうものだろう。日々の暮らしを大切に思いながらも、社会の不正に憤る。それは私にも君にも普通に起きていることでは?

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2008年2月15日 (金)

「自衛隊の誕生」

少し前に買った本。タイトルからして絶対に読めるだろうと思って買ったのだが、いざ読み始めてみると思ったよりも進まなくてそのままになっていた。最近、自衛隊のあれやこれやを調べているので、今なら読めるかもしれないと思って読み始める。
知られている通り、陸上自衛隊は1950年の警察予備隊に端を発し、1952年に保安隊に発展し、1954年に陸上自衛隊となった。この間、再軍備のイニシアチブをとったのは米軍だった。ソ連に接する北海道の防衛に危機感をもった米軍は、数個師団を早期に戦力化して北海道に配置することを求めた。その裏には、米軍を日本から撤退させて防衛を日本に任せたいという思惑があった。日本はこの思惑に抗し、経済力にみあったバランスのとれた防衛力整備を主張した。結局米軍は折れ、最終的には18万人体制ができあがった。旧陸軍出身者は少なくとも再軍備の過程では大きな役割は果たさなかった。創設当時、警察予備隊の総司令官にあたる総隊総監、そして4つの管区隊総監は全員が官僚出身、ほとんどは旧内務省の警察官僚だった。実際に訓練をはじめてみて部隊指揮官の能力不足が露呈し、大佐級までの旧軍人の入隊が実現したのだった。
いっぽう、海軍の再軍備構想は敗戦のその日から始まった。旧海軍軍人の間には、敗戦の負い目はあっても開戦の負い目は少なかった。海軍善玉論にのって、いつか海軍を再建すべきという思いが根強く残った。しかしそれが表面に出てくるには国際情勢の変化が必要だった。朝鮮戦争の勃発によるアメリカの戦略の変化、それにともなう警察予備隊の創設は、海軍再建論者にとっても追い風となった。旧海軍関係者を中心に再軍備に関する研究が行われ、米海軍の一部の協力を得て具体化していった。問題を複雑にしたのが海上保安庁との関係である。結局、海上保安庁に付属する形で1952年4月に海上警備隊が発足したが、わずか3ヶ月あまりで独立して保安隊と合流、警備隊となった。海上保安庁はコケにされた形となり、その後の海保と海自の関係が円滑を欠いた一因になったのではなかろうか。初代の警備隊総監および幕僚長は海上保安庁から出たが、自衛隊発足後まもなく運輸省に戻り、以後旧海軍出身者が主流を占めた。
もっとも遅く発足した航空自衛隊は、もともと旧陸軍の航空関係者に根強かった「空軍独立」論者と、やはり陸軍航空隊からようやく独立を果たした米空軍の合作になる。航空戦力は陸海軍から独立するべきだという共通の基盤が彼らにはあった。実際に航空戦力が保安隊(陸上自衛隊)や警備隊(海上自衛隊)で戦力化される前に、航空戦力を統括する指揮機構を準備しておかなくてはいけないという焦燥感に駆られたのである。実際、1953年には警備隊指揮下に館山航空隊が開設されていた。しかし当時の米軍上層部には、航空戦力は米軍が担当して日本には保有させないという考えが強かった。それが覆ったのは、旧軍(海軍も加わった)航空関係者と米空軍による働きかけの結果、バランスのとれた防衛力を日本に保有させるという政策転換が米中央政府で行われたからだ。トルーマン民主党政権からアイゼンハワー共和党政権に変わったことも影響しているだろう。そういう意味では、航空自衛隊は日本の旧軍関係者と米空軍の「共同制作物」である。
用意周到頑迷固陋、伝統墨守唯我独尊、勇猛果敢支離滅裂と言われた三自の気質の違いもここに発端があると言えるだろう。統合運用が始まり、さらには内局と各幕の再編一体化がささやかれているが、こうした50年におよぶ「伝統」を突き崩せるか。

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2008年2月13日 (水)

「明治天皇4」

結局文庫で買ってしまいました。探すのが面倒だった。
日露戦争から崩御、そして乃木希典の自決まで。明治天皇の伝記は、乃木の自決で締めるのがお約束になっている。
明治という時代は憧憬の対象であるかもしれないけど、三十一から見れば次の時代を(悪い意味で)準備していた時代にも見える。まだ破綻はしていないけど、歪みが蓄積されてきていた。まあ後知恵だが。

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2007年11月 7日 (水)

「海軍提督ホーンブロワー」

旅行のために何か適当な本がないかと思って物色しているうちに発掘した本。読みかけのまま、本の山に埋もれて行方不明になっていたのである。もっとも、これまで真面目に捜索したこともないけれど。
ナポレオン戦争が終結して6年、ホーンブロワーは海軍提督に昇進してカリブ海の西インド戦隊司令官に就任していた。この地域ではジャマイカ総督に次ぐ第二位の地位、海上では他に並ぶものがない絶対的な権力を握っておきながら、実際には戦後の軍縮によって与えられた戦力は乏しく、そして責任は重いという厳しい立場に置かれていた。ホーンブロワーは相変わらずくよくよぐだぐだと思い悩む。メキシコからセントヘレナのナポレオン救出に向かう元フランス近衛兵、イギリス海軍の目を盗んでアフリカからの奴隷を新大陸に送り込もうとするスペイン船、ジャマイカの奥地に潜む山賊たち。有象無象の連中がホーンブロワーを出し抜こうとする。艦上においてはあくまで「お客さん」でしかない司令官の立場に苦しみながらホーンブロワーは任務を遂行しようとする。
ようやくシリーズ完全読破。

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2007年11月 6日 (火)

「幕末の朝廷」

だいぶ以前に「幕末の天皇」という本を読んだ。そのときにはわりと本題と関係ない感想を残しているが、実はかなり面白かったのである。その三十一の評価は外れていなかったようで、その後に出てきた幕末史、とくに幕末の朝廷に関する研究ではほぼ間違いなくこの「幕末の天皇」が引用されている。
この本も「幕末の天皇」をベースにしている。孝明天皇が幕末の政局に大きな影響を与えていることは今では定説と言っていいだろう。幕府首脳と、朝廷の首脳(つまり摂関家)、そして孝明天皇の思惑の違いが幕末の政局を動かした。その意味で、孝明天皇が幕末の最重要人物の一人であるということに異を唱える者はいないだろう。しかしそういった論調の中で著者は、孝明天皇は「開国の流れに敢然と立ち向かった英主」とされているが、実際にはそうではなかったと主張する。実は三十一は、その「これまでの評価」に違和感を抱いた。孝明天皇が開国に反対し、公武合体路線を堅持して倒幕に奔走する勢力を制肘したのは事実だが、そこに「断固とした態度」を見いだすのは正しい見方だろうか。三十一の印象では、孝明天皇が鎖国と公武合体に固執したのはむしろ「頑固な保守主義者」の当然の帰結であって、その裏には本質的に変化を嫌う小心な性格がうかがえる。そういう意味ではこの本の著者の孝明天皇論に与するものだが、「これまでの評価」をことさら対照的にとらえるのはどうかと思う。

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「昭和天皇ご自身による「天皇論」」

タイトルはセンセーショナルだけど、それほど大した内容ではない。どちらかと言えば、著者がいろんな雑誌に投稿した原稿を集めて無理矢理共通項でくくったらタイトルがこうなりました、という趣である。
2・26事件での本庄武官長とのやりとりなんかも、本庄日記の原文そのままで引用してくれたほうが緊迫感が出てよかっただろう。変に現代語訳するとなんとなく気が抜ける。もともとが雑誌向けの原稿だからしょうがないのかもしれないけど。あまり新しい内容もなく、さくさくと読み終えてしまった。

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「バロック音楽」

これは最近出た講談社学術文庫版だが、ずいぶん前に講談社現代新書で出ていたものの文庫化であるらしい。実はかなり高い確率で既読だと思うのだが、正直なところ内容はよく覚えていない。ところどころ見覚えのあるエピソードが紹介されてはいるものの、この本で読んだものかそれとも別の本で知ったのかも定かではない。
さてバロック音楽ブームと言われて久しいが、現実によく聴かれているのはバロック後期のバッハやヘンデルやヴィヴァルディや、せいぜいがパヘルベルくらいだろう。もちろん、前期バロックや中期バロック、あるいはフランス・バロックやイギリス・バロックなどのあまり知られていない音楽に触れる機会は以前に比べて格段に増えたものの、依然として好事家の興味の対象にとどまっているのが現実だ。三十一も「事を好む」という点では人後に落ちないので、興味はある。しかしそれはまだ興味にとどまっていて、バッハのように愛好するには至っていないのだな。
著者は「個人的にはヴィヴァルディはあまり好まない」と言っているが、三十一もわりとそれに近い。実はヴィヴァルディで一番気に入っているのは、有名な協奏曲ではなく宗教曲の「グローリア」であったりする。

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2007年11月 1日 (木)

バタデンと神社

今夜の夜行列車で東京に帰ることにする。理由は明白で、NFLの録画予約が明日の昼のぶんまでしかできていないためだ。夕方からのぶんは、ケーブルテレビのチューナーの予約が満杯で予約しきれなかった。まあ、頃合いかもしれない。そろそろ体力的にも辛くなってきた。

今日も今日とて、さらにさらに起床が遅くなっている。ホテルを出、松江駅のコインロッカーに荷物を放り込む。かぎをしめ、小銭入れをポーチにしまって変なことに気づく。今夜の帰りの指定券がないぞ。昨日買ったあと、このポーチにしまったはずなのだがなあ。そういえば、今朝の荷造りのときに細かいパンフレット類を旅行鞄の中に突っ込んだ記憶がある。さてはあの中に紛れたか。確認しようにも、もう鞄はロッカーの中。それだけのために閉めたばかりのロッカーを開けるのは馬鹿馬鹿しすぎる。部屋を出るときに指差確認したから、ホテルに忘れてるってことはまずないはずだ。ここは予定通り行動して、戻ってきたときに確認しよう。少し早めに戻ってきて、もし見つからなかったらそのときに対策を講じればいい。

ある意味では今回の旅のメインエベントになる一畑電車を今日一日で全線走破する。先日の銚子電鉄に続く地方ローカル私鉄の旅だ。縁起でもない言い方になるが「なくなる前に乗っておこう」というものである。「くりでん」と「鹿島鉄道」は乗り損ねたしなあ。松江駅前からバスに乗って、一畑電車の始発駅「松江しんじ湖温泉」へ。昨日、循環バスの上からこの駅は見ているのだが、改めて駅の写真をとる。ところが、次の電車まで20分近くあるのだ。今回もってきた「小型全国時刻表」にも、こちらで買った地域版の時刻表にも、一畑電車のダイヤは掲載されていない。昨日のうちにネットで調べておこうと思っていたのだが、睡魔に負けて寝てしまった。だいたい、今朝は咳が止まらず体調最悪。今日が最終日でよかった。

二両編成のワンマン電車はたぶん西武か東急あたりのお古だろう。始発駅を発車した電車はすぐ宍道湖の北岸に出る。対岸には山陰本線が走っているはずだが、はるかにかすんでとても見えない。宍道湖の景色にも飽きてきて、持参の文庫本など読んでいるうちに気づけば一畑口に着こうとしていた。この一畑口では進行方向が変わる。と言っても、これまでほぼ真西に向かって走っていた列車が北向きに進路を変えたかと思うと、そこが一畑口の駅になり、そこから南に向かって発車した列車はまたもや真西に向かって走り始める。これはかつて一畑口から北に向かって一畑薬師まで線路がつながっていた名残だが、ずいぶん昔にこの路線は廃止されてしまった。しかし今日も相変わらずここで向きを変えているのである。このあたりから宍道湖はほとんど見えなくなった。雲州平田を経て、出雲大社方面への分岐駅である川跡(かわと)に到着。これまで乗ってきた電車はそのまま終点の出雲市へ向かう。しかし、一畑電車で始発の松江から終点の出雲市まで乗り通す人はいるのかなあ。支線になる川跡~出雲大社前の間は基本的にピストン運転らしい。ここで三十一と一緒に乗り換えたのはほぼ全員が出雲大社を目当ての観光客に見受けられる。乗っていたのは10分ほどだろうか、出雲大社前に到着。

帰りの電車の時刻を確認しておいて、出雲大社方面に歩き出す。のんびり歩いても10分ほどで境内へ。そこから拝殿や本殿といった主要建造物まではさらに10分。この参道の砂利道はきれいに掃かれていて歩きやすいなあと思ったら、よく見たら下にマットが敷いてあるんでした。拝殿が見えてきたところで、太鼓や笛の音が聞こえてきた。どうもお祓いをしているようだ。ちなみに三十一は神社に来ても普通参拝はしない。それなりの礼儀は払うが、自己の良心に反することはしたくない。形だけの参拝はかえって不誠実だとも思う。上着のポケットから何かの時のお釣りだった小銭が出てきたので、それを賽銭箱に放り込む。礼も拍手もせずただ放り込むだけだ。宗教心はないが、こういった歴史的施設の維持費の足しになればいいと思うので、参拝しないこととは矛盾しない。本殿の遷宮のための浄財をつのっていたのに、幾らか払ってもいいとすら思ったくらいだ。一口千円と言われたのでやめたけど。しばらく拝殿を眺めていて、そういや肝心の本殿はこの後ろのはずだなあと思いついた。ここからでは見えなかったので気づいていなかったのである。裏に回ると本殿が見えた。本殿そのものは塀で囲まれていて、さらに手前に別の建物があるのかわずかに屋根が見えるくらいである。これじゃあなあと思ったけど、後ろにまわったほうがよく見えるかもしれないと塀の周りを一周すると、明らかに横とか後ろのほうが見やすい。あまり同じことをしてる人はいないけど。

その後、少し離れたところのバスターミナルに行ったのは、あわよくば日御碕神社まで足を伸ばそうと思ったからだけど、バスの本数がかなり少ないので断念した。少し時間があまったので、出雲大社の反対側にある古代出雲歴史博物館なる施設を見物することにした。あまり期待していなかったのだが、思ったよりも面白く、出雲大社本体よりも長い時間滞在していたようだ。その後、出雲そばなど食してから一畑電車の駅に戻り、いったん川跡まで戻ってから今度は電鉄出雲市方面の電車に乗り込む。川跡駅では両方向の電車に乗り継げるようにダイヤが組まれており、従って必然的にここで本線の電車がすれ違うことになる。つまり一時的に3本の電車が並ぶことになるわけだ。15分ほどで電鉄出雲市に到着。おそらくJRの出雲市が高架化するのに併せて一畑電車の駅も高架になったのだろう。一畑電車だけが地平で残ってたんじゃ効果が少ないからなあ。おかげでローカル私鉄には分不相応なくらい近代的な高架駅になっている。果たして誰が金を出したのやら。たぶん自治体だろうな。

一畑電車の駅とJRの駅は少し離れている。予定では一番近い特急やくもで松江に戻るはずだったのだが、どうも怪しげなアナウンスが聞こえる。やくもに乗る乗客は快速で松江まで行って乗り継げ、という内容だ。何があった? 駅でアナウンスを聞いてみると、どうも岡山あたりで事故があったらしく、伯備線のダイヤが大きく乱れていて折り返し上りやくもになるはずの下り列車が松江で打ち切られることになったようだ。出雲市で折り返す代わりに松江で折り返して、少しでも遅れを回復しようというのだろう。駅は少し混乱している。6両編成の特急に乗るはずだった乗客が2両編成の快速に流れたのだがら、座席はあっという間に埋まってしまった。三十一自身はどうしてもこの列車でなくてはいけないということでもないので、次の特急を待つという選択肢がないわけでもなかったが、この調子だと「次の特急」なんてものが予定通り来るかどうかもわからない。仕方ないので同じ快速に乗り込んだ。実はこの列車は、昨日宍道からの帰りに乗ったのと同じ列車なのだ。二日つづけて同じ列車に乗るのも芸がないと思ったので、やくもで戻る予定にしてたのだがなあ。結局この列車では、松江に着くまで立ち通しになった。

松江に着いてまずしたことは、コインロッカーから荷物を取り出して切符の確認。あったあった。これで東京まで帰れる。さて、帰りの列車が出るまでの3時間ほどどうやって時間を潰そう。まず考えたのは、どこかに本屋がないかということ。それなりの本屋があれば1時間や2時間は簡単に時間を潰せる自信(何の自信だ)があるし、帰りの列車の中で読む本を入手することもできるだろう。ところが、少し歩き回ってみたものの松江駅前にはそれなりの書店というのがないらしい。まったく書店がないわけではないけどね。駅前のデパートにも入ってみたが、書店はなかった。旅行で地方都市を訪れるたびに思うんだが、本屋のない街でよく生きていけるね。

結局本屋はあきらめ、イートインのベーカリーでサンドイッチとお茶の簡単な夕食。これは時間つぶしを兼ねているのだ。頃合いを見計らって土産物と列車の中で消費する飲み物と明日の簡単な朝食を仕入れ、ホームに上がって待つことしばし。登場したときから一度乗ってみたいと思っていた285系寝台電車、サンライズ出雲が到着。しかし残念なことに到着直前にまたもやデジカメの電池切れ。うーむ、しかしどうせ夜だからフラッシュなしじゃブレるしなあ。列車に向かってフラッシュをたくのはマナー違反以前に危険なのでやめましょう。与えられた個室は最後尾1号車の上段右側。これまで何度か個室寝台は使ったけど、上段は初めてだ。おなじく上下段になっている北斗星などのB寝台とこのサンライズが違うのは、上段下段それぞれ独立した廊下になっているということ。最近東京近郊でよく見る二階建てグリーン車と似た構造だ。従って室内に階段はない。検札が済んだところで部屋に鍵をかけ、着替えてくつろぐ。だけどこの状態だと外から丸見えのはずである。

サンライズのシングルは窓が幅広く、上下もそれなりに高い。非常に見晴らしがいい。しかし窓から外を見るためには、ベッドに座り込んで窓にもたれるしかない。長時間はつらい。いずれにせよ、外が真っ暗でとても景色なんて見れたものではない。窓ガラスがまるで鏡のようである。このままではせっかくの景色が宝の持ち腐れなので、室内の電灯を消してみる。これで外の景色が比較的よく見えるようになったが、そこまでしても外は真っ暗。なんだかんだ言って、日本の地方ってこんなもんだよなあ。やがて米子着。そういや、米子の少し手前に転車台があったけど、あれは生きてるのかなあ。すれ違いざまに見たかぎりでは、扇形車庫はからっぽ。使われていないようだ。米子でけっこう乗客が乗り込んでくる。松江で乗ったときには1両に5人くらいしか乗ってなかったから心配してたんだが。このあたりで6分遅れ。米子を出て少ししたところで日野川を鉄橋でわたる。ちょうど向かい側の下り線をEF64が牽引する貨物列車が走っていった。それほど長い編成ではないが、少なくとも連結されていたコンテナ車はほぼ満車。喜ばしいことだ。伯耆大山から右に曲がって伯備線に入る。伯備線はもちろん初めてだ。なんとなくだが、山陰本線と比べてスピードが落ちたような気がする。これまでにもまして窓の外は暗くなってきて、かなり目をこらしても景色が見づらい。しかし、かすかに目にとまった景色は、山あり渓谷ありとかなりバラエティに富んでいるようだ。やっぱり昼間に景色を見ながら通りたいなあ。やがて目に入った山中の小駅は果たしてどのあたりかと時刻表を見ると、島根県最後の駅であった。そこで改めて前方を見るとやがてトンネルに突入し、抜けたところは岡山県だ。備中神代では芸備線用と見られるディーゼルカーを見かけ、次の布原駅では下りやくもとすれ違う。このへんはSL時代の有名な撮影地で、夜に車中から見ても険しい地形が見てとれる。新見に到着したころには10分ほど遅れていた。この後はほぼ10分の遅れを保ったまま備中高梁を通過して倉敷から山陽本線に入り、岡山到着。岡山でサンライズ瀬戸と併結され、東京に向けて走り出したのもやはり10分遅れだった。その後上郡、姫路、三宮と停まっていく頃には日付が変わる。明日は東京着7時過ぎということなので、1時前には床につく。そうそう、個室内には「シェーバー専用」と注記のあるコンセントが装備されていたので、シェーバーじゃないけどデジカメを充電しておいた。寝る直前に室内の写真を何葉か。

いったん5時頃に目が覚めたがその後また二度寝して6時過ぎ、横浜到着前に放送で起こされる。外はもう明るい。片づけなどしてるうちに横浜に到着。夜中に遅れを取り戻したらしく、定時だった。しかし誰かが非常装置をいたずらしたとのことで発車は1分遅れた。東京到着もそのまま1分遅れ。荷物をかかえて通路に出ると、スーツ姿のビジネスマンがけっこう乗っていた。意外に使われているのかなあ。確かに、米子あたりを午後8時に出て、東京に朝7時には着けるのだから使いようによっては便利だろう。個室というのもあるだろうけど、やっぱり寝台列車も工夫次第でそれなりに需要は喚起できるのだよ。
Pb010057





昨日から今日の旅程:
松江しんじ湖温泉(1031)→川跡(1119) 一畑電車312
川跡(1120)→出雲大社前(1131) 一畑電車14
出雲大社前(1455)→川跡(1506) 一畑電車19
川跡(1511)→電鉄出雲市(1518) 一畑電車320
出雲市(1530)→松江(1608) 3454D
松江(1931)→東京(0708) 4032M~5032M

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2007年10月30日 (火)

ふたたびの城

なんだかだんだん起床が遅くなっている気がする。朝食をとって部屋にもどったら9時をまわっていた。米子駅の改札を入ったら、目の前でDE10が入れ換えをしていて慌ててカメラを構える。入れ換えてるのは何かの客車かなあと思ったが、よく見たらキハ181系の特急気動車だった。キハ181とキハ180の2両を引っ張っている。この説明でわかるひとはわかるだろうが、要するに片側はアタマがない状態なのだ。どうするんだろうと思って見ていたら、やがて牽機のDE10は離れていってしまい、そのうち片方にしか運転台のない2両編成は、運転台のほうを先頭にして(当たり前だ)走り去っていった。どういうことなんだろうなあ。バックできないから、その間だけDE10のお世話になったってことかな。

ついでにすぐ側にとまっていたEF64もカメラに収めたりしているうちに、下り列車がやってくる。岡山からやってきた「やくも1号」だ。381系も登場して30年以上になるけれど、三十一が乗車するのは初めてである。米子から松江まで、ほんの30分にも満たない間の乗車時間というのが少し残念なくらいだ。はじめは中海の海岸べりを走っていた線路だが、松江が近づくと宍道湖につながる大橋川が見えてくる。昨日の境水道を思い出すなあ。
松江駅も鳥取と同じ高架になっており、近代的ではあるが味気ない。

昨日の鳥取と同じく、松江にも循環バスがある。しかしこちらは一回200円で、観光客向けのコースだ。10分ほどで松江城の大手門前に到着。松江城は、市内の山に築かれたとはいうものの標高差はせいぜい数10メートル。外様の雄池田氏の居城であった鳥取城と違って、親藩の松平家が長らく支配した出雲松江城は実質的には平城と言っていいだろう。松江城の最大の特徴は山陰地方で唯一天守閣が現存していることだ。鳥取城なんぞ、江戸時代初期に天守閣が焼失して以後再建されなかったというのに。

二日つづけて城を見ているからどうしても比較してしまうが、まったく違う構造をもつ城を単純に比較してもしょうがない。とにかく本丸までのぼって下から天守閣を見上げる。中に入れるらしいのだが金が必要らしい。そこまでして高いところに昇りたいと思うほど馬鹿ではないと思うので昇らない。上がってきたのとは反対の本丸北門から降り、内堀の中に建てられている護国神社と稲荷社をのぞいてお堀端に出てくる。ところで、この神社の鳥居の前に建っている住宅はいったい何なんだろう。お城の中ですぜ。この神社の神職かなあ。

内堀のすぐ外側に建っている小泉八雲記念館、小泉八雲旧居、そして武家屋敷などをやはり外からみて、また循環バスを捕まえて駅前に戻ってきた。もう少し見所があるかと思ったのだが、三十一的にはもうおなかいっぱい。ちょうど昼を過ぎたくらいだが、午後をどうしよう。ここはやはり昨日思いついた計画を実行するか。周遊きっぷ「山陰ゾーン」にはバス路線も含まれているが、鉄道路線はJR山陰本線の鳥取~出雲市、境線・米子~境港、伯備線・伯耆大山~根雨、木次線・宍道~木次、そして一畑電車の全線。この中で当初から乗車する予定がなかったのは木次線である。この際だからここを乗り潰してしまおうというのがその計画である。

快速アクアライナーで宍道へ。この列車は益田までいく特急補完列車なのだが、30分ほどで下車。隣のホームにキハ120気動車が待っているので乗り換える。ぼつぼつ高校生が見えるなあ。正直、行きは半分くらい眠っていた。松江城に昇るのでもけっこう疲れたのである。最近体力がないなあ。40分ほどで木次に到着。走り去っていくディーゼルカーを見送り、改札を出て駅舎の写真を撮ったりしているうちに、ホームにすべりこんできたのは「トロッコ奥出雲おろち」であった。そうだった、ひょっとしたら見られるかもと思っていながら、今の今まで忘れていた。乗客がみんな降りていってしまったタイミングを見計らって、改札の中に入って写真を撮る。お仲間数名。
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駅のすぐ横にある木次鉄道部の基地に引き揚げたすぐあとに、宍道に向かう列車が入ってくる。今度はゆっくり車窓外を眺める。これまた懐かしい日本の田舎だなあ。一昨日見てきた先祖の地を思い出す。宍道に戻ってきてまたもやアクアライナーで松江に戻ってくる。途中、宍道湖畔を走っている。このあたりは電化と複線化という改善を経ているが、そのせいだろうが上下線がときどき大きく離れる。東北本線あたりでも見る線形だ。

松江に戻ってきて、そろそろ戻りの切符を確保しておいたほうがよかろうということで指定席を確保する。もし予定していた切符がとれなかったら、明日の行動に少し修正が必要になるところだったが、これでまるまる一日確保できた。

今日の旅程:
米子(0957)→松江(1020) 1011M
松江(1342)→宍道(1405) 3455D
宍道(1416)→木次(1454) 1449D
木次(1511)→宍道(1545) 1454D
宍道(1549)→松江(1610) 3454D

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2007年10月29日 (月)

城と海

今朝は昨日よりもっと遅く目が覚めた。今日は旅程に余裕があるだけに、切迫感がないのだろう。実は、余裕があるどころの話ではなく、今夜は米子に泊まるという以外何も決まってないのだ。鳥取から米子までは特急で1時間弱。その他はまるまる空白なのである。本来なら(普通の観光客なら)鳥取を訪れればまず砂丘、というところなのだろうがそこは三十一のすることである。砂丘に行って自分が何をするかまったく想像できない。つまり行って見たいものなどないということだ。天気もよくないし、違った方向で考えよう。ひとつ目についたのが、街の北にそびえる鳥取城である。石垣以外何も残ってないようだが、池田家が長年因幡伯耆両国を支配した拠点だけあって、それなりの規模はあるだろう。さて、では駅からどうやって城まで行くか。タクシーかバスかそれとも歩きか。駅の観光案内所でバス路線を研究していたら、100円循環バスというのがあって、このうち1系統で城のすぐ下までいけるらしい。20分に一本という比較的頻度の高い運転をしているそうなので、これで行って帰ってくるのがよかろう。

バスに20分ほど揺られて城跡の公園前で降りる。降りた目の前がすでに堀になっていた。左手は県立博物館、右手はかつて大正天皇が皇太子時代に鳥取を行啓したときに宿舎として建造されたという瀟洒な仁風閣。しかし今日は月曜とあってどちらも休館。しょうがないので城跡を登りはじめる。来てみてわかったのだが、鳥取城は平山城で、主要部分は平地からそれほど高い位置にあるわけではないが、背後は標高差200メートルはくだらないと思われる山を背負っており、その山頂に山上丸という最終防衛拠点が置かれていた。とりあえず二の丸まで登り、さらにその上の山上丸に向かう登山道に挑戦したが、これがかなり本格的な登山道で早々にリタイア。しかし二の丸からでも鳥取の市街地が一望できて、池田のお殿様はこんな気分だったのかなあと思う。
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ちなみにすぐ下に見えるのが仁風閣。

景色を堪能して下山し、またもや循環バスに乗って駅にもどってきたのは昼前。昼食を求めて放浪しているうちに雨がぽつりと降ってきた。雨だという予報も砂丘に足を向かわせなかった一因だ。
1時過ぎころ、乗る予定の列車には少し早いがホームにあがる。ちょうどそのくらいの時間に「スーパーはくと」が入ってくるからだ。HOT7000系で運転される「スーパーはくと」は東京にいてはお目にかかれない。今回、乗車する予定はないがせっかくだから実物だけでも見ておきたい。そうこうしているうちに若桜鉄道からの直通車両が入ってきた。4本ある鳥取駅のホームのうち、1番線にはHOT7000系のスーパーはくと、2番線にはローカルのキハ47、3番線にはこれから乗り込むキハ187系のスーパーおき、そして4番線には若桜鉄道の「さくら4号」。すべてのホームが埋まることがあるなんて思っていなかったのでちょっと意外だった。思わず記念写真を撮ってしまう。
スーパーおきでは進行方向右側、つまり海側に席を占める。もっとも、どの程度海を眺めることができるかわからないが。JR西日本が誇る(と三十一が勝手に思っている)キハ187系振り子気動車のスーパーおきは、このあと5時間かけて長駆、新山口まで走るが、三十一は1時間ほど乗るだけで米子で降りてしまう。スーパーおきの走りはかなりきびきびしていて小気味良い。昨日乗っていたキハ47とは大違いだ。比べるほうが間違っているけれど。並行する国道9号線を走る自動車を次々に追い抜いていく。実に気分がいい。昨日は逆に抜かれてたからなあ。天気予報通り、雨が降ってくる。しかしそれほど激しい雨ではなさそうだ。伯耆大山で電化された伯備線と合流して、やがて米子着。

当初考えていたよりも鳥取で時間を食わなかったので、このまま境線で境港まで足を伸ばす。できたら米子で荷物をコインロッカーに預けていきたかったんだが、乗り継ぎ時間が短かかったのでそのまま荷物をかかえて境線に乗りこむ。大篠津では、すぐ上を米子空港に着陸する旅客機が通り過ぎていく。おお、駅から駐機場のエアバスがよく見えるぞ。よく見えるどころの話ではない、境線は米子空港の滑走路延長のためにやがて迂回させられることになるのだ。だったらどうせのこと、米子空港と駅を直結して境線を空港アクセス鉄道にすればいいのになあ。

境港に到着して、すぐそばに見える港へ。境水道を挟んで向かい側には美保関半島の山がそびえている。山陰地方でも有数の港湾である境港には海上保安庁の基地があるんだが、巡視船岸壁は空っぽ。すべて出払っているらしい。あとでニュースで知ったのだが、ちょうど不審船対策の合同訓練があって、それに参加していたようだ。思ったよりも見るべきものがないので早々に引き返す。境港駅を出てすぐ、右手に更地が見えたのだが、えーと、地面の一部が黒く焦げてないか? そういや、境線沿線で火事があったってニュースがなかったかな。次の駅で大量の高校生が乗り込んでくる。しまった、そんな時間帯か。次の駅でもほぼ同数の高校生が乗ってきて車内は非常にやかましい。しかし、午前中の鳥取城登山未遂の疲れが出たのか、そのやかましさに睡魔が勝ってしまう。起きたり意識を失ったりをくり返しているうちに米子に到着。

米子で列車を降りると、ホームの向こう側に見える側線にDE15が停車していた。米子はまだ地平駅で、ホーム脇に側線が何本もひかれているという近頃珍しい構造の駅だ。ホームからDE15のショットを狙おうとデジカメを構えていたら、目の前のホームに列車が入ってくる模様である。近づいてくるのは、どうやら客車だ。いわゆるジョイフルトレインで、先頭にみえるサインによると「サロンカーなにわ」である。そう、先頭が客車ということは推進で進入してきたのだ。米子駅自体は電化されているけれど、普段JR西日本の客車列車はないから、ひょっとしたら・・・という期待通り、牽引(推進)機はDD51であった。DD511186。何枚か撮影したところで、跨線橋をわたって反対側のホームに移る。足回りを含めて写真を撮るためである。ふと見ればえらくごっついカメラを構えた男性が何人か見受けられる。鉄ですな。この団臨が鳥取方面に(あるいは岡山方面に)去っていくのを見送ったあと、改札を出てホテルへ。

今日の旅程:
鳥取(1334)→米子(1431) 1005D
米子(1437)→境港(1520) 1657D
境港(1608)→米子(1649) 1662D

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2007年10月28日 (日)

先祖の地

目が覚めて外を見ると昨日とはうって変わった青空。時計を見るとすでに8時だった。昨日2時には寝たのにたっぷり寝てしまった。熟睡できたかどうかはまた別だけど。
ホテルの朝食をとり、荷造りをしてチェックアウトしたのは9時を少し回ったころ。すぐ側の駅に向かい、コインロッカーに荷物を放り込んでタクシー乗り場へ。「海軍記念館」というと「総監部の?」 話がはやいなあ。さすが海軍の街。それどころではない、今日はアメリカの「イージス艦」が入港しているという情報を教えてくれる。ははあ、昨日駅前でアメリカ人らしい若い男のグループを見かけて「もしや」と思っていたのは正解だったようだ。

駅から総監部まではメーター1100円。何年か前に大湊でも似たような施設を訪れたことがあるのだが、ほとんど同じような印象だ。正門のところで「記念館を見学したい」と申し出ると代表者の名前と住所を記載させられて「そっちの道をあがったところの緑の屋根の建物だから」えーと、ああ、これか。展示物ははっきり言ってたいしたことなかった。いや、それなりの人にはそれなりの感慨をもたらすのかもしれないが、正直あまり新しい情報がなかったのだよ。唯一興味を引かれたのが佐久間艇長の遺書かなあ。でも舞鶴と佐久間艇長はあまり関係がない。

30分そこそこで記念館をあとにする。いちおうカメラももっていったのだがまったく使わなかった。総監部のほぼ真向かいが桟橋になっている。道路を渡るためにのぼった歩道橋から実によく見えた。あれが「アメリカのイージス艦」だな。アーレイバークかと予測していたのだが、タイコンデロガ級でした。どうみても一般人と思われる風体の見学者が見えるので、中に入れるのかなと思っていってみたら、やはり入れるらしい。米艦の近くには寄れなかったが、艦尾方向から眺めることができた。シャイローですな。自衛艦には、乗艦はできないがすぐそばから観察できる。16DD「ひゅうが」が竣工したらお役ご免となる「はるな」がまず目につく。ペンキ臭いなあと思っていたら艦尾で塗粧作業中でした。
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あとは「はまゆき」「あぶくま」、それから対岸の岸壁上に「すずなみ」。さらにミサイル艇「はやぶさ」「わかたか」「うみたか」。これらミサイル艇の艦尾ウォータージェットの構造は実に興味深かった。これは是非カメラに収めねばとデジカメを構えたらなんとバッテリー切れ。げげ、なんでこんな絶妙なタイミングで。充電器は東舞鶴駅のコインロッカーの中。憮然。

まあそれでも久しぶりに実物の軍艦を目にして気持ちはリフレッシュした。これだけでもここまで足を伸ばした甲斐があったものだ。横須賀でもよかったような気がしなくもないけれど。帰りにPXで自分へのおみやげを、ただしかさばらないもの限定で入手して門を出る。さて、来るときはタクシーだったけど帰りはどうしよう。途中でバス停を見かけたけど、次のバスを待っていては予定の列車に間に合わないことがわかっただけ。だいたいの見当をつけて駅に向かって歩き始める。途中で流しのタクシーがいたら捕まえよう。結局、空車のタクシーはつかまらず、30分ほどで駅にたどりつく。駅で手に入れていた観光地図が役に立った。

今日の泊まりは鳥取。東舞鶴から綾部に出て山陰本線という本来のルートに復帰し、そのまま下っていくことにする。昨日は夜間だったのでよく景色を見ることはできなかったが、舞鶴線沿線の景色は昼間でも大して興味をそそらない。西舞鶴駅の手前で田辺城跡公園を見かけたくらい。乗った列車は綾部からそのまま山陰本線に乗り入れて福知山まで行く。福知山は「北近畿Xネットワーク」の要の駅というだけあって、やや複雑な配線になっているけれど、乗ってきた列車が遅れたおかげでその配線を鑑賞する時間もなく、自由席特急券を買って城崎温泉行きの特急北近畿7号に乗り込む。この列車では、進行方向左側に席を占めたのだが、これには少しわけがある。

列車は福知山盆地をしばらく走ったのち、県境を越えて兵庫県に、昔で言えば丹波国から但馬国に入った。播但線と合流する和田山駅を出たあと、三十一の視線は左側窓外に釘付けになる。実はこのあたりは三十一の先祖の地、本籍地なのである。30年ほど前に一度墓参に訪れたことがあったきり、住んでいたこともないし、一泊したことすらないのだがそれでも三十一の個人情報と切っては切り離せない土地なのだ。駅を通過。しかし求める地名は線路沿いではあるものの駅から少し離れているはず。実質的にはまったく初めて見る景色なのだが、どこかにわずかでも手がかりがないかとなおも窓外を凝視していた三十一の目にやや大きな神社が飛び込んできた。これだ。このあたりがその地だ。改めて周囲を見わたしてみると、見も知らぬ先祖が生活を営んでいたかつての様子が彷彿とされる。つまり開発がそれほど進んでいない典型的な日本の田舎なのだ。逆に言えばそれくらい辺鄙な土地であったということだ。このような山村から、ありとあらゆる人々が東京に集まってきたのだなあと改めて感慨にふける。

列車が少し遅れて城崎温泉駅に到着する。ホームのアナウンスが「乗り換え客は急げ」と言っているので急ごうとするのだが、ここが終着と思われる年配の団体客が跨線橋を塞いでいた。かき分けるようにして隣のホームに移り、列車に飛び乗るとまもなくドアが閉まった。この先、城崎温泉から鳥取までの間の山陰本線はほとんどローカル線と化している。大阪京都方面から北近畿を訪れる観光客は城崎温泉から先へは行かないし、鳥取へ行くには智頭急行経由が主流になっている。かろうじて観光客を集めているのが余部鉄橋だ。この間、山陰本線は日本海沿いを走っているのだが、海岸は断崖絶壁となっていて海岸線に線路をひくなど思いもよらない。海面の高さからかなり高いところを線路は走っている。断崖がわずかに入江になったところに集落があり、その集落から崖をあがったところに線路と駅がある、というパターンがくり返される。余部も、その隣の鎧もそういうかたちになっていた。香住駅で団体客が乗り込んできて、車内はたちまち満員になった。これから2駅さきの余部まで乗車するらしい。北海道でも経験したことだが、このようにバスで駅に乗り付けてほんの何駅かおいしいところだけ列車に乗り、その間にバスが先回りするという手法が横行している。効率はいいのかもしれないが味気ない。

余部鉄橋ははるか昔(30年ほど前に本籍地を墓参したとき)に下から見上げたことはあるのだが、鉄橋上から下を見下ろしたことはなかった。今回が最初の、そして多分最後の機会になるだろう。トンネルを抜けて鉄橋にさしかかる。下を見下ろす。まるで空を飛んでいるようだ。銀河鉄道999に乗っているような気分になった。汽車の時代にはさぞ恐ろしかっただろう。

浜坂でいったん乗り継ぐ。あとは今日の目的地鳥取に到着するのを待つだけだが、その手前にもうひとつの楽しみがある。鳥取駅の手前、山陰本線が鳥取平野におりてくるその途中に、山陰本線で唯一のスイッチバック信号場があるのだ。この滝山信号場で行き違いを行なう列車は今はないようだが、しかし設備は今も生きている。急勾配を下っていく列車の中から前方を見ていると、やがて右手前方に予告信号機が現れたので「さては」と思ったら、やはりそれであった。

まもなく高架駅の鳥取着。近代的な高架駅でありながら架線が引かれていないという光景はやや奇妙だ。しかしこうした組み合わせはすでに帯広駅で経験済みなので初体験というわけではない。ちなみに、いわゆる県庁所在地駅で非電化なのは三十一が知るかぎり5つ。鳥取はそのひとつなわけだ。希少価値と言うべきなのかどうか。

今日の旅程:
東舞鶴(1253)→福知山(1334) 338M
福知山(1343)→城崎温泉(1450) 3017M
城崎温泉(1454)→浜坂(1549) 177D
浜坂(1619)→鳥取(1710) 539D

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2007年10月20日 (土)

「『夢の超特急』、走る!」

戦後日本でもっとも世界に誇れる工業的作品といえば、やっぱり新幹線なのだな。正直ほかに思いつかない。世界で初めて200キロを超える速度で営業運転を行ない、しかも開業以来半世紀近く運転に起因する犠牲者を出していないという実績は充分に誇るに足るものだ。新幹線が先鞭をつけた高速鉄道は、フランス、ドイツ、イタリア、スペインなどのヨーロッパ諸国、韓国や中国、台湾といったアジアに広まろうとしている。
しかし新幹線が計画された1950年代当時、鉄道はすでに斜陽の輸送機関とみなされていた。いまさら新線をひくのは無駄、そんなカネと土地があるなら高速道路を作ったほうがいいという言説がまかりとおっていたのである。それに対して国鉄が反論として提出したのは「新幹線と同じだけの輸送力を道路で確保しようとすると線路の8倍の幅の道路が必要になる」という計算結果だった。実はこういう計算はこのときに初めて用いられたもので、それまでは少なくとも日本ではこうした比較はなかったのである。それもアメリカで作成された論文をもとに計算したものだった。
実際に新幹線が走り始めてみると、そんな試算をはるかに超える効果を生み出したのは周知の通りである。日本人は新幹線を作らせた十河国鉄総裁と島技師長にどれだけ感謝しても足りないはずだが、あまり正当に評価されてるとは思えないなあ。

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2007年10月10日 (水)

「ナポレオンの密書」

ホーンブロワーシリーズのうち、未完に終わった断片集。「マックール」はいちおう完結してるのかな? 最初の「ナポレオンの密書」は、ストーリーの骨格くらいは推測できるところまで書かれている。いっぽうで、「海軍元帥ホーンブロワー」のほうはほとんど導入部分だけ。どちらも「ナポレオン」絡みであるところは偶然だろうか。
「ホーンブロワーの誕生」は、小説ではなく著者がこのシリーズを書き続けてきたいきさつを記したエッセイ。当初著者は、このシリーズをシリーズにするつもりはなく、あくまで初期の3部作のための主人公としてホレイショ・ホーンブロワーという人物を創作した。ところが、その後著者が着想した新しい小説の構想を煮詰めていくうちに、主人公の性格として既存のホーンブロワーが最適であることを発見し、結果としてシリーズになったしまったそうだ。本当か? そこには無意識の作為があるようにしか思えないなあ。

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2007年10月 1日 (月)

「人物アメリカ史(下)」

最初に苦言。
この訳者は軍事に詳しくないらしい。ニミッツ提督を「ミニッツ」と記載しているのは誤植もしくはケアレスミスだとして許容できなくもないが、ハルゼー(と思われる提督)を「ハルシー」と表記しているのは勉強不足としか言えない。アメリカ史上4名しかいない Fleet Admirals のうち半数の名前を間違えるってのはどうよ。

さて下巻ではマークトウェインからリチャードニクソンまでを掲載しているが、上巻と同じくアメリカの自由資本主義信奉と成長拡大路線が印象づけられる。特にヘンリーフォードの項で顕著だ。確かにヘンリーフォードは貧しい農村から身を起こして一大コンツェルンを築き上げた立志伝中の人物である。しかし、こうした「実例」の存在が大多数の民衆の生活水準引き上げを妨げてきた。実際に実例がある以上、それと同じことができないのは本人の責任、というわけである。

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2007年9月25日 (火)

「人物アメリカ史(上)」

例えばトム・クランシーの小説などを読むとつくづく思うのだが、アメリカ人はアメリカ的価値観というものに信仰とも言うべき確信を抱いているらしい。自国内で信仰する分には勝手だが、それを国外にまで持ち出さないでほしい。これまでの歴史的背景が違う地域に押しつけられても木に竹を接ぐようなものだ。
この本を読むと、アメリカ人がそのような価値観を育ててきた過程がよくわかるが、そのなかでも特に印象に残ったことがある。アメリカは初期の移民からフロンティアが消失する前世紀初頭までの300年以上の間、アメリカ人の主観的には未開発のまま放置された無主の地を獲得して開拓することで成り立ってきた。精神的にはこの「フロンティア・スピリット」は未だに生きている。この感覚は、現在のアメリカの「行き詰まったら新しい場所で新しいことを始めればいい」という発想に直結している。それはアメリカの進取の気性の源泉でもあるのだが、そのような環境を持たない地域が持っている問題への無理解を助長している。アメリカ人の目には「能力不足」の言い訳でしかないと映っている。産業への規制は格差を是正するものではなく、能力の自由な発揮を阻害するものとみなされていた時代が長くつづいた。欧州的な「均衡のとれた成長」という考え方とは無縁だったのである。一方、アメリカの成長は事実上無限に存在した資源とその消費に支えられていたから、省資源とか二酸化炭素排出の削減といった発想からも縁遠かった。アメリカのエネルギー政策の主要な関心は「エネルギーの確保」にあって節約にはなかったと思う。

こういった発想法を一朝一夕で覆すのは無理だろう。時代が変わっているということはさすがのアメリカ人も全く理解しないわけではあるまい。でも、上空から見たあのだだっ広い平野を思い出すと、発想法の違いがそう簡単に埋まるとも思えないのである。

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2007年9月 6日 (木)

「夏王朝」